比叡山(京都市・大津市)

 2024年4月11日


ひょんなことから始めた京都一周トレイル。今日は北白川仕伏町から出発。12年前は比叡山・横高山・水井山を越えて大原に下山したけれど、今では到底無理。比叡山登頂が目標だ。昨夏クマに女性が襲われたことを受けて、アチコチに注意のポスターが貼られている。



北白川仕伏町は昔下宿していたところ。そこからほんの少し歩くだけで、全く人の気配も感じられない山となることに今更ながら驚いてしまう。落ち葉が未だうず高く積もり、茶色の世界が広がっている。



あまり岩っぽさを感じさせない東山だけれど、古い採石場も残っている。花こう岩の多くが風化・浸食してしまったのに、清沢口の石切場跡には今も花こう岩の露頭が見られる。平安京の建設・発展に一役も二役も買ってきたのだろう。



瓜生山(301m)到着。まだ300mかぁ…。幸い暑さは感じず、少々肌寒いくらいなのだけれど、この先が思いやられる。軍事的な好立地なのだろう。瓜生山城、北白川城、将軍山城、あるいは勝軍山城とか、様々に名前と城主を変えて応仁の乱以降の歴史に登場する。



比叡山名物?の抉れた道。京都側からの登山道に多い形状だ。雨でも降ろうものなら川のように水が流れそうだ。



比叡山が遠望できる。ガーデンミュージアムの回転展望閣がよく見通せるけど、随分と遠くに感じる。あんなトコまで歩いていけるのかぁ…。できれば比叡山に登頂した後は、向こう側の大津坂本まで歩いていきたいんだけど、早くも心が折れそうだ。



先は長いというのに、茶山(192m)、瓜生山、白鳥山(320m)、てんこ山(442m)と丁寧に小ピークを拾っていく。眺望も何もないんだけれど、それでもYAMAPの登頂ピーク数に拘ってしまう。



石鳥居。老朽化も進んで不安定そうだと思ってきたけれど、倒れたという話は聞かない。この鳥居がどこの神社のものなのかさえよく知らないけれど、比叡山までのほぼ中間点の目印として重宝している。腹が減って、山頂で食べるつもりだった昼食を摂ってしまう…。



石鳥居から一旦下って、音羽川を渡渉する。昨夏トレランの女性が熊に襲われて負傷したというのがこの辺りのようだ。そういや熊鈴を消音モードにしたままになっていることに気付いたけれど、そのまま進む。



川を渡ってしばらく進むと、道の脇の森で何やら黒っぽい大きなものが動いた。ちょうどクマのことを考えていただけに、ひどくビビッてしまう。が、良く見るとシカ。普段はすぐ逃げ去るのに、こちらの動揺を見抜いたのか、いつまでも上から目線で見下している。



修学院からの雲母坂と合流。後醍醐天皇の側近、千種忠顕が戦死した水飲対陣跡の碑がある。隠岐配流にも同行するなど、不遇の後醍醐天皇をよく支えたけれど、建武の新政後には調子に乗り過ぎて好き勝手なことをしたようで、南朝方のなかでも評価は低いように思う。



女人牛馬結界の碑が残されている。女人と牛馬を一緒にするなんて失礼この上ないけれど、歴史的な記録として今も残されているのだろう。でも信長の比叡山焼き討ちでは、女人も撫で斬りにしたと伝わっているなど、女人禁制が守られていたのか?という疑問は消えない。



急登は続く。いつになったら比叡山に辿りつくことができるのか。幸いところどころにベンチがあり、遠慮なく休憩させていただく。



八瀬からの比叡山ケーブルの終着駅が見えてきた。といっても、まだ標高680m。歩くのがイヤなら、ここからロープウェイに乗り継ぐことになる。



ケーブル比叡駅からの眺望。正面の緑は宝ヶ池のようだ。その向こうには北山から西山へと連なる山々が見える。この先京都一周トレイルを歩き続けて向かわなければならない山々だ。



さほど暑くはないのだけれど、思っていた以上に水が欲しくなる。幸いケーブル比叡駅の待合室にある自販機で飲み物を補充するが、驚いたことに未だストーブがある。冬季は運休しているし、運転は昼間だけなのに、冷え込みは想像以上なのだろう。



大きな空地が現れた。かつて比叡山人工スキー場があったところだ。数年前にはスキー場が閉鎖されて10年ほども経つのに建物も撤去されず、中を覗くと貸スキーがズラリと並んでいたものだ。今ではここがスキー場だったことさえ気づかない人が多いはずだ。



ロープウェイ終着駅がある六甲ガーデンテラスにやってきたけれど、未だ冬季休館中。もっとも600円支払って入園する気もないんだけれど、困ったことに四明岳(838m)の山頂がこの園内にある。YAMAPの100mルールに救われて登頂したことになるだろうか。



登山道でも何人もの海外の方と出会ったけれど、山頂付近になると更にその数は増えてきた。随分と軽装の(おそらく東欧の)若者グループが元気に大比叡の山頂を目指している。日本まで来てわざわざ登るほどのところだろうか、とも思うけど、なんとなく嬉しい。



大津を見下ろす眺望。まさに湖国と呼ぶに相応しい町だ。標高は800mを超えているというのに、空気が澄んでいるのだろうか、随分と近くに町が見えるように感じる。



比叡山山頂(848m)。大比叡とも呼ばれるけれど、小比叡は聞いたことがない。放送局の中継所に囲まれた小高い丘の上に山頂碑が立つ。いや立つというより置いてある感じ。京都を代表する山だというのに、訪れる人も少ないせいか、かなりみすぼらしい山頂だ。



山頂から延暦寺に下りてきた。左が東塔、右が阿弥陀堂。東塔エリアから西塔、横川、坂本にまで大きく広がる延暦寺の境内には国宝・重文で溢れかえっている。もっとも延暦寺のシンボル根本中堂は未だ10年かけての大改修の最中だ。



表参道を通って坂本に下山。久しぶりに歩くけど、こんなに荒れた道だったかなぁ…。表参道とは違う道を来てしまったかと何度も地図を確かめながら歩いていく。



既に盛りを過ぎようとしている桜の向こうに琵琶湖、その向こうに三上山が見える。坂本は日吉大社ばかりではなく、穴太積みの石垣や美しい庭園を持つ風情のある寺院が多いところだけれど、桜の季節は一層美しく感じられる町だ。



距離13.5㎞、獲得標高1008m。所要時間は7時間24分。コース定数は26だった。結構疲れたとはいえ、コース定数19の開聞岳に比べれば遥かに楽に感じた。




龍王山(天理市)

 2024年4月7日


天理市にある龍王山に登ってみる。4月に入って暖かい日が続いているけれど、今日も快晴。山登りには既に暑すぎると感じるレベルだ。調べてみると12年前の5月に登っているのだけれど、想像以上に疲れたことは覚えている。



12年前は長岳寺ルートで登り、北(地図の左側)の天理ダム方面に下山したけれど、今回は未踏破の崇神ルートで登ってみたい。この崇神ルートの途中に1㎞四方に何百もの古墳が密集する、松本清張の小説にも「死者の谷」として紹介された国内最大級の墳墓群があるのだ。



スタートしてすぐに登場する前方後円墳は崇神天皇陵。日本史上、「実在した可能性のある最初の天皇」とも言われる崇神天皇。実在したとすれば3世紀後半で卑弥呼のすぐ後の時代となる。この周辺で発掘調査が進む纏向遺跡と合わせて、最近注目度を増している。



あちらこちらで桜が満開。ただでも全国から多くの人が訪れる山の辺の道だけれど、春の陽気に誘われて、さらに大勢の人が歩いているように見える。



山の辺の道から離れて、龍王山へ向かう登山道に入る。まだ平坦な道を20分ほど歩いただけなのに早くも汗ばんできた。時刻は既に12時を過ぎ。これからさらに暑くなるはずだ。



覚悟していたよりも平坦で歩きやすい道が続く。長岳寺ルートより崇神ルートの方が厳しいと聞いていた割には楽な道が続く。どうせ同じ山頂まで標高を上げていくのだからどの道でも同じと言う人もいるけれど、適当な勾配の坂道が長く続く方がありがたい。



山道を30分ほど進むと、なにやらコンモリとした小高い丘が杉林の中にあるのを発見。いかにも怪しいぞ。



小高い丘の裏側に回り込んでみるとビンゴ。明らかに古墳だ。開口部から少し覗き込んでみるけれど、何も見えない。というか、何か見えたら怖い…。



これらの墳丘は6世紀後半から7世紀前半にかけて築造されたものらしい。纏向遺跡や崇神天皇の時代とは300年ほども後の時代で、聖徳太子の時代にほぼ重なる。



悪戯を防ぐためなのか、天理市は古墳の位置を一般には公開していない。現地にも何の案内板も説明板もないけれど、登山道から左右を観察するだけでいくつもの古墳が容易に見つけることができる。もっとも川の向こうなど容易にアクセスできないものも多い。



内部は暗くてよく見えないけれど、当然盗掘されているのだろう。未発見のものも含めて1000ほどの古墳が集中しているというけれど、決して庶民の墓ではなく、相応の身分がなければこのような古墳の建設は難しいはず。それなりのお宝が眠っていたんじゃなかろうか。



それにしても数十年の間に1000基の墓ということは、単純計算では1ヶ月にひとつの古墳が築かれたことになる。「死者の谷」とは怖ろし気な名だけれど、この登山道では頻繁に亡骸を山上に運ぶ葬送があったことは間違いなさそうだ。



かなり開口部も広く、どこかから光が入り込んで内部もよく見通せるものもあるけれど、さすがに入ってみようとは思えず、外から恐る恐る観察するだけ。



通過するハイカーはここに古墳が多数あることを知ってか知らずか、素通りする人ばかり。登山路から外れて、穴をじっと覗き込んでいるのを、変な奴がいるなぁ…とでも思っているのかもしれない。



かなり時間をかけて10ほどの古墳を観察したけれど、そろそろ竜王山の山頂に向かうことにする。予想はしていたけれど、序盤が緩やかな道だったことの反動で、後半はかなり険しく荒れた道が続く。



途中、長岳寺の奥の院に立ち寄る。奥の院といっても建物はなく、高さ1.5mほどの不動明王の石仏が立つだけ。火焔光背を背負う凛々しいお顔立ちの不動明王だ。



長岳寺ルートとの合流点を過ぎ、いよいよ龍王山の山頂に向かう。かつては高取城を上回る比高を誇る龍王山に南北ふたつの城郭を築き権勢を誇っていた十市氏の本拠地だけれど、白の遺構は判らない。この辺りが大手門だろうか、と想像を逞しくするしかない。



かなり疲れたけれど、無事龍王山(585m)登頂。ちょっとガスってはいるけれど、奈良盆地を広く見渡すことができる。写真右には雄岳・雌岳の二つのピークを持つ二上山、左には標高1100m超の金剛山。その手前には畝傍山や耳成山もよく見える。



城の主であった十市氏は、松永・筒井の大和争奪戦に巻き込まれ、歴史の表舞台から姿を消している。もともと本丸があった山頂は今ではベンチなどが並ぶ、ゆったりした展望台になっている。設置された遊具は、どことなく城攻めを意識したもののように見える。



山頂の下にある龍王社。注連縄で結界が張られ、部外者の立ち入りを拒んでいる。麓の住民が雨乞いをした場所だとも聞くが、こんこんと泉が湧き出ている。龍王山城は険峻な山上にありながら、水の手にも恵まれた城であったようだ。



続いて北城に向かおうとしたけれど、案内板には×印だらけ。どうやら通行止のようだ。車道を迂回すれば北城まで辿りつけそうにも見えるけれど、今日はやめとこう。最近、醍醐山でも二上山でも通行止でUターンさせられることばかりが続いている。



長岳寺ルートで下山。しばらくはとても気持ちのいい、なだらかな尾根道が続く。でも記憶ではこんな呑気な道ではなかったはずだ。



下っていくにつれて、やはり険しい道になってきた。でもトータルで考えれば、やはり長岳寺ルートの方が歩きやすそうな気がする。



今日は新しいトレッキングシューズの履き慣らしを兼ねての山歩きだったけど、古墳探索の後は崇神ルートの急坂でヘトヘト状態で、靴の違和感など感じる余裕さえ無くなってしまっけれど、泥だらけの隘路で靴のことを思い出す。おニューの靴を汚したくない…。



長岳寺に下山。空海が創建したという古刹だ。ここでも見事な桜が満開だ。



距離7.8km、累積標高538m。所要時間は4時間20分。