函館山(函館市)

 2026年8月14日


函館のシンボル、函館山に登ってみることにする。朝8時半、市電の南端駅となる谷地頭まで乗車し、まずは津軽海峡の向こうに下北半島の大間崎を見通せるという立待岬を目指す。



が、昨日以上にジメジメとした天気で、山には濃い霧が掛かっている。立待岬から時計回りに歩いて、登山地図にある函館山山域の全12ピークを制覇したいと目論んでいるんだけれど、昨日の五稜郭程度で疲れている弛んだ体で、果たしてどうなることやら。



立待岬。かつてアイヌが魚を待ち伏せした漁場だったことから、名付けられたそうだ。津軽海峡を航行する船は見えるけれど、霧のせいで、下北半島など全く見えないのが残念だ。それにしても右手に見える函館山山系は結構厳しそうな山容にみえるけれど、大丈夫かぁ?



ミニトマトのようなつやつやした赤い実が多く見られる。画像検索してみるとハマナスの実だと判った。天候はイマイチでチョット気落ちしていたけれど、本州では見かけることがない植物に多く出会えそうな予感に胸が躍る。



函館山には数多くのハイキングコースが整備されている。体調との相談だけれど、できれば地域内の12全てのピークを獲得したいものだ。そのためにはこの地図のハイキングコースのほぼすべてを歩き通さねばならない。



函館山山域の東端から山へと入っていく。いきなり鬱蒼とした森のなかを登っていく。最も厳しいと案内されていたコースだけれど、大した勾配ではない。ただ未明の雨のせいで草木は濡れ、泥濘や水溜まりも気になる。防水性のないお手軽ハイキングシューズが不安だ。



通信アンテナが立つ地蔵山(281m)。函館市街や津軽海峡を見渡す眺望を期待しての山歩きだというのに、200mを越えると霧のなかだ。午後になると霧が晴れるという話も聞いたけれど、どうなのかなぁ…。見慣れない植物を観察しながら、ゆっくり歩いていこう。



さらに西に進んで、千畳敷までやってきた。広くなだらかな草原地帯に展望所があって、眺望が楽しめるとのことだったけれど、霧で何も見えない。津軽海峡に面する岬の上部にあたることから、この辺りを中心に軍事施設(要塞や砲台)が数多く設置されていたという。



見慣れぬ植物がいくつも目に付く。その度にGoogleレンズで調べるようなことを繰り返す。これはエゾニュウというセリ科の植物らしい。ニュウというのはアイヌ語由来2mほどもある太い茎は食用にもなるようだ。



ここが函館要塞の戦闘指令所跡。19世紀末、南下政策をとるロシアから函館港を護るため、函館山全体にいくつもの砲台が建設され、千畳敷には全域を見渡す円形の観測座や作戦室、電話室などが設置された指令所が置かれたという。



地下には砲撃にも耐えるような部屋が並んでいる。残念なことに遺跡の説明が現地には無く、勝手な想像を巡らすしかないのだけれど、それはそれで楽しい。もっとも函館山は長らく軍事機密として入山禁止で図面も写真もご法度だったので、記録は少ないのだろう。



千畳敷から入江山にかけて、尾根沿いに多くの砲台跡や観測所跡が残っている。日露戦争では実戦に用いられなかった砲台が、初めて火を噴いたのは約50年後、太平洋戦争終戦直前の函館空襲の際だったという。もっとも殆ど何の役にも立たなかったようだけど…。



比較的小ぶりな砲座もある。機銃のためのものだろうか。もちろん戦後に銃砲類や砲塔の多くは撤去されたのだろうけれど、土木基礎構造物は至って頑強に、崩壊することも腐食することもなく、ほぼ無傷で残っていることに今更ながら驚かかされる。



入江山(291m)。ここも山頂付近は要塞となっている。函館港を護るのが目的の砲台が並ぶところだ。残念ながら煉瓦が少し崩落していて要塞の内部は覗き込むことができないけれど、それでも往時の雰囲気は十分感じ取れる。



現在11時40分。入江山の北側には霧に霞んだ函館港。右手の函館山は未だ山頂部は濃い霧に包まれている。函館山には是非とも霧が晴れてから登りたいものだ。



御殿山の砲台跡。かなり大型の大砲が備え付けられていたと思われる円形の砲台跡が合計6つも並んでいる。周囲の木と霧のため、一体どちらに狙いを付けていたのかが判らないのが残念。当時の復元図でもあればなぁ…。



山域北西端の観音山(265m)を目指す。ハイキングコースに乗っていない山頂だ。YAMAPでは山頂の100m以内に到達していれば登頂したと判定されるようになっているけれど、時間もあるので敢えて山頂を目指す。が、アブ・ブヨの多い藪漕ぎの悪路に辟易とさせられる。




続いては函館山の北側となる薬師山(252m)へ。こちらも山頂部は要塞となっている。ここが最も函館港や函館の市街地に近いため、敵軍上陸に対抗する堡塁のような役割も兼ねていたようだ。



薬師山のベンチで長い昼食休憩をしながら天候の回復を待つ。そして13時半になって、ついに函館山の山頂がはっきりと視認できるようになった。さあ函館山に向かおう。



函館山(334m)の山頂から函館市街地を眺望する。有名な函館の夜景の写真の殆どはこの画角だ。夜にはもっと混み合うのだろうけれど、昼でも結構人が多い。函館山が陸繋島で、函館の町が砂洲の上に建設されたことがよく判る。



函館山の展望台や売店などを巡った後、いよいよ終盤戦。ゆっくりと歩いて来たせいか、体力は未だ問題無さそうだ。函館山の東側にある汐見山とエゾダテ山を制覇しよう。函館山周辺のメインのハイキング道には案内板やベンチも多く、安心感は高い。



難所も危険個所も無いのだけれど、夏で生い茂った草木がなかなか厄介だ。北海道では唯一といっていいかもしれないヒグマとの遭遇の可能性が無い山域であることは安心だけれど、スズメバチやマムシは多く棲息しているという。



どうやらガマズミの実のようだ。秋になると赤く色づくはずだ。落ちそうで落ちない大きな雫を抱え込んでキラキラと輝いている。



YAMAPの100mルールにも助けられ、無事12ピークの制覇に成功し、スタート地点の谷地頭に下山してきた。道路には見慣れないカエル注意の標識が並んでいる。函館山地域固有の希少動物であるエゾヒキガエルを誤って轢かないように、という意味のようだ。



ゴールは谷地頭温泉。あまり観光客が行かなさそうな天然温泉だ。10年ほど前までは市営だったそうだけれ、民営化されてなお入浴料金が490円と銭湯並みなのが嬉しい。茶褐色の湯を湛えた大きな浴槽が4つもあり、サウナや食堂もある。とんでもない長湯を楽しんだ。



昨日同様ジメジメした天気だったけれど、無事想定していたコースを全て歩き通すことができた。距離12.1㎞、登り獲得標高671m、所要時間は7時間25分。



五稜郭(函館市)

 2026年8月13日


酷暑からの逃避行で北海道函館へ。どんよりと曇ってはいるのに期待したほどの涼しさでもなく、湿気が高いけれど、気温は20度台。長らくほとんど歩かない日が続いていただけに、足慣らしとして五稜郭をちょっと散策してみることにする。



まずは星型要塞の形状を体感したく、外堀の周囲を一周する。外堀の幅は20mくらいかなぁ。手漕ぎボートを楽しむ人も多く、静かな公園の佇まだ。堀の石垣が高くないせいか、城郭のようには感じられない。



外周道路にはランニングやウォーキングをする人が多数。一周が1.8㎞だというから、何周も周回する人も多いのだろう。



星型要塞の突角。もう少し尖がっているものだと思っていたけれど、ほぼ直角だ。突角部には左右270度という広範囲の敵に対しての砲撃が期待されていると思うんだけれど、土塁や堡塁らしきものは無い平地だ。函館戦争後に撤去されたのか、あるいは元から無かったのか。



外堀端に「男爵薯を讃う」の碑が立っている。男爵薯とは男爵イモのこと。日露戦争後の不況にあえぐ函館船渠の役員が欧米から様々な種イモを取り寄せて北海道での栽培に取り組んだそうだ。この役員の爵位が男爵だったことから、男爵イモと名付けられたという。



歩きながら気になってはいたんだけれど、この外周道路は左回りと決められているようだ。といっても既に7割ほど右回りで歩いてきてしまった。高校時代、気分転換にトラックを右回りで走ったら、体育の先生に「右に回るのは競馬だけだ」と酷く怒られたことを思い出す。



外堀端ではウミネコ(たぶん)が羽根を休めている。近寄ってもまるで逃げ出そうとしないのはウミネコらしい。艦砲射撃の射程外に位置する五稜郭は海岸線から2㎞ほどは離れているんだけれど、ウミネコにすればひとっ飛びなんだろう。



カモも多い。水草の下に餌になる何かがあるようで、しきりに水に首を突っ込んでいる。カモは渡り鳥だと思うんだけれど、ここのカモは冬になると本州へと渡っていくのだろうか。



五稜郭タワー。改めて調べると築60年以上にもなる。入場料が高く、登ったことはないけれど、展望台からは五稜郭の星型がはっきりと視認できるようだ。ひとまわり大きい程度の仁徳天皇陵でも同様のタワーがあればなぁ。と思う。


貸ボートは随分と賑わっている。かなりレトロなボートハウスだ。調べてみると、何と大正年間から営業しているらしい。不安定な漕ぎ方をしていると、放送で注意を促す責任感の強い営業姿勢には好感が持てる。驚いたことに「写ルンです」が今も販売されていた。



五稜郭外周を歩き終え、内郭部に渡る。お盆休みということもあって観光客は多い。入場料が無料なのが嬉しい。



橋を渡るとすぐにあるのが函館奉行所の復元門。1864年に北辺防備の拠点として、五稜郭を建設し、函館奉行所を設置した訳だけれど、僅か4年後の戊辰戦争の際、榎本武揚が率いる旧幕府軍に占拠されてしまった。その旧幕府軍も新政府軍の攻撃を受け半年で開城している。



古い大砲が2門展示されている。手前が新政府軍の軍艦に搭載されていたもので射程は3000m。奥にあるのが旧幕府軍のもので射程は1000m。兵力差も火力差も大きいなかで半年粘ったのだけれど、五稜郭自体がさほど有効に防衛に機能したようには思えない。



函館奉行所。20年前に復元されたものなんだそうだ。瀕死状態の江戸幕府が大金を捻り出して西洋の真似をして五稜郭を建てた訳だけれど、予算不足で要塞としては不完全。異国に向けたアピールという意味もあっただろうけれど、残念ながら無駄遣いと言わざるを得ない。



外堀の内側に狭い内堀があり、その内側に土塁が積まれているところもあるけれど、高さも十分とは思えない。四方が平地だけに大軍で攻め掛かられれば防衛は容易ではなさそうだ。



欧米でいくつかの星型要塞を見学したことがあるけれど、もっと頑強そうに見えたものだ。日本の風景の中に置くと同じものでも違って見えるのかもしれない。



五稜郭散策の歩行軌跡。もっとキレイな星型になると思っていたんだけれど、かなりギザギザ。歩行距離3㎞、歩行時間は僅か50分ほどだというのに、1ヶ月以上もまともに歩いていないせいか、この程度のウォーキングで結構疲れてしまった。





奥州街道(1)宇都宮~氏家

 2026年7月4日


昨日日光街道を歩き終え、宇都宮泊。せっかくの機会なので、引き続き奥州街道を氏家宿まで歩くつもりでいたのだけれど、天気が思わしくない。大した降雨量ではなさそうだとはいえ、2日連続で雨の中を一日中歩くのは辛い…。



奥州街道を歩くか、あるいは大谷資料館など宇都宮近辺の観光に充てるか、決めきれないまま、まずは市街地の北にある八幡山まで歩いていくことにする。八幡山山頂に立つ宇都宮タワーが雨霧に霞んでいる。



宇都宮市街地のど真ん中にありながら、11haの面積を有する八幡山公園は想像以上に緑が深く、その中に動物園や長大吊り橋など、数々のレジャー施設が設置されていて、市民の憩いの場となっているようだ。そんな公園の片隅に八幡山山頂(159m)の一等三角点がある。



八幡山から南へと下山し、下野の一ノ宮、二荒山神社を参拝。一説には宇都宮という地名は、いちのみやが訛った地名とも聞くが、宇都宮を代表する古刹であることは間違いなかろう。境内の休憩所で、止まぬ雨のなか、この後どうすべきかをしばらく考え込む。



悩んだ末の結論は、いつものことながら、「行けるところまで行ってみよう」。山では危険な考え方だれど、街歩きならさほどリスクの大きな発想でもなかろう。しばらくはバスが頻繁に走る道なのだ。道路標識には「奥州街道」の表記された道を白沢方面に向かう。



東北新幹線の高架があり、その先にはJR東北本線の踏切が見える。ややこしいことだけれど、ここからは「奥州街道」と表示された道ではなく、「白沢街道」と呼ばれている県道が、旧奥州街道になるようだ。



退屈極まりない道が何キロも続く。都市郊外にありがちな景色が続き、1時間以上写真に撮りたいものが現われることもないままテクテク歩き続ける。雨は止まない…。



よく見る光景だけれど、ツツジの木に薄く蜘蛛の巣が張っていて、雨露がキラキラと輝いている。ツツジにとって、蜘蛛は害虫を駆除してくれる存在だと聞いたことがあるけれど、雨を凌ぐ笠まで提供してもらっているようだ。



白澤宿に近づいてくると、道幅も狭くなり、道路の片側だけとはいえ、立派な街路樹が並ぶ道になってきた。杉や桜が混在する街路樹で、奥州街道の名残りなのかどうかは判らないけれど、やはりこのような並木が登場すると、歩く力が湧いてくるというものだ。



宇都宮から3時間近く歩いて、ようやく次の宿場町、白澤宿に到着。現在の地名は白沢なんだけれど、宿場町は旧字の澤を使うようだ。



奥州街道白澤宿の会が建てた白澤宿の表札の横にとんでもないものがある。「江戸時代の公衆便所跡」だという。「跡」とあるけれど、元々あった便所をブリキやトタンで補強を重ねたもののように見える。



恐る恐る裏側を覗いてみる。もちろん今では使われているはずもなく、ゴミ置き場のようになっているけれど、肥溜めのようなものも残っている。江戸時代、糞尿は廃棄物ではなく、肥料として有効な資源だったというから、用を足してくれる旅人は歓迎されたようだ。



町には、いくらか旧宿場町の風情が残っている。町のメイン道路には水路があり、いくつかの水車が設置されている。特に仕事を与えられている訳ではなく、景観のための水車のようだけれど、清らかな水の流れを受けて回る水車を眺めているのはとても癒される。



白澤宿の本陣跡。関ヶ原の戦いの引き金ともなった徳川家康による上杉討伐の先鋒隊がこの地で、鬼怒川の北に陣取る上杉軍と対峙したそうだ。ここが宿場町となったのは、その際に徳川軍に色々と便宜を図ったことの見返りだったようだ。



有難いことに、この辺りで雨は止んでくれた。雨合羽を脱ぎ、郵便局の前で自販機コーヒーを飲みながら休憩。静かな町の佇まいを堪能する。



白澤宿のあたりからは、すっかり田園地帯だ。遠くには白いビニールハウスも見えるけれど、イチゴかなぁ…。かれこれ5日ほどは栃木県を歩いているというのに、未だに大規模なイチゴ農家には出会えないでいる。



西鬼怒川。雨上がりとはいえ、川の流れは穏やかだ。この川でさえ江戸時代は渡船だったようだ。鬼怒川って、かつては衣川とか絹川という文字だったものが、明治になって鬼怒川なんていう怖ろし気な字になったそうだ。昔はもっと荒々しい暴れ川だったのだろうか。



白沢の町外れにある一里塚跡。江戸日本橋から三十里になるようだ。水田の前に、塚木は無いけれど、地元の有志が協力して、立派な碑が建てられている。



鬼怒川の土手を北上する。かつてはこの辺りに鬼怒川の渡船場があったようだけれど、今は最寄りの橋までサイクリングロードのような土手道を1㎞以上北上しなければならない。



鬼怒川を渡る阿久津大橋。これ一番ヤバイ道。歩道がないうえに、路側の余地もごく狭いし、草木がはみ出している。前方からの車もヤバイ奴が歩いていると警戒しながら通り過ぎるのが判る。雨が止んでいてよかった。傘など差しながら歩けるような橋ではない。



鬼怒川。河川敷はかなり広い。増水時には、400mほどはあると思われる東西の堤防の間に水が満たされるのだろうか。上杉軍と徳川軍がこの川を挟んで睨み合ったということも理解できるし、江戸時代には相当な難所だったのではないかとも想像できる。



鬼怒川を東に渡ると、次の宿場町である氏家となる。将軍地蔵なるものがあるけれど、ここでいう将軍とは徳川でも足利でもなく、源義家。平安時代に奥州平定を委ねられた鎮守府将軍だ。奥州路を北上していることを実感させてくれる。



かつての氏家市は平成大合併で今はさくら市。この辺りが氏家宿の本陣などがあったところのようだけれど、何も見られない。旧街道の風情も感じられない。雨が上がったのは良かったけれど、取れ高の少ない1日だった。



距離21.3㎞、登り獲得標高173m。所要時間は7時間19分。雨模様のなか、退屈な風景が多い疲れの溜まる街道歩きとなった。



歩行軌跡には宇都宮から北に延びる線が加わった。狭義の奥州街道は福島県の白河宿まで残り70㎞くらい。距離はともかく、この後アクセスの悪いところが続くし、熊も心配。さてどうしたものか。今日の退屈な区間を振り返ると、モチベーションは高まらない。