伏見五福めぐり(2017年)

2017年1月4日(水) ②


お正月の恒例行事、伏見五福めぐりに今年も参加する。正月も4日ともなれば、人混みも無く、落ち着いて伏見の町を歩き回れるのではなかろうか。



伏見には、年2~3回は訪問しているが、その度になるべく歩くコースに変化を付けている。今回は、宇治川の北岸にある京阪の観月橋駅からスタートする。先日の淀川完歩では宇治川の南岸を歩いたのだが、その際じっくりと観察した近鉄の鉄橋が観月橋の向こうに見える。



観月橋から最初の御朱印ポイントとなる乃木神社までは思いのほか、急坂が続く。考えてみれば、このあたりは初代伏見城、指月城のあったところだ。JR線は勾配を避けて、深く掘られた溝のなかを走っている。



乃木神社で、御朱印を押していただく色紙を購入するが、時間もあるので、あらためてじっくりと神社内を散策する。乃木神社の本殿に掲げられた扁額?が、馬の絵になっている。



「幸せになり鯛」の石像など、どんどんダジャレ系に走っている感のある乃木神社が最近プッシュしているのが「勝ちま栗」。まあ勝負の神様を祀っているのだから「幸せになり鯛」よりは、まあいいか、とも思うが、いよいよ実際の栗が御守りの隣で販売されるていた。



続いては御香宮神社。わざわざ混雑する日に参拝することもなかろうと、参拝の待ち行列の後ろで、拝殿の極彩色唐破風彫刻を撮影していたのだが、知らぬ間に2~30人が後ろに並んでいた。意に反して参拝の行列に吸い込まれてしまった。



御香宮神社の一角にある天明義民の碑。伏見町奉行の圧政に堪えかねた、伏見の年寄7人が苦心惨憺の末、幕府に直訴に及んだ結果、奉行は罷免されるも、7人は全員が牢死したそうだ。伏見の町中に天明義民に関するモニュメントが多数見られる。



京阪本線伏見桃山駅を西にわたって伏見大手筋商店街へ。この辺りからは坂本龍馬が町中に溢れかえる。



後崇光太上天皇の陵墓。室町時代の後花園天皇の父君であり、自身は天皇に即位していないのだが、なかなかの陵墓だ。宮家が4つとなり、皇位継承の可能性のある男子が少ない現在の天皇家と、伏見宮など戦後臣籍降下した11宮家と、の分枝点が、後崇光太上天皇にまで遡ることで急に注目された。



3つ目の御朱印は、中書島駅に近い長建寺。三十石船に時を知らせたという鐘楼が残っている。もっとも、当時の鐘は戦時中の金属供出で大砲になったとのことだ。



月桂冠の大倉記念館の屋根のテッペンに白鷲が一羽とまっている。風見鶏のようでもあり、伏見の町を見張っているようにも見える。



寺田屋近くにある龍馬通り。閉店中の店舗のシャッターにも、龍馬の事績を紹介する漫画が描かれている。



4つ目のポイントは大国寺。五色幕が派手に張られている。去年まではこんな風ではなかったように思うが・・・。ここにも天明伏見義民7人の遺髪が葬られている。



最後の御朱印ポイントの藤森神社に向かっていると、源光院というお寺に、伏見義民のひとり丸屋九兵衛の墓所を発見した。他の6人が商人や職人であるなかで、唯一の農民だ。



伏見のインクライン(傾斜鉄道)跡を再訪するが、立入禁止地区が多く、インクラインを想起できるものが見当たらない・・・。発電所への取水口くらいしか撮影できなかった・・・。



琵琶湖疎水。船はここを通ってインクラインに向かっていったのだろう。



最後の御朱印ポイントは藤森神社。意外なほどに人が少ない。毎年1月2日とか3日にやってくることが多いが、参拝の長い行列が参道を埋め尽くしているのに。



藤森神社の起源と言われる神功皇后の旗塚。三韓征伐の帰路に、ここに立ち寄り、旗や兵器をここに埋めたんだそうだ。真偽はともかく、不思議なのは、ここにお参りすると腰痛に効能があるんだとか。近藤勇もやってきたというから、随分昔からの伝承なんだろうが、どういう由来なんだろうか。



そして、ここにも天明義民のひとり、焼塩屋権兵衛の碑がある。伏見の町を歩けば天明義民の遺跡にぶつかる、と言っても過言ではないが、天明義民の遺跡をまとめたようなパンフレットでもないものだろうか。一度、順々に巡ってみたいものだ。



今年も無事、5つの御朱印を収集することができた。色紙の絵柄は毎年同じ作者だが、年を追うごとに、どんどんカラフルになってきているように思える。



今年の干支、酉の土鈴もいただいた。寅が黄色だった以降、ずっと白い土鈴だが、来年の戌も白であることは間違いなかろう・・・。



JR藤森駅から帰宅。随分電車が空いていると思っていたら、次の稲荷駅でドッと人が乗り込んできた。さすがに1月4日とはいえ、伏見稲荷の人出は別格のようだ。



本日の歩行軌跡。距離は約8.5km。