大阪府沿岸歩き:泉大津~大阪市住之江(伊能でGO)

2018年1月4日(木) ②


泉佐野六社参りをあっさり断念し、南海電車に再び乗って泉大津駅にやってきた。先日来、大阪府の沿岸を歩きとおそうと岬町の和歌山県境をスタートして既に3日が経過している。今日はなんとしても大和川は超えないと5日間での完歩さえ怪しくなってくる。



泉大津は全国の毛布の大半を製造している「毛布の町」なんだけど、羊のお面を被った怪しげな「謎の羊バンド」で盛り上げを図るべく、メンバーを募集中だ。メンバーも曲も決まっていないのに、ブランケッツというバンド名だけは決まっているようだ。



今日も紀州街道を進む。田中本陣という地域の庄屋宅が残っている。立派な長屋門と長大な築地塀に囲まれた広大な敷地のなかには、大庭園や屋敷林があり、当時の建物の多くが残されているようだ。岸和田城からはさほど距離も無いところなので、実のところ紀州藩専用の本陣ということになるのだろうか。



高石市に入る。古い狛犬や灯籠があるので、さぞかし由緒のあるお寺かと思ったが、敷地内にあるのは公民館・・・。街道沿いには多くの寺社があり、そのいくつかは廃れてしまったのかもしれない。



高石神社。高石市を代表する神社に、色とりどりの幟が掲げられていて、とても華やかだ。幟は、この地でも盛んなダンジリの町割りごとに1本ずつ建てられているようだ。



南海本線羽衣駅からわずか2駅、海岸部に向かって走っている南海高師浜線の高架下を行く。羽衣駅の高架工事も進み、これまた鳳駅までわずか1駅のJR羽衣線の東羽衣駅との間を連結する歩行者デッキが設置されるらしい。



堺市に入り、本日のハイライト、南海浜寺公園駅にやってきた。1907年に設置され、国の登録文化財にもなっている洋風木造の駅舎が高架工事のため移設されている。その左で仮駅舎の運用が始っている。



曳屋工法というらしい。駅舎が基礎から切り離され、ジャッキアップされて数十メートル横移動させたというのがよく判る。



浜寺はチンチン電車、南海阪堺線の始発駅。駅名は「浜寺駅前」。駅名に駅前は無かろうと昔から違和感を感じているのだが、チンチン電車の場合、正確には駅ではなく、停留場というそうで、何も矛盾はしていないらしい。



久しぶりに5500本もの松が生育しているという広大な浜寺公園のなかを少し散策してみる。大久保利通の惜松碑がある。明治初期、大阪府がここの松を伐採するとの話を聞いて、大久保が和歌で平安以来の名勝の破壊を戒めたという。



惜松碑の傍には、堺出身の歌人、与謝野晶子の歌碑もある。堺市内には与謝野晶子の歌碑が23もあるらしい。



チンチン電車が南海本線の上を越すべく、頑張って坂を上っていく。なんだか愛おしく感じてしまう。



堺市に入ると、突然紀州街道の標柱が多く見られるようになる。堺市が建てているのはいいけど、数が多すぎはしないかぁ・・・。200~300mおきに立っているように感じる。それに、こうした取り組みは、近隣の市町村とも歩調を合わせて、街道を通して同じ標柱を立ててもらいたいものだ。



石津川の河畔に立つ北畠顕家の供養墓。奥州軍を率いて長駆上洛したが、奮戦むなしく、この地で高師直軍に討ち取られた。今も地域の方々に手厚く供養されていることが窺える。



顕家の供養塔の真ん前にあるのが太陽橋。説明板によると、どこにでもありがちな「太陽橋」という橋は日本でひとつとのこと。大和川が付け替わる前には堺を貫く主流として、巨大古墳に使われた石材を運び入れたと伝わる石津川に相応しい壮大な名前だ。



日本最古の戎社と言われる石津太(いわつた)神社。蛭子がこの地に漂着し、携えてきた五色の神石を置いたという「五色の石」が埋められたという場所が正面鳥居前にある。鳥居を潜ると北と南の2つの拝殿が並んでいる。まったく同格に見えるため、片方にだけお賽銭という訳にはいかない・・・。



紀州街道沿いにある小学校の横に古い風車が置かれている。4~50年前には、この辺り一帯には、畑の灌漑のための風車が多数見られたものだが、住宅化が進みそんな田園風景を想像することさえ難しくなっている。



堺の中心、宿院で、伊能でGOのスタンプをゲット。あらためて調べてみると、伊能忠敬って、村名主を隠居した50歳で測量の勉強を始め、55歳から71歳にかけて全国の測量をしたという。まさに一生を二度生きた人だ。見習いたい。



宿院の交差点近くにある堺コンベンション協会には、百舌鳥・古市古墳群が世界文化遺産の国内推薦が決定したことを祝う垂れ幕がある。それはいいとして、「千利休を大河の主人公に」というのはどんなもんだろう。どうもダークな雰囲気が強いだけに、それを払拭したいということだろうか。



宿院から少し北に行くと、与謝野晶子生家跡を示す立派な碑がある。これまで写真のこちら側に与謝野晶子の生家であった和菓子屋があったのだと思っていたが、よく読むと、チンチン電車が通るなど今は拡幅された紀州街道の道幅ほぼ一杯が店だったようだ。奥行40~50mもある大店だったことが判る。



ザビエル公園。フランシスコ・ザビエルがこの地にあった豪商の邸宅を訪問したことで命名されたのだが、多くの人はザビエルの銅像が無いことにガッカリする。公園にあるのは「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅」と書かれたに古い銅板が嵌め込まれたシンプルな石板だけだ。



少々違和感があるが、ザビエル公園には堺鉄砲之碑というものもある。まあ、日本史において、鉄砲伝来とキリスト教伝来とはセットのようなものなので、これでいいのかもしれない。



日没との競争のように堺市内を歩き抜けて、大和川南岸にある阪神高速に新たにできた鉄砲入口までやってきた。「鉄砲町」ではなく「鉄砲」と付けられた名前にドキッとする人も多いのではないだろうか。



暮れなずむ大和川。何度も通る道だが、昼と夜の狭間の僅かな時間にだけ見ることができる光景は、どこか神秘的なものに見える。大阪市に入ってひとつめの南海本線の駅、住ノ江駅でウォーキング終了。



本日の歩行軌跡。なんとか最低目標であった「大和川を越える」は達成できたが、足首を少し痛めてしまった。17km程度で情けない・・・。



残りは大阪市内を突っ切るのっみ。どの道を行こうかなぁ・・・。