2012年12月31日(月) -②
いよいよ「沿線散歩」も最後の10コースめ。年内に達成できそうだ。最終締切は来年5月だが、年末に1回目の締切がある。おそらく1回目の方が当選確率が高いはずだ(と思う)。
さて大物、読みは「だいもつ」だ。なんてインパクトのある読みなんだ。応仁の乱の後期、この地で「大物崩れ」と呼ばれる戦いがあった。数的に優勢だった細川高国が、ほぼ全滅というボロ負けを喫したという、これまたインパクトのある戦いだ。そんなことで大物は、少々思い入れのある土地なのだ。
大物のもうひとつの名所が、長州藩士山本文之助の墓。蛤御門の変で敗れ、この大物で自決する際に「残念、残念」と何度も叫んだそうだ。死後、民衆の同情を受け、「残念さん」と呼ばれて大阪からも墓参りが絶えなかったそうだ。木村重成も残念さんと呼ばれて、大阪人に人気があったなど、大阪人は敗北者贔屓の気質がある、との説を聞いたことがある。
さほど大きくもない、この墓地で花や線香を売っている店には「残念さん」のお守りも売られている。でも残念なことに、マップには、「大物崩れ」も「残念さん」も記載されていない・・・。
大物公園には、何故かD51が展示されている。新年を控えて、D51にも、しめ飾りが付けられている。
阪神大物駅とJR尼崎駅の中間にある、長州貴布禰神社。正月の準備に大忙しの様子だ。
JR尼崎の駅前にある、潮位モニュメント。室戸台風やジェーン台風の際に、どこまで水没したかを記録している。海岸からは、かなり距離があるように思うが、室戸台風の際は、5.1mもの水位となったようだ。
JR尼崎駅を超えて、北に向かって歩いていると、金蓮寺というお寺の山門の中にある、大きな布袋像が目に飛び込んできた。来年はダイエットせねば、と思う。
近松門左衛門の墓があることで有名な広済寺。こちらの新年の準備は万端整っているようだ。近松のスポンサーの一人が、この寺との関係が深いことから、大阪に住んでいた近松も、度々この寺を訪れていたそうだ。
広済寺にある近松の墓。大阪の谷町にあるものより、それらしい雰囲気なんだけど、大阪に住んでいた近松の墓が、どうして尼崎にあるのか、スポンサーとの関係があったとしても、どうも納得しきれない。
広済寺に隣接した近松記念館にある近松像。尼崎市は、近松門左衛門ゆかりの地として、様々な施設建設や戯曲賞提供などを行っている。工業都市の色彩の濃い尼崎にとっては、近松のような文人との所縁をアピールすることで、市のイメージをあげる狙いがあるのだろう。しかし、やはり近松といえば大阪だと思うんだけどねぇ・・・。もっとも生まれは越前らしいが。
街の象徴になるような歴史的人物は、早いもの勝ちで取り合っているような気がする。大阪というところは、近松門左衛門とか、真田幸村とか、千姫とか、福沢諭吉とか、いい人物を他に持って行かれていることが多いように思う。
阪急の手前まで北上した後は、一転南下。旧有馬街道などを通って、大物駅から一駅東にある杭瀬駅阪神線に戻る。神崎川の河畔にある、金毘羅さんの石灯籠。川の向こうは、大阪市だ。
神崎橋の袂に「神崎一心の戦」由緒碑なるものを発見した。楠木正成が一心を込めたゲリラ戦で、足利尊氏を九州に敗走させた、というものらしい。正成を持ちあげる逸話は多いんだけれど、これでは、正面で尊氏と戦っていた新田義貞の立場が無さすぎるようにも感じるのだが・・・。
ゴールの杭瀬駅の近くにあるタイガース選手の提灯を沢山ぶら下げた居酒屋を発見。タイガースファンが集う居酒屋は阪神間に多いが、「呪 讀賣」なんてのは、初めて見た。
無事、10コースを完歩し、杭瀬駅で最後のスタンプをゲットした。駅前のコンビニで記念のコピーを取ったうえで、帰宅途上の阪神梅田駅の応募箱に投函した。
ネタバレ、というほど大層なクイズでもないが、念のために答は消してブログ掲載しておこう。
おまけ
杭瀬駅の下にあるスーパーで、前田のクラッカーを発見。職場の同僚が、どこからか手に入れてきて机の上に置いてあるのを、羨ましく見ていたところだったので、即購入。50歳を超えた関西人にとっては、特別なお菓子だ。
まとめ
歩行距離 10.8km
所要時間 165分 (2時間45分)
歩数 16100歩 (しっかり 14200歩)
本日のトータル
歩行距離 22.1km
所要時間 347分 (5時間47分) 渡船と阪神電車の待ち時間・乗車時間を含まず
歩数 33300歩 (しっかり 29200歩)