中山道(13)(八幡~和田)

 2025年5月14日


一昨年の暮れに日本橋をスタートした中山道歩きだけれど、1年半ほどかかって未だ24番目の宿場町、八幡宿。ここからがアクセスも悪い山深い地域に入っていくことになる。宿泊場所も限られているため、何としても24㎞ほど先の和田宿まで歩かねばならない。



八幡宿を出て、しばらく進むと、早くも望月宿の入口を示すような石碑が現われた。意外と簡単に到着したと思ったけれど、これは望月宿の入口というより、八幡と望月の境界線でしかないようだ。



望月の入口から瓜生峠を越えて宿場町まで歩いていくんだけれど、様々な道案内が交錯していてややこしい。ガイドブック、GOOGLEマップ、YAMAP、それぞれ中山道の道筋が微妙に違うし、現地でも複数の標識が違う方向を指し示している。



どうせなら、なるべく古い道を歩こうと、荒れた山道を歩いて、ようやく望月宿に到着。本陣を務めておられたお宅は医院になっていたけれど、脇本陣は今も当時の雰囲気を残している。小さな町だけれど、街道ウォーカーのためのトイレも用意されているのが嬉しい。



望月はかつて馬の名産地で、満月の日に朝廷に名馬を献上していたことから町の名前が望月となったそうだ。かつては馬を飼育する広大な牧が広がっていたというけれど、今では水田ばかりで、牧場の名残りは感じられない。



望月宿からしばらく歩くと、宿場間の距離が長いところに設置された「間の宿」、茂田井に到着。間の宿なのであまり期待もしていなかったけれど、古い土蔵や白壁造りのお屋敷などが立ち並ぶ、旧街道の名残りを色濃く残す街だった。



古い酒蔵も2軒残っている。道幅も当時のままのようで、長く続く白壁に沿って歩いていると江戸時代の旅人気分になれる。



間の宿にも関わらず、高いプライドを持って町を保全し、旅人をもてなしてくれていることが判る。ウォーカーのための立派なトイレ(厠と表記されている)やベンチなども用意してくれている。



雲りがちで浅間山も霞んでいるし、標高は700mほどもある高原地帯なんだけれど、気温は25度超。かなり暑く、歩くのが辛くなってきた。



芦田宿。道幅は拡張されているけれど、旧宿場町を彷彿とさせる木造の旧家が並んでいる。本陣、脇本陣ともに、当時のままではないだろうけれど、今もそれらしい建物が立っている。醤油・味噌・酢を伝統の天然醸造でつくる創業130年超の酢屋茂も軒を並べている。



江戸時代(文化元年)から220年以上営業を続いている金丸土屋旅館。かつては「津ちや」という屋号だったそうだ。広い間口に連子格子、白壁、卯建、天水桶…。時代劇に登場するような造りだ。ここに宿泊することも考えたけれど、まだスタートして9㎞でしかない。



難所の笠取峠を前に、古い松並木が1㎞ほど続く。決して行儀の良い並木ではないけれど、それが逆にいい趣を醸し出している。江戸幕府が中山道整備をした際に、17世紀初頭にここに植樹して以来、地元の方々が大切に補植、保全を続けてきたようだ。



松並木の西端にある東屋には、地元の小学生が手書きで作成したパンフレットが設置されている。松並木をもっと良いものにするための意見を書いてほしいと、ノートも用意されている。チラッと中を見たところ、3割くらいは海外の方のコメントだった。



国道142号線を笠取峠に向かって登っていく。中山道を継承しているにしては、大きな国道ナンバーだ。明治以降、追分からの北国街道に沿って道(国道18号)や鉄道(信越本線)が整備され、こちらは完全に取り残されてしまった。



気楽な国道の歩道歩きと思っていたのが大間違い。結構勾配がキツく、体力が消耗される。標高900mの笠取峠を越えると、「中山道原道」と書かれた案内標識や道路上の矢印が現れる。覚悟を決めてガードレールの隙間から山中へと入っていく。



おそらく車道を歩く方が距離は長いような気がするけれど、体力的な消耗は少なく済むはずだ。道が不明瞭なところや、案内板が無いところもあって、行き止まりで引き返すことを繰り返す。



予想をかなり上回る疲れを感じながらも、長久保宿に到着。長久保宿の古い旅籠の様子を体感できる歴史資料館「一福処濱屋」で長い休憩をさせていただく。



東西方向の竪町と、南北方向の横町から成る、珍しいL字型をした宿場町だ。和田峠と笠取峠という二つの難所の間に位置する窪地であることから、元は長窪という町名だったそうだ。



既に15㎞以上歩いているけれど、8㎞先の和田宿を目指す。それでも次の宿場町の下諏訪宿まで峠越えの24㎞の道程が残る。「峠前最終コンビニ」と書かれているけれど、下諏訪まで無いはずだ。30㎞もコンビニが無い国道なんてあって良いのか、などと憤慨したくもなる。



食料も飲料も調達が困難な地域に入るにあたって過剰とも思われる物資を購入。荷物は重く地味な登りが続く。気温も上がってきた。足腰はヘロヘロだけど進むしかない。「これより和田の里」とあるけれど和田の入口に過ぎず、和田宿はまだまだ先ということは学習済みだ。



何も無い退屈で辛い道が続くけど、面白いのが様々なバス停があること。雪深い地域だけに屋根付きのバス停は必須なのかもしれないけれど、これほど立派なバス停なのに、なんと一日1本しかバスは来ないのだ。近年ドンドン減便が進んでいるようだ。



中山道沿いに羽田孜元総理のお墓がある。長野県選出とは知っていたけれど、この辺りが出身地らしい。決して質素なものではないけれど、銅像や事績の掲示もない嫌味の無いお墓だ。



クルミ農園がある。クルミなんて、ほぼ全量輸入だと思っていたけれど、長野県東部ではかなり盛んに栽培されているようだ。



和田宿まであと2㎞くらい手前で足を攣り始めてしまう。芍薬甘草湯を飲んでしばらく休憩して歩き始めるけれど、また攣ってしまう。既に限界突破しているようだ。まさに足を引きずるように、和田宿まで辿り着いた。



和田宿本陣。疲労困憊だというのに、今日の宿は風呂無し食事無しの文久元年築の旧家を転用したところだ。宿で1時間ほど身動きもできなかったけど、食欲には逆らえず、小高い山の上まで20分ほど歩いて和田宿温泉「ふれあいの湯」まで食事・入浴に出掛ける。



距離24㎞、獲得標高725m、所要時間は9時間半。これくらいの距離はさほど苦しむことなく歩けると思っていたし、立体地図(上が北東)で見る限り大した山道を歩いたようにも見えない情けないことに限りなくボロボロ状態だ。



和田宿での体調次第で翌日和田峠越えをして下諏訪を目指すつもりだったけれど、到底無理だ。翌朝の一日一本のバスで撤退する。果たして和田峠を越えることができるのだろうか。今日の行程より更に厳しいはずだ。すっかり自信を失ってしまった。


なるかわ園地ツツジ園(東大阪市)

 2025年5月8日


4日前の安土山で痛めた右膝の痛みも少し和らぎ、膝のサポーターも購入。「なるかわ園地」のツツジを見に行くことにする。ナビに超細い道を案内され、すれ違いで100mほどもバックを余儀無くされ、車の側面をこするというトラブルの末、最寄りの駐車場までやってきた。



最寄りの駐車場からでもなるかわ園地までは1時間ほど登らねばならない。膝の負担を軽減するためのトレッキングポールを持ってくるのを忘れ、サポーターの効果も不明。不安はあるものの、帰路に利用するつもりの「らくらく登山道」のトンネルを横目に登り始める。



鳴川峠に向かう道は一昨年の紅葉シーズン以来。さほど険しい道でないと記憶しているけれど、メチャクチャ暑い。なんと25度もある。夏日じゃぁないか。序盤は膝の痛みは感じられず、サポーターによる膝の締め付けに少々不快感を感じながらも快調に登っていく。



しかし登るにつれてイヤな階段が続々と登場してきた。あまり無理しないようにゆっくりと進むけれど、段差がさほど高くないせいか、右膝に特に負担を感じることはない。あるいはサポーターが効いているのかもしれないが…。



登り始めて50分ほどで、なるかわ園地のツツジ園に到着。ツツジ園の手前からツツジの香りを感じるほどだ。2500株が植えられていると聞くけれど、ピンと来ない。



赤、白、ピンクのヒドラツツジが入り乱れて絨毯のようにフカフカした花垣を作っている。花垣の上に寝転びたくなる。さらに見ようによっては、とても甘そうなラムネ菓子のようにも感じる。



ツツジの花が丸みを帯びた形に整えられている。どうやらこれをツツジロールと呼ぶらしい。平日というのに人の数はとても多く、人が映りこまない写真を撮影することはなかなか難しい。



九十九折れのハイキングロードの左右に人の背丈を上回るような高さのツツジロールが切れ目なく続いている。いやはや見事なものだ。



歩いてきた九十九折れの道を振り返ると、さらにツツジロールの分厚さ、雄大さが感じられる。これだけのツツジ園を維持・管理するのは、大変なご苦労があることだろう。



ツツジロールを見下ろす丘の上には、何脚もの椅子が用意されていて、誰もが見飽きることが無いかのようにいつまでもツツジロールの絶景を堪能している。



幸い膝の具合は悪くない。調子次第では来た道をそのまま戻るつもりだったけれど、ツツジ園を北に抜け、旗立山のピークを取りにいく。



旗立山山頂への道。まっすぐに階段を登っていく。この辺りで、そういえば少し膝が痛いような気もする…という程度に微妙な違和感を感じ始める。



旗立山山頂(486m)。その名から間違いなく旗振山のひとつだと思っていたけれど、手元の参考文献によれば、違うようだ。大阪から奈良に向けての旗振通信ルートは暗峠のすぐ北にある天照山らしい。



雲ひとつない見事な晴天はいいけれど、日射がきつくひどく暑く感じる。生駒山系の稜線に近づくにつれて木が低く、そして空が広くなってきた。



大阪平野の180度展望が楽しめる「ぼくらの広場」にやってきた。標高は524m。大阪の高層ビル群ばかりか、淡路島や六甲山、明石海峡大橋まで見通すことができる。ここからの眺望の醍醐味は夜景だとも聞くけれど、夜間にここまで登ってくる気にはなれない。



眺望を楽しみながら休憩できるベンチなども整備されている。日陰のベンチを選んで、しばらく膝の具合を確かめつつ、休息をとる。痛くはないけれど、右膝の周囲の筋肉がとても凝っていることがよく判る。右膝が弱っているか、負担がかかっているかのいずれかだろう。



枚岡駅へと下る神津嶽コースで下山していく。生駒の電波塔の多くは生駒山の南に林立しているんだけれど、ここにひとつだけ、結構大きな電波塔がある。どこの電波塔だろうか。



神津嶽(315m)。枚岡神社の奥の宮が山頂にあるのだれど、実はここが枚岡神社の創祀の地だという。驚くことに創祀は神武天皇の即位より前だという。まさに神話の時代ということになるけれど、河内一之宮に相応しい由緒と歴史のある神社であることは間違いない。



予定どおり、らくらく登山道で駐車場に戻る。高齢者や障碍者が楽しめるように整備されたコースだというけれど、どんなトコなのかとても興味があったのだけれど、関係車両だけが通行できる車道の脇に広い歩道を設置した道になっているようだ。



展望台も多く、ところどころ木道を設置して、急勾配が無いよう、歩きやすいよう配慮されている。神津嶽コース、客坊谷コース、鳴川谷コースの3本の登山道を標高300m付近で結んでいる道なので、山に登る道ではなく、登山道連絡道と理解すべきかと思う。



2.7㎞もあるので、緩やかとはいえ高齢者や障碍者には楽な道ではないかもしれない。でも、少しでも山に親しんでもらえるようとの気持ちは感じる。道には手摺りが配置され、休憩所や展望台もとても多い。使用方法が判らない設備も多い。車椅子を停めるところだろうか。



100mおきに、次の100m区間の平均斜度と最大斜度が表示されている。概ね最大斜度は8~10%となっている。自走車椅子の場合、8%の勾配が上限と言われるだけに、この道を車椅子で自走するのは難しそうだ。



標高が下がってくるとツツジは散り始めていて、藤の花が咲き始めている。



らくらく登山道の起点となる「らくらくセンターハウス」へと続く赤い鉄骨で支えられたトンネル。なんだか落ち着かない雰囲気のトンネルだ。



距離8.4㎞、獲得標高530m、所要時間3時間半。右膝は特に痛むことなく無事歩き切ることができたけど、治癒したものなのか、サポーターの効能によるものなのかは不明。とにかくしばらくは用心しなければならない。