小石川後楽園(東京)

 2025年9月4日


東京に出掛けた際の空き時間に、以前から気になっていた小石川後楽園を訪問する。水戸藩上屋敷のなかに徳川光圀が完成させたという7万㎡を超す巨大な回遊式竹山泉水庭園が今も残されているのだ。



地下鉄後楽園駅をスタート。東京ドームシティ全体ももともとは水戸藩邸だったという。多くの大名屋敷が丸の内から霞が関あたり、江戸城外堀内にあったのと異なり、御三家の上屋敷は尾張が市ヶ谷、紀州が赤坂、そして水戸が小石川とどれも外堀の外にあったようだ。



あいにくの雨。台風が近づいているという。延々と続く屋敷塀が小石川後楽園を取り囲んでいる。入口がどこかを調べずにやってきたが、入口までだけでもかなり歩かされそうだ。



板塀は漆喰塀に変わったけれど、相変わらず長く続く。塀の向こうには深い緑が見られるけれど、内部がどのような構造になっているのか覗き見ることはできない。



駅から15分ほど歩いて、ようやく小石川後楽園の西門に到着。入場料は300円。のところをシニア割引で150円。



古風な枯山水の庭園を想像していたところが、西門を入ると、まずは芝生が敷き詰められた広場がある。そして庭園の向こうに見えるのは東京ドームの白い大屋根だ。なんだか不思議な光景だ。



どうやらこれが小廬山と名付けられた築山のようだ。中国の廬山に因んだ命名かと思いきや、京都の清水寺一帯が小廬山と呼ばれていることからの命名なんだそうだ。もっとも清水寺の小廬山が中国の名山である廬山に似ていることから名付けられたとも聞く。



こちらは中国の西湖の堰を模した堤なんだそうだ。園内地図を見ると、渡月橋とか白糸の滝とか音羽の滝とか蓬莱島とか、日本や中国の名所をモチーフにした造形が園内に散りばめられていることが判る。



石段を登って小廬山の山頂へと向かう。標高はわずか12mしかないけれど、YAMAPでは「山」として認定されていて、これに登るだけで1ピークゲットということになる。



得仁堂。光圀が崇敬した伯夷・叔斉の木像が設置されているという。兄を差し置いて世子となった光圀にとって、互いに王位を譲り合ってついには共に出奔してしまったという伯夷・叔斉の伝記は大いなる影響を与えたようだ。どうやらこの辺りが小廬山の山頂らしい。



超低山とはいえ、小廬山の辺りはまさに山道そのもの。都会のど真ん中であることを忘れてしまいそうになる。大名庭園がどこでもこのような大規模な土木工事が施されたものとは思わないけれど、水戸徳川家の権勢を痛感させられる。



円月橋。水面に映る橋が満月のように見えることから名付けられたそうだ。設計は光圀が敬愛し、水戸学にも大きな影響を与えたと言われる明の儒学者、朱舜水が設計したものだという。



京都や中国ばかりではない。この川は木曽川だ。寝覚ノ床まである。大名庭園とは好む名所旧跡をモチーフにした景観を配したようだ。それぞれの大名が競い合うように立派な庭園を江戸中に造り上げたようだけど、200年後の江戸幕府崩壊の遠因のひとつと思えてならない。



九八屋と名付けられた酒亭。「酒は昼は九分、夜は八分にすべし」という格言がもとになっているらしい。腹八分目と同じような意味だけど、昼から九分の酒というのは現代では共感できそうにない。



庭園の真ん中にある大泉水。当然もともとあった池であろうはずはない。江戸ではこうした水を引くのも大変だったのではなかろうか。蓬莱島とか竹生島とかもある。



東門付近にも池が配されている。こちらは水草で覆われている。庭園全体を通じて水域が多いことに驚かされる。さらに驚くのは庭園内を散策する人の9割ほどは欧米からの観光客だということ。今や日本人より観光客の方が訪れるべき名所を知っているようにさえ感じる。



唐門。これが小石川後楽園の正門になるようだ。日光東照宮にも見られるような精緻で極彩色の彫刻が施されている。戦災で焼失したものを、数年前に再建したものだというが、上手く再建したものだ。



孔雀とか蓮の花だろうか。令和になってからの再建とは思えない装飾が復元されている。



園内を散策しているうちに雨はあがり、池などの景色も随分と違って見えてきた。更に四季折々で異なる風景が楽しめただろう。泰平の世になって、参勤交代で江戸に長く住まわされたのだから、風流に走る気持ちは判らぬではないけど、もっとやるべき事があったでしょ。



園内をくまなく歩けば1時間はかかっただろうと思われるけど、約30分程度で東門から退出。ほんの少しだけれど、大名気分を味わうことができた。



歩行距離2.2㎞、所要時間50分。雨が降っていなければ、もっと楽しめたと思うけど、こればかりは仕方ない。






三好山・芥川城跡(高槻市)

 2025年8月8日


相変わらず酷暑が続くけれど、今日はほんの少しマシなような…。以前から訪問したかった芥川城跡がある三好山に登ってみることにする。織田信長より前に、戦国時代最初の天下人となったと言われる三好長慶の居城として知られるところだ。



住宅街を抜けるように、坂を登っていく。道は複雑に入り組んでいるけれど、幸い道標はしっかりと整備されていて、道に迷うこともなさそうだ。



登山口には、芥川城のかつての縄張り図が掲示されている。城の北と西は摂津峡の断崖絶壁となっていて、三好長慶の領国であった、阿波・讃岐・淡路・摂河泉を背後にしながら京に睨みを利かす好立地でありつつ、防御性も高い城であったことが窺える。



空調服+ネッククーラーの出で立ちでやってきたこともあって、心配していたほどの暑さでもない。日なたはさすがに日射しがキツイけど、木陰になった登山道はよく整備されていて、歩きやすい。



正午過ぎに歩き始めたものだから、暑さにすぐ参ってしまうと思っていたけれど、意外に好調。三好山に向かう前に、行き掛けの駄賃よろしく、帯仕山へと立ち寄ることにする。ところがメインの三好山と違って、帯仕山への道はかなり不明瞭。



鬱蒼とした林を潜り抜けると、空が青い。日射しが強くて眩しい。急に暑くなってきたように感じる。



どうやら、この辺りが帯仕山(192m)の山頂。って、山頂の向こうには家々の屋根があるじゃないか。山頂ギリギリまで住宅街が開発されてきたようだ。意味は分からないけど、おびしやま、と読むらしい。芥川城の支城があったようだ。



帯仕山から鞍部を経て三好山へと向かう。かなり広い平地が見られる。きっと芥川城の曲輪があったところに違い無いと思うんだけれど、何の説明板も見当たらない。




少しずつ進んでいくと、いよいよ山城らしくなってきた。これは堀切だろうか。急坂を挟んで左右に土塁が構築されているように見える。



史跡「城山城跡」の碑が立つ。三好山は城山とも呼ばれるらしいけど、城山なんて全国に何十とあるんじゃなかろうか。最近、芥川城は国の史跡に指定されたけれど、大規模な防衛施設というだけでなく、京を凌ぐ政庁機能がここにあったということがその理由らしい。



山頂付近まで登ってくると、高槻の街から大阪市内の高層ビル群までを見通すことができる曲輪跡がある。京の入口に圧力をかけつつ、大阪平野全体を支配する好立地であることを痛感させられる。



さらに少し登れば、かつて主郭となっていた三好山山頂(182m)だ。以前は芥川山城と呼ばれることが多かったように思うけど、どうやら最近は芥川城に統一されているようだ。



安っぽい看板だと眉を顰める人もおられるかもしれないけれど、幟や看板があるだけで、山城跡の雰囲気は容易に高まるように思う。三好長慶といえば、この肖像画が有名だけれど、どうやら実物は高槻城址の博物館にあるらしい。一度見に行きたいものだ。



スマホによれば、気温は34.4度。40度に迫ろうかという気温が続いていただけに、随分と過ごしやすく感じる。何だか暑さに麻痺してきているような気もする。



山頂にある三好長慶を祀る祠。地元の有志がお金を出し合って最近再建したものなんだそうだ。長慶が息子義興にこの城を譲り、自身は飯盛山城へと移ったあたりから三好氏の急激な凋落が始まる。義興、長慶が相次いで亡くなり、そして信長が上洛してきた。



長慶の享年はなんと43歳。もう少し長生きしていれば、天下の趨勢は大きく変わっていたかもしれない。近年長慶の評価は急上昇しているようで、NHK大河への運動も盛り上がっているようだ。長慶をどのように描くのかを見てみたいものだ。



下山は大手筋から。メイン登城道とは思えないような急坂だ。草に覆われて古い石垣も確認できる。



大手筋には蜘蛛の巣が多い。山頂付近では何人かのハイカーと出会い、お喋りも楽しんだりしたけれど、この道は通らないものなのか。誰かが通っていたなら、蜘蛛の巣はもう少し払われているはずだ。



山を出口にある獣除けの柵。3ヶ所に金網を縛る紐が括り付けられている。紐を外すのも再度取り付けるのも結構邪魔くさい。やはりこの道はかなり少数の人しか利用しないようだ。



下山口近くにある、浴場施設でゆっくり汗を流す。美人の湯とあるのがちょっと気恥ずかしくもあるけれど、いいお湯だった。下山口に温泉があるっていうのは最高だ。



距離4㎞、登り獲得標高225m、所要時間2時間20分。休憩たっぷりの軽いのんびり歩きだったけど、真夏の山歩きはこの程度が限界だ。







海上自衛隊阪神基地隊フリートフェスタ

 2025年7月13日


メチャクチャ暑くて、山どころか駅まで歩くのさえウンザリ。ブログの更新もできないまま長い期間が経ってしまった。まあ全く外出しなかったわけでもなかったので、そのなかでも神戸の東灘区の海上自衛隊のイベントを覗きに行ったことを遅ればせながらアップしたい。



朝からとんでもない猛暑。以前伊丹の陸上自衛隊の自衛隊のイベントが凄い人出だったことは知っていたけれど、海上自衛隊阪神基地はさほど大規模な基地でもないから、とタカを括っていたのが大間違い。500mほども入場待ちの見学者が並んでいるではないか。



こんな炎天下だから、気分が悪くなる人が出てくるのも当然。海上自衛隊もここまでの酷暑と判っていたなら、こんな日にイベントを開催しなかったのではないだろうか。もっともさすがに海上自衛隊の医療班が直ちにやってきて救急処置を施している。



20分ほども並んで、ようやく入場。水も持たずに呑気にやってきたけれど、かなり大変なイベントだ。多くの人はリピーターなのか、日傘などしっかりと準備してやってきている。




魚崎の沖合の人工島の東南角地に立地する阪神基地は地図で見る限り150×250m程度。さほど大きくない会場内は大混雑だ。まずは比較的人の少ない南の岩壁に停泊している海上保安庁の巡視艇はるなみの傍に行くけれど、乗船の待ち時間は20分。もう並ぶ気にはならない。



海上保安庁と同様、協賛の形で参加している神戸市消防局の消防艇たかとり。雄々しく放水銃を掲げている。



東の埠頭には、海上自衛隊の艦船が停泊している。これは輸送船にほんばれ。陸上部隊を輸送する船のようだ。装甲の厚みを感じる。今年3月に就航したばかりだ。



おそらくこのスロープから陸上部隊の車両が上陸するのだろう。こちらの乗船待ち時間はなんと80分。この暑いなか、随分と熱心な見学者が多いことに驚かされる。



にほんばれの北には、掃海艇のうみ。多分瀬戸内海の能見島からの命名だろう。こちらも今年3月に就役したばかりだ。輸送船とか掃海艇より、潜水艦とか護衛艦とか、もっと派手な艦船を期待していたけれど、このイベントは新船お披露目の意味合いが強いのかもしれない。



掃海艇って、機雷の除去が主な役割だという。地味な役割のようだけれど、艦上にはレーダーやソナーなどカッコいい探知設備が並んでいる。磁気で作動する機雷に対応するため、なんとプラスチック(FRP)製なんだそうだ。



艦上には砲門も設置されている。湾岸戦争の際、掃海艦がペルシャ湾に派遣されたことを記憶しているけれど、今後も戦闘艦より掃海艦の方が海外に派遣される可能性が高いのかもしれない。



FRP製という艦体に触れてみたいものだと思ったけれど、こちらも75分待ち。この炎天下では10分が限界だ。



艦船への乗船見学は諦めて物販のテントを見て回るけれど、飲食系のテントは大行列。何か飲み物が欲しかったけど、並ぶ気にならない。



物販テントでは自衛隊関連のグッズがてんこ盛り。海軍以来の名物カレーが気になる。でもカレーだけでも沢山種類がある。潜水艦のカレーとか、南極観測船のカレーとか、気になるけれど700円は安くはない…。



せっかくなので、と購入したのは、海上自衛隊のキャップ。陸上自衛隊は緑~茶色系の迷彩柄だけど、海上自衛隊は濃紺系の迷彩柄だ。



南側の人工島は六甲アイランド。埠頭にはフェリーが停泊している。



基地の真ん中には大きなヘリポート。災害時にも活用されるんじゃなかろうか。



結局ブラブラと基地内をうろついただけで帰宅の途に就く。このイベントのために市バスも臨時便を出しているけど大行列。倉庫や工場などばかりの人工島なので、自販機も多くは見られないし、やっと見つけても売り切ればかりというかなり過酷なイベントだった。