2025年3月12日
富田林からバスで河南町役場前、さらに町のコミュニティタクシーに乗って平石老人集会所へ。アクセスが悪いこともあるけれど、実は10年以上前、下山時に谷道から脱け出す道が判らず遭難状態になった苦い思い出もあって、長らく敬遠してきた岩橋山に登ってみる。
リベンジのつもりで、前回下山する際に用いた岩橋山への直登ルート(地元パンフではBコースと命名されている)で登ってみよう。最も険しい道であることは判っているのだけれど、この道沿いに、久米の岩橋などの奇岩が多く見られるのだ。
要所には案内標識もあるし、厳しい登りが続くものの道に不明瞭さは感じない。前回はもっと先で道を誤ったんだろうな、などと思いながら、気楽に登っていく。ただ写真では判らないけれど、昨日の雨のせいで、道が随分と泥濘んでいるのが厄介だ。
しかしいつの間にやら道は不明瞭になり、案内標識もしばらく見ないと感じているうちに藪漕ぎ状態となる。おかしいな、とは思ったものの、ここまで分岐点は無かったはず、と前進する。実のところ、分岐点を見落とし、間違った道を突き進んでいたのだ。
さらにヤバそうな丸太橋が現れた。ここでよ~く考えるべきだったけど、分岐点は無かったと信じ切っていた。渡り始めると見た目以上にメチャやばい。撓むし、揺れるし、滑るし、さらに少し登り勾配。なんとか渡り切ったものの、再度これを渡って戻る気にはなれない。
しばらく進むが、ここでようやく登山道のひとつ北側の尾根を進んでいることに気付く。道はあるにはあるんだけれど、ポンコツハイカーでは太刀打ちできそうにない。かと言って丸太橋を戻る気にもなれず、やむなく急坂を滑り落ち南側の谷へと下る。
しかし登山道となっている南の尾根道はこの急斜面の上にあるようだ。とても登れたものではない。等高線を見ると30m以上も登らなければならないのだ。
地図を見る限り谷を進めば進むほど南尾根との標高差は増すばかり。しかも流木などで谷は荒れに荒れている。迷ったと気づいたら引き返すのが登山の鉄則とはいえ、今更尻餅をつきながら滑り落ちた斜面やメチャやばい丸太橋に戻る気にはなれない。
となると残る方向は唯ひとつ。谷を下るしかない。が、狭い谷は昨日来の雨で水嵩もあり、岩ゴツゴツで、草木や倒木・流木で覆われている。しかも棘のある木が多いのだ。
這う這うの体で谷を下り、ようやく見落としていた南尾根への取りつきを発見。同じ山で2度目の遭難状態となってしてしまうとは…。しかも普通なら遭難しにくい登りなのだ。前回はおそらく同じ川のもっと下流で谷を脱出できないまま真っ暗になったのだ。
でもまあ体力のある序盤での道迷いで未だ良かったのかもしれない。気力も体力も多いに削られてしまったけれど、南尾根の急坂を登っていく。ちゃんとした道を歩けることの有難さを噛み締める。
奇石の一番手は人面岩。確かにそう見えなくもないけど、側面が人面に似ているという人もいるようだ。大きな岩で、立派な標識も立てられているけれど、まあ大して驚くようなものではない。
さらに鍋釜岩とか鉾立岩とか、まあいろいろと巨岩、奇岩があるんだけれど、実は真打は未だこの先。でも序盤の道迷いが堪えたのか、いい加減に疲れてきた。さらに、雨まで降ってきた。
とにかく急坂の連続。10年以上も前のこととはいえ、ここをスイスイと下ったことが信じられない。日没が近づくなか、奇岩を探検しながらも随分と急いで下ったことを覚えている。もっとも急ぎ過ぎたのが仇となって道迷いしてしまうのだけれど…。
鉄塔付近が唯一眺望が楽しめるところ。でも下界は良く見通せない。どうやら山にかかる雨雲のなかにいるようだ。
でた~、久米の岩橋。他の岩と違って、明らかに人の手により加工されたものだ。伝承によれば、役行者が一言主神をこき使って、吉野の金峰山までの橋を架けようとしたものらしい。前回は日没に追われて十分な時間がとれなかったけれど、今回はゆっくりと観察する。
頂上に向かうにつれて雨脚は強まってくる。視程も随分と短いものになってきた。ダイトレ道に出たけれど、コミュニティタクシーの運転手さんと別れて以降、誰とも出会っていない。ダイトレなんて、少々の悪天候でも誰か歩いていそうなものなんだけど…。
計画より1時間以上遅れて、ようやく岩橋山(658m)に到着。雨の中、濡れたベンチに腰掛ける。ここまで泥濘を踏み分け、藪漕ぎや尻滑りばかりで、もはやパンツが汚れることなど構っても仕方ない。
岩橋山からの長~い階段を、下っていく。少々の雨は覚悟して、初めからレインジャケットを着込んできたんだけれど、ここまで悪天候だとは思わなかった。
平石峠。ここから平石の集落に下っても、コミュニティタクシーやバスがうまく繋がらない。少々距離はあるけれど、奈良県側に下ることにする。
急勾配で知られる岩橋山だけれど、奈良県側からの道はさほどでもないようだ。静かな林道をのんびりと下っていく。
葛城市に下山すると竹内街道に合流。飛鳥と難波を結んでいた最古の官道だ。推古天皇の時代に完成したというから、今から1400年以上も昔のことだ。一体どれほどの人がこの道を歩いたのだろうか。
芭蕉が滞在したと伝わる綿弓塚。綿弓とは製綿の道具だけれど、この辺りはかつては綿花栽培が盛んだったのだろうか。立派な記念館があり、誰でも俳句を投句できるようになっているけれど、まだ他人様にお見せできるようなものが即興でできるはずもない。
竹内街道に沿って見事な紅梅が咲いている。例年に比べて随分と寒く長い冬だったけれど、さすがに春はもうそこまでやってきたようだ。
距離8.2㎞、獲得標高登りが558m。所要時間は5時間半。もっともそのうち1時間ほどは道迷いで谷底を彷徨っていたように思う。