友ヶ島探検

2013年5月26日(日)


昨年来、調査と検討を重ねてきた、紀淡海峡に浮かぶ無人島、友ヶ島一周を決行する日がやってきた。早起きして、和歌山の加太から、朝一番(9時発)の船に乗り込む。晴天の休日のため、満員状態だ。多くは釣り客やハイカーだが、山伏姿の人も10人ほど乗船している。



約20分ほどで、友ヶ島(正確にいえば沖ノ島)の野奈浦桟橋に到着。な、な、なんとセミが鳴いている。大阪では27度まで気温が上がるとのことだが、友ヶ島では、もっと暑くなるに違いない。まずは、観光スポットが集中している島の南西部ではなく、北東部を目指す。



桟橋から早速登り道が続く。海岸に沿って歩いている気がしないほど、密生した樹林になっている。頭上を見上げると、可愛い尻尾のリスが木々の枝の上を走り回っている。鬱蒼とした森には、イノシシやマムシも住んでいるらしいが、道はよく整備されている。



黄色い岩大戟(イワタイゲキ)の花が群生している。とても鮮やかでキュートな花だ。



海上には、釣り船がワンサカ出ている。何が釣れるのだろうか。



50分歩いて、友ヶ島(沖ノ島)の北端までやってきた。潮が引いている時には、対岸の虎島に歩いて渡ることができる。干潮の時刻を綿密に調べた結果、友ヶ島行きに最適な日が、今日だったのだ。



明治時代から戦後にかけて、友ヶ島には、大阪湾を外敵から守るための砲台がいくつも設置されていた。 これらの砲台の遺跡が、この島のあちこちに眠っている。この虎島にも、砲台跡が残っている。第6砲台と呼ばれている。



砲台の下部にある弾薬庫と思われる部屋。懐中電灯を片手に、あちこち探索する。まさに探検気分だ。しかし、1m級のヘビに出くわし、退散を余儀なくされる。



虎島の向こうは、地ノ島。何隻もの水上バイクが走り回っている。釣り、ハイキング、マリンスポーツ、そして砲台遺跡・・・。リゾート地の要素が十分にあると思うのだが、以前は熱心に宣伝していた南海電鉄も、友ヶ島行き連絡船を手放してしまった。インターネットで調べても、情報量は少ない。もっとも加太まで来ると、解り易い観光マップを入手できた。



虎島探索を終え、再び岩場を伝って、沖ノ島に戻る。海は青くて美しいけど、気になるのは、海岸の漂着物。流木、発泡スチロール、ペットボトルなど、膨大かつ多様なゴミが堆積している。



連絡船から見ても判ったのだけど、この島の北部は、砂岩の堆積層が傾斜している。



虎島から、来た道を南に戻って、深蛇池にやってきた。山伏集団のホラ貝の音が聞こえてきたので、往路では立ち寄らなかった場所だ。ここは、役行者が大蛇を封じ込めたところと伝えられる。山伏集団の祈祷によるものだろう。今日の日付のあるお札が置かれていた。



第4砲台跡にやってきた。島内の案内標識はよく整備されているのだが、方角標識ばかりで、砲台遺跡の構築物についての説明がほとんど無いのが残念だ。この煉瓦塀に瓦葺の建物も何のためのものなのか解らない。兵舎のようなものだろうか。



砲台の地底部には、弾薬庫と思しき部屋がある。弾薬庫と砲台は、上下に滑車のようなもので、繋がっていたのではないかと想像する。



砲台の構築物の内部を探検する。かなりオッカナイ。妙に湿っぽく、そして暗くて狭い。懐中電灯の明かりとカメラのフラッシュを同時に使って、何とか写真に収めることができる程度だ。



山の中を南の海岸まで歩いて、探照灯跡にやってきた。探照灯とは、サーチライトのことのようだが、建物上部は、樹木に覆われ、もはや空を行く飛行機を見上げることはできない。



島内では、最も保存状態が良く大規模な、第三砲台跡にやってきた。この建屋は幹部用の宿舎だそうだ。屋内には、床の間付の和室と判る部屋が見える。



半地下式になっている通路に面して、弾薬庫が並んでいる。弾薬庫の上には砲台が設置されているのだ。



砲台が設置されていた基礎部の跡(だと思う)。今は水が溜まって池のようになっている。



友ヶ島の最高ポイントにやってきた。一等三角点が設置されている。標高は掲示されていないが、腕時計の高度計から、120m程度と推定される。



山頂付近の展望台からは、四方が良く見渡せる。淡路島との間の狭い海峡を、大型のタンカーやコンテナ船が通過している。関空に着陸する飛行機も、友ヶ島の上を飛んでいて、空・海の双方の幹線通行ルートになっている。



再び南の海岸に出て、聴音所跡を探検する。ソナーのようなものだろうか。煉瓦造りの建物で、海に向かっていくつかの小窓が開いている。ここから海を行く船を監視していたようだ。



孝助松海岸。貝や蟹を捕まえようとしている子供たちで賑わっている。



友ヶ島の西端にある灯台。日本で8番目にできた灯台だそうだ。すぐ隣に、第1砲台跡がある。



灯台の近くに、子午線広場なるものがある。ちょうど、ここを東経135度が通過しているらしい。日本最南端と書かれている。ここより南は、東経135度は、海上を通るということだろう。



第2砲台跡。残念なことに立入禁止になっているが、海を行く敵船に向けて大砲をぶっ放すという光景が、もっとも思い描きやすいところだ。



桟橋の近くに設置されている、要塞砲弾。実戦で発射されたのだろうか。悲しいことに、太平洋戦争では、友ヶ島の要塞を知ってか知らずか、米軍飛行機は、砲台を苦にすることもなく、大阪、堺、神戸などに大量の爆撃を行った。




友ヶ島には、車で走る道が僅かのため、桟橋付近でしか車は見かけない。不思議なことに、この島の自動車にはナンバープレートが無い。道はあるものの、道路交通法で規制される公道ではないということなのだろう。



15時半発の連絡船に乗るべく、余裕をもって20分前に桟橋に戻ってきたら、既に100人程度が列を成している。まさか乗れないということは無いよねぇ・・・。心配になってきた。午後の便は、13時半、15時半、16時半の3本しかない。



山伏集団が到着した15時15分頃には、既に定員オーバー。16時半の船の整理券を渡すとのこと。それにしても、16時半の最終便に乗れなかったら、どうなるのだろうか・・・。



友ヶ島は、とても楽しくエキサイティングなところ。最高に楽しいハイキングだったけど、船がボトルネックになっている。もっとも、1日に通常4船、繁忙期には6船と、結果的に入島人数を絞っていることで、この豊かな自然と、珍しい遺跡が保護されているのかもしれない。


おまけ


帰路、加太の淡嶋神社に立ち寄った。人形供養で有名なところだ。神社のあちらこちらに、人形が供えられている。



日本人形ばかりではない。干支の飾り、信楽の狸、北海道の木彫りの熊、南方の象の置物などなど、神社の庭に、グループに分けられて供えられている。写真は招き猫グループ。



厳選に厳選を重ねたが、メチャクチャ写真掲載が多くなってしまった。友ヶ島には、面白いものが多すぎる。


まとめ


歩行距離   13~14kmくらい
所要時間   326分 (5時間26分)
歩数      26600歩 (しっかり 13000歩)


葛城山(青崩~山頂・ツツジ園~弘川寺)

2013年5月25日(土)


気温が25度を超えると、軽登山でさえ辛いのだが、先日の新聞に掲載されていた「一目一万本」とも言われる見事なツツジに誘われて、大和葛城山に登ることになった。混雑しそうな奈良県御所からの道を避け、未踏破の大阪府河南町の青崩(あおげ)からの登山ルートを選択する。



天狗谷と名付けられた渓流沿いの道を、少しずつ登り始める。いつものことながら、最初は元気がいいのだが、後半バテないように、30分に1回、しっかりと休憩を取ろうと決めて歩く。



その後、鎖場や階段などの急坂が続き、写真を撮る余裕さえ無し。30分どころか、10分おきに、息を整えるために立ち止る始末・・・。持ってきた500ミリのペットボトルを3本のうち、2本が早々に空になる。途中の水場で、水分補給ができたのは助かった。



ゴロゴロとした石や段差が多い道が続く。手元の地図には山頂までの道に、何の印もない。確かに地蔵さんもなければ、ベンチもない。どの程度歩いたかを知る目安は、腕時計の高度表示だけだ。



杉林の中の道を行く。木陰は涼しく、いい風が吹くのだが、日が当たると暑い。



丸太と石を組み合わせて作った簡易な砂防ダム。土砂や流木を塞き止めればいいのだから、コンクリートで固める必要はないのだろう。



登り始めて約2時間。標高959mの葛城山の山頂に辿りついた。大阪側も奈良側にも眺望が開け、高原状の山頂部では、とても良い風が吹く。登ってきて良かったと思わせる山だ。



南には金剛山。標高差は170mもないが、威圧感を感じさせる。手元にあるダイヤモンドトレイルの案内では、葛城山から金剛山まで、約7km、4時間弱で行けるとあるが、とても行き着けそうにない。ダイヤモンドトレイルに挑戦する日はいつか来るのだろうか・・・。



一目一万本と言われるツツジ園。見事なものだが、ピークは数日前だったように思う。



これくらいの距離からなら、綺麗に見えるが、さらに近寄ると、花がくだびれた感じになっているのが判る。



ツツジも多いが、人も多い・・・。



葛城山を後にして、下山。御所に出ることは避けて、未だ歩いたことが無い、河南町の弘川寺方面に向かう道を行く。



簡易舗装されているが、かなり坂がキツイ道を進む。このルートを登ってくるのも結構しんどいだろうなぁ・・・。



帰りのバスの時間は、14時15分の次が16時ちょうど。いくら頑張っても14時15分は無理だが、いくらユックリ歩いても16時にはタップリ余裕がある。杉林の中を、の~んびりと歩く。



もっとも、この道の難点は、やたらと分岐が多いこと。しかも案内標識が無いところが多い。人に聞きたくとも、不人気ルートなのか、ほとんど人とは出会わない・・・。勘とコンパスを頼りに、狭い道に入り込まないように歩く。



が、生い茂った草を掻き分けて進むようなところも出現する。携帯のGPSも駆使して、弘川寺方面に確実に近付いていることを確認しながら進む。



時間もあるので、弘川城の跡に立ち寄ることにする。道がかなり細い。左手は急な斜面になっている。気を付けて、ゆっくりと進む。



南朝方の要塞であった弘川城址にやってきた。巨石に「此上 弘川城址」とある。しかし、この上に進むことは無理だ。巨石には、さらに「南朝」「隅屋」「陣屋」などの文字が読める。楠木正成の一族である隅屋與市がこの城に拠り、鎌倉北条軍を相手に、奮戦空しく落城したと聞く。



道には、落ち葉がうず高く積もっている。いわゆる春落ち葉というものだ。



送電線の鉄塔の下を潜る。上を見上げていると、複雑な幾何学模様に吸い込まれそうになる。



弘川寺。7世紀創建の古刹で、西行法師終焉の地として有名。「願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」と、亡くなる15年以上も前に詠んだ歌のとおり、桜咲く旧暦2月に、この寺で波乱の生涯を閉じたと伝わる。




富田林駅に向かうバス停。不要になった椅子や傘が置かれていて、ほのぼの感が溢れている。発車まで時間があったので、河南町の下水マンホールを写真に収めるべく、周辺を探索したが、下水が整備されていない地区なのか、発見に至らず。発車10分ほど前に戻ると、どこから現れたのか、バスの時間に合わせて下山してきたとみられるハイカーが20人ほども待っていた。


まとめ


歩行距離    8kmくらい?
所要時間    290分 (4時間50分)
歩数       19200歩 (しっかり 10700歩)