三好山・芥川城跡(高槻市)

 2025年8月8日


相変わらず酷暑が続くけれど、今日はほんの少しマシなような…。以前から訪問したかった芥川城跡がある三好山に登ってみることにする。織田信長より前に、戦国時代最初の天下人となったと言われる三好長慶の居城として知られるところだ。



住宅街を抜けるように、坂を登っていく。道は複雑に入り組んでいるけれど、幸い道標はしっかりと整備されていて、道に迷うこともなさそうだ。



登山口には、芥川城のかつての縄張り図が掲示されている。城の北と西は摂津峡の断崖絶壁となっていて、三好長慶の領国であった、阿波・讃岐・淡路・摂河泉を背後にしながら京に睨みを利かす好立地でありつつ、防御性も高い城であったことが窺える。



空調服+ネッククーラーの出で立ちでやってきたこともあって、心配していたほどの暑さでもない。日なたはさすがに日射しがキツイけど、木陰になった登山道はよく整備されていて、歩きやすい。



正午過ぎに歩き始めたものだから、暑さにすぐ参ってしまうと思っていたけれど、意外に好調。三好山に向かう前に、行き掛けの駄賃よろしく、帯仕山へと立ち寄ることにする。ところがメインの三好山と違って、帯仕山への道はかなり不明瞭。



鬱蒼とした林を潜り抜けると、空が青い。日射しが強くて眩しい。急に暑くなってきたように感じる。



どうやら、この辺りが帯仕山(192m)の山頂。って、山頂の向こうには家々の屋根があるじゃないか。山頂ギリギリまで住宅街が開発されてきたようだ。意味は分からないけど、おびしやま、と読むらしい。芥川城の支城があったようだ。



帯仕山から鞍部を経て三好山へと向かう。かなり広い平地が見られる。きっと芥川城の曲輪があったところに違い無いと思うんだけれど、何の説明板も見当たらない。




少しずつ進んでいくと、いよいよ山城らしくなってきた。これは堀切だろうか。急坂を挟んで左右に土塁が構築されているように見える。



史跡「城山城跡」の碑が立つ。三好山は城山とも呼ばれるらしいけど、城山なんて全国に何十とあるんじゃなかろうか。最近、芥川城は国の史跡に指定されたけれど、大規模な防衛施設というだけでなく、京を凌ぐ政庁機能がここにあったということがその理由らしい。



山頂付近まで登ってくると、高槻の街から大阪市内の高層ビル群までを見通すことができる曲輪跡がある。京の入口に圧力をかけつつ、大阪平野全体を支配する好立地であることを痛感させられる。



さらに少し登れば、かつて主郭となっていた三好山山頂(182m)だ。以前は芥川山城と呼ばれることが多かったように思うけど、どうやら最近は芥川城に統一されているようだ。



安っぽい看板だと眉を顰める人もおられるかもしれないけれど、幟や看板があるだけで、山城跡の雰囲気は容易に高まるように思う。三好長慶といえば、この肖像画が有名だけれど、どうやら実物は高槻城址の博物館にあるらしい。一度見に行きたいものだ。



スマホによれば、気温は34.4度。40度に迫ろうかという気温が続いていただけに、随分と過ごしやすく感じる。何だか暑さに麻痺してきているような気もする。



山頂にある三好長慶を祀る祠。地元の有志がお金を出し合って最近再建したものなんだそうだ。長慶が息子義興にこの城を譲り、自身は飯盛山城へと移ったあたりから三好氏の急激な凋落が始まる。義興、長慶が相次いで亡くなり、そして信長が上洛してきた。



長慶の享年はなんと43歳。もう少し長生きしていれば、天下の趨勢は大きく変わっていたかもしれない。近年長慶の評価は急上昇しているようで、NHK大河への運動も盛り上がっているようだ。長慶をどのように描くのかを見てみたいものだ。



下山は大手筋から。メイン登城道とは思えないような急坂だ。草に覆われて古い石垣も確認できる。



大手筋には蜘蛛の巣が多い。山頂付近では何人かのハイカーと出会い、お喋りも楽しんだりしたけれど、この道は通らないものなのか。誰かが通っていたなら、蜘蛛の巣はもう少し払われているはずだ。



山を出口にある獣除けの柵。3ヶ所に金網を縛る紐が括り付けられている。紐を外すのも再度取り付けるのも結構邪魔くさい。やはりこの道はかなり少数の人しか利用しないようだ。



下山口近くにある、浴場施設でゆっくり汗を流す。美人の湯とあるのがちょっと気恥ずかしくもあるけれど、いいお湯だった。下山口に温泉があるっていうのは最高だ。



距離4㎞、登り獲得標高225m、所要時間2時間20分。休憩たっぷりの軽いのんびり歩きだったけど、真夏の山歩きはこの程度が限界だ。