稲荷山(京都市)

 2024年1月29日


京都への所用のついでに、伏見稲荷に立ち寄る。予想はしていたけれど、平日とはいえ随分な人出だ。今日のターゲットは鳥居の奥に見える稲荷山。既に午後2時だというのに、この人混みを掻き分けて登っていくことができるのだろうか。



JR稲荷駅に降り立ったのだけれど、参道の賑わいを見たくて京阪伏見稲荷駅にやってきた。駅前には京都一周トレイルの起点の標識が立っている。全長72㎞を踏破したのはもう12年も前のこと。当時のペースではとても歩けないだろうけど、近いうちに再挑戦したいと思う。



参道に回ったのは大間違いだった。まるでデパ地下のような大混雑状態だけれど仕方ない。外国からの観光客が半分以上のように見える。遙か遠くから伏見稲荷を楽しみにやってきたのだから、ゆっくりと満喫してもらいたいものだ。



凄いスローペースだ。千本鳥居では、記念写真を撮る人も多く、更にペースは遅くなる。写真に写り込まないように、気を遣いながら進む。こんな調子ではいつになったら稲荷山に登れることやら…。



千本鳥居の途中から山道に入る。YAMAPの地図を見ていると、どうやら東に大きく迂回して、この山道からでも稲荷山へと登っていくことができるようだ。でもこんな山道でさえ、どこに向かっているのか、そこそこの人が歩いている。



どうやら、ここは京都一周トレイルの深草コースの一部のようだ。ということは歩いたことがある道だ。でも稲荷山に登ったことがあるのかどうかが、よく思い出せない。登ったつもりなんだけど、どうも違うようにも思う。今日はそれを確かめたい。



稲荷山の裏手から長く急な階段が続いている。こんな道でもたくさんの観光客が登っている。アルゼンチンの男性とベネズエラの女性のカップルに、どうして日本まで来てこんな山に登るの?と聞いたら、山登りが好きなんだ、とのこと。お節介な質問をしてしまった…。



心拍数が上がらないよう心掛けても、足の筋肉がやばい。まさにギリギリの状態で稲荷山(233m)に登頂。無休憩で歩ける限界だ。この山までの周回道を歩く「お山めぐり」をする人が続々やってくるけど、日本人より西洋からの観光客の方が多いように見える。



下山はお山めぐりのコースで西側へと下りる。東側より緩やかな坂とはいえ、多くの人が息を切らして登ってくる。西側から稲荷山へと続く2本の道にも朱い鳥居が延々と続いている。



かなり下ってきたところに見覚えのある四つ辻という絶好の展望ポイントに出てきた。これまでここが稲荷山だと思っていた…。



四つ辻をそのまま駅まで戻るつもりだったけれど、凄い人波に辟易として、北へと抜ける道を進んでいく。京都一周トレイルの道になる。広い伏見稲荷の境内をぐるりと歩いて感じるのは英語の案内板の多さ。日本語よりもむしろ英語の案内の方が充実しているとさえ思う。



1時間半ほども伏見稲荷の境内を歩いていたことになるけれど、続いては宮内庁が管理する久邇宮など世襲親王家の陵墓が並んでいる。天皇との血縁が随分と遠い世襲親王家が続いたことが不思議にも思うけど、徳川の御三家はこの制度を真似たもののように感じる。



泉湧寺の大門前を通過。天皇家との繋がりがとても強い寺院として知られる。歴代天皇のうち14(だったかな?)の陵墓は泉湧寺内にあるという。とても気になっているお寺のひとつなんだけど、いつも時間が無く(お金も惜しくて)、未だ拝観したことがない。



このまま東福寺駅へ歩いて終了のつもりで泉湧寺の境内を北に抜ける。北門脇の即成院に那須与一の墓所がある。与一の手洗所なんてものもある。与一の墓は須磨の妙法寺付近にもあったような…。屋島の戦いでの勝利の立役者なんだけど、それ以外の事績は知らない…



一旦東福寺駅へと戻りかけたものの、気を取り直してもう少し京都一周トレイルを歩いてみたくなった。ところが道が複雑すぎて、今熊野あたりで一旦外れたトレイル道に復帰できない。それっぽい方向に進んでも行き止まりばかりだ。



駐車場の奥にある高台の上にある道に行けばいいだけのことが、出来ないのだ。あちらこちらの道を試すが、悉く行く手を遮られてしまう。




赤線が京都一周トレイル。青線が実際に歩いた道。随分と余計な道を歩いてしまった。



この辺り、京都一周トレイルの道は随分とややこしい。京都市が立てた案内標識だけではすぐ道迷いしてしまう。それに見かねたのか地域の方々が手作りの案内板を立ててくれている。以前も歩いたのだけど、紙地図しかなかった割にあまり迷ったという記憶がない。



今熊野の山中に入る。随分と道迷いしたせいか、もう5時に近い。いくら大都市京都のなかとはいえ、さすがにマズイ、と感じ始める。



いい道なんだけど、さっさと下山してしまわなければ…。夕方5時を知らせるチャイムや鐘の音に急かされるように歩く。以前も歩いたはずの道だけど、全く記憶が無い。覚えているのは伏見稲荷から北白川まで歩いた1日目は随分と楽チンな道が続いたということだけだ。



でも、12年経って、ちっとも楽チンな道とは思えなくなってしまった。稲荷山の急登が効いているのか、足腰が辛い。とにかくこのまま北に抜ければ国道1号線に出るはず、と急ぐ。



なんとか暗くなる前に国道1号線に出てきた。正面に見えるのが京都一周トレイルがこの先向かう清水山。清水寺の奥山になる。ちっとも楽チンな道とは思えない。



さすがに国道1号線。かなり頻繁にバスが走っている。清閑寺山ノ内町というバス停から五條京阪へと向かう。図らずも、そのうちに再挑戦したいと思っていた京都一周トレイル道を少し歩いたけれど、果たして次回がいつになるのか、あるのか、ないのか、は白紙状態だ。



距離8.2㎞、獲得標高442m、所要時間は3時間20分。さすがに午後2時スタートで山に向かうのはムチャだった。スタート時は、参拝客に揉まれて超スローペースだったのに、最後はかなり急ぎ足だったせいか、トータルで標準ペースを少し上回ることができた。




天王山(大山崎町)

 2023年1月27日


本能寺の変から僅か11日後、秀吉の神がかり的な中国大返しにより明智光秀の天下取りの夢が潰えた激戦が繰り広げられたことで知られる天王山(実際には、この山の麓の山崎が主戦場だったようだけど…)に9年振りに登ってみる。



JR山崎駅からすぐ登山口というアクセスの良さのせいか、随分とハイカーの数が多い。駅前からしばらくは強烈な上り坂が続き、宝積寺に到着。山崎の戦いでは秀吉が本陣を置いたとかの話もあるけれど、山崎の戦いに関しては虚構が多すぎるので真偽は疑わしい。



ハイカーの多さにうんざりして、酒解神社を経由するメインの登山路ではなく、遠回りではあるけれど、西側の道を進むことにする。途中墓地に入り込んだりして、小さな道迷いはあったものの、無事歩きやすい道へと出る。竹林で覆われた気持ちの良い道だ。



ところが、突如進入禁止のロープが張られている。宝積寺に戻って、メイン登山道を登り直すしかないと思ったけれど、良く見ると通行止め期間は1月25日まで、となっている。多少の不安もあるけれど、ロープを跨いで進んでみる。



登り始めると、延々と九十九折れが続く。作業車が出入りする道のようで、坂が続くものの路面はよく整備されている。



道端にはミツマタの花の蕾が綻び始めている。天王山周辺はミツマタの群生地としても知られるところ。一面満開のミツマタに囲まれる頃になれば、今は殺風景な道も華やかなものへと一変するに違いない。



それにしても枝道が多い。脇道とあって、標識の類も少ない。初心者向けの山として紹介されることが多い天王山だけれど、やはり旧跡も多く、案内標識も充実したメイン登山道を進むのがお勧めだ。



天王山山頂の手前は攀じ登るような急坂になっている。山崎の戦の後、秀吉はこの山頂に山崎城を築城したということだけれど、山頂が尖がった高台のようになっている山だ。築城の際に山を少し削ったのか、それとも元々こんな地形だったのか、よく判らない。



天王山山頂(270m)。駅から1時間登った割に標高は低い。秀吉と光秀がこの要地を巡って争ったという説もあるけれど、光秀は端からこの山は眼中に無かったように感じる。事実、男山と天王山を結ぶ線よりかなり東側、現在の京都縦貫自動車道に前線を敷いているのだ。



山頂からの眺望。ひときわ高い建物は枚方市樟葉のタワーマンションのようだ。山の陰になっているけれど、手前には淀川が流れているはずだ。



城址の遺構は井戸跡くらい。もっとも井戸を掘っても水は出ず、貯水槽として使われていたようだ。京都の入口を塞ぐ要衝のように見えて、実は天王山の軍事的価値は低かったのかもしれない。真木和泉は止むなくここに籠ったけれど、意外に戦いの少ない地域だと感じる。



天王山山頂付近をウロウロと散策した後、さらに北へと進んでいく。小倉神社へと向かう道だ。いつも歩いている六甲山系とは違って、露出している岩がほとんどない。とても優しい道だ。



北に歩いたのは小倉神社ではなく、サントリー山(295m)に登りたかったから。こんな山名を目にすれば見過ごすことはできない。以前も歩いた道だけど、その時は気が付かなかった、というより、最近命名されたのではないだろうか。



山崎蒸留所の奥にある山なのでサントリー山なのだろう。サントリーの所有地とは思えない。正式な山名ではないのかもしれないけれど、この名前のお陰か登ってくる人は多い。天王山も元は補陀落山、ポンポン山は加茂勢山だったのが、通称が正式名になった例は多い。



小倉神社には向かわず、小倉山の北でUターンし、水無瀬方面へと下山する。あまり見かけることのない、登山道の脇にはテーブル付のベンチが1セット置かれている。ちょっと座ってみたけれど、かなり快適。弁当を食べたり地図を見たりするのに重宝しそうだ。



水無瀬への道は総じて下りとはいえ、2つのピークを越えていく。最初のピークが小倉山(305m)。山頂碑の脇に、何やら丸い生垣のようなものがある。何かの祭祀場のようにも見えてくる。



水無瀬への道は天王山がある尾根とは谷ひとつ隔てた西側の尾根道のはずだけれど、倒木も多く意外に鬱蒼とした道が続く。岩はないけれど、木の根っこが道を支えるように張り巡らされている。呑気に歩いていたらアチコチで躓きそうだ。



十方山(304m)。十方を見渡すことができるのか、と想像していたけれど、眺望はほぼ無い。立派な丸太を立てて、十方山と太字で刻まれた山頂碑が印象深い。



下山していくと、天王山山頂から見えた枚方樟葉方面への眺望が再び広がる場所がある。半分くらい山を下ったせいか、淀川もよく見渡すことができる。



道には凄い量の落ち葉が積もっている。サクサクと落葉を踏みしめるのは気持ちいいんだけれど、ここまで積もり過ぎると靴が完全に落ち葉に埋もれた状態で進んでいくことになる。



下山したのは、名神高速の天王山トンネル西出入口のすぐ上。上り下り各々2つのトンネルがあるので、計4本ものトンネルが天王山を貫いている。



天王山トンネルの入り口の横には水無瀬の滝がある。古くから知られたところで、和歌にも多く詠みこまれているらしい。そう聞けば風光明媚に感じるのだけれど、この滝は、天王山断層の一部らしい。そう聞くと随分と怖ろしいものにも見えてくる。



島本町に入り、JR島本駅を目指す。頭上を走る名神高速にある島本町のカントリーサインは、間違いなく、楠木正成・正行父子の桜井の別れを描いたものだ。



島本駅前にある旧桜井駅址(鉄道駅ではなく、奈良〜平安時代に整備された宿場のようなもの)先日四條畷神社で見たのと瓜二つの楠木父子の像がある。皇紀2600年記念で近衛文麿が滅私奉公と揮毫しているところを見ると、どうやらこちらの方がオリジナルのようだ。



本日の歩行軌跡。歩行距離8.7㎞、獲得標高425m。所要時間は3時間48分。達成感にはやや乏しいものの、半日程度(3~4時間)の山歩きはあまり疲れもなく心地よい。





飯盛山(大東市)

 2024年1月23日


三好長慶武者行列のチラシに「大東は首都だった」との衝撃的なキャッチが目に飛び込んできた。戦国時代最初の天下人として、三好長慶への注目度が近年高まっているとはいえ、長慶の本拠飯盛山城がある大東市は更に超強気のようだ。久しぶりに飯盛山に登ってみよう。



失礼ながら大東市は、存在感の強い市ではない。大阪の東という市名も没個性的だし、大東という駅もない。思い付くのは野崎観音くらい…。そんな大東市が最近猛プッシュしている三好長慶は、信長上洛の10年ほど前、畿内・西四国を制覇し幕政を牛耳っていた人物だ。



GWには野崎まいりの催しで露店がビッシリと立ち並ぶJR野崎駅から野崎観音(慈眼寺)へと向かう参道だけれど、それ以外の時期はごく普通の駅前商店街にしか見えない。道のアチコチには「天下人三好長慶」の幟がはためいている。



野崎観音へと向かう長い階段。登り口に「左側通行」とある。通行帯を指定しているのは、極めて混雑する社寺だけだと思っている。年に数日はとんでもない人が押し寄せるのだろうけれど、今は人の姿もチラホラとしか見えない閑散状態だ。



野崎観音慈眼寺。浄瑠璃や落語、さらには歌謡曲などを通じて広く知られる曹洞宗古刹だが、意外にこじんまりとした本堂だ。古くから大阪の庶民が多く参拝する人気のお寺だったという。



生駒山地の高台に位置するだけに、東方向の大阪市内はもちろん、南や北への眺望も広がる。写真奥左側が生駒山。ここが生駒山系の前衛であることが判る。江戸時代の庶民が多く訪れたのも、この眺望を楽しみたかったからではないだろうか。



野崎観音の本堂脇から、飯盛山への登山道が始まる。整備された登山道を少し登ると野崎城址がある。楠木正行が奮戦した四條畷の戦いでは、真下に走る東高野街道を北上する南朝軍に対して、高師直など北朝方主力は野崎に陣を構えていたらしい。



飯盛山城への登山路は、道も標識もほどよく整備され、ところどころ展望所や休憩所もある。平日ではあるけれどハイカーの姿もチラホラと見かけることができる。その一方で、放置されたままの廃墟(廃寺?)など、ちょっと残念なところもある。



以前も歩いたことがあるはずなんだけど、こんな寂しい道だったかなぁ…と思いながら登っていく。どっちに行っても同じだ、と思って適当に選択した分岐で間違ったかあぁ…。こんな道なのに、大東市は飯盛山城が国史跡に指定された祝賀の幟を立てまくっている。



どうもメイン登山道の七曲りルートではなさそうで、ところどころ荒れたところや倒木なども見られるけれど、難路という訳でもない。YAMAPの赤線に乗っているので、問題はなかろう。ホントにYAMAPを初めて登山のスタイルが大きく変わった。



どうやら歩いてきた道は竹林コースというところだった。「この道は悪路!、初めての人は七曲りコースへ」と書かれているけれど、まずまずの快適道だった。でも、もし登り口で悪路との標識を見ていたらこの道を進まなかっただろう。現地の標識は軽視すべきではない。



飯盛山山頂が近づいてくると古い石垣の址が見える。元は高槻の芥川山城を本拠としていた長慶が、滅ぼした敵対勢力の拠点だった飯盛山城に引っ越したのだけれど、確かに飯盛山の方が高く難攻に思えるし、長慶の政治経済の本拠地堺に近く、諸国に睨みも効きそうだ。



これは堀切の跡。山肌を溝状に掘って、敵軍の侵入を防ぐ仕掛けだ。この種の遺跡を見る度に周囲の草木を刈り取ってしまえば、もっと往時の雰囲気が判るのに、と思うのだけれど、自然を破壊することも躊躇われる。折り合いが難しいところだ。



主郭の周囲を全て開削するのではなく、通行のため最小限の部分は残されている。土橋というものだ。守備兵力をここに集結させることができる。長い年月を経て随分と崩れた土をあらためて掘り返せば、堀切の防衛力がピンと来ると思うんだけど、これもムリ筋かなぁ…。



飯盛山山頂(314m)。南北700mにも及んだという飯盛山城の主郭があったところだ。ここに立つ銅像が三好長慶!ではなくて、楠木正行…。楠木正行はこの山の麓で奮戦したとはいえ、この山に籠ったことはないはずだ。



楠木正行像と並んで山頂でひと際目を引くのは、廃墟のようになった昭和14年建立の国旗掲揚台。「国威掲揚」「四條畷警察署管下警防団 結団記念建之」とある。戦時の空恐ろしさを感じさせる後世のためにも貴重な史蹟だと思う。大切に残してもらいたいものだ。



飯盛山山頂展望台からの眺望。ちょっと曇っているのが残念だけれど、大阪市内の高層ビル群まではっきりと視認できる。



以前発見して失笑してしまった飯盛山300回登頂記念碑。300回くらいで石碑を立てること、更には碑文に飯盛山300回だからエベレストを超えたといったことが書かれている。しかし良く見ると大正7年のこと。現在の物差しで当時の登山を測ることはできない。



四條畷神社に向けて下山していく。この木製階段が急で、長く続く。これが嫌で今日は野崎から登ったのだけれど、京都方面がこの急斜面で守られていることが、飯盛山城の大きな強みであったことは間違いない。



ひどく寒い日だったけれど、四條畷神社の梅林では、黄梅の蕾が膨らみ始めていた。でもまだしばらくは寒い日が続くはずだ。



楠木正行を祀る四條畷神社。神様や皇族以外で、国家のために多大な功績があった人物を祭神とすると国が認めた別格官幣社のひとつだ。正成が祀られる湊川神社と同様、菊水紋だと思っていたけれど拝殿幕は菊紋だ。が、御母堂を祀る摂社には菊水紋…。よく判らない…。



境内には、楠木正成が決死の覚悟で湊川の戦いに赴く際に、幼い正行と別離の対面している座像がある。有名な「桜井の別れ」のシーンだ。これと全く同じ像が、JR島本駅前の公園にもある。どちらが先なのか、同時建立なのか、これも長年気になっている。




四條畷市に入ると、大東市内では膨大とも思えるほどに林立していた三好長慶の幟も見られず、代わりに楠木父子ばかりが目立つ。NHK大河にも大東は長慶、四條畷は楠木をプッシュしているらしいけれど、お隣どおし、もう少し共同戦線を張れないものだろうか。



JR四条畷駅から帰宅。なぜかこの駅は大東市にある。駅名も四「條」畷ではなく、四「条」畷だ。色々と複雑な経緯があるのだろうけれど、よそ者には両市の関係は難解だ。



歩行距離5.3㎞、獲得標高370m。所要時間は3時間。疲れを翌日に持ち越すことがない、これくらいの軽登山を頻度高くする方が、きっと健康的なのだろうとは思うけれど、物足りなくも感じる。