金山&鐘ヶ坂隧道(丹波篠山市)

2020年9月27日 


先日登った黒井城(赤井氏)と八上城(波多野氏)の連携を断つべく明智光秀が城を築いた金山に登ってみよう。丹波篠山市の西北端、丹波市との市境近くにある標高540mほどの山だ。併せて鐘ヶ坂峠に掘削された明治、昭和、平成の3本のトンネルも訪問したい。



丹波市側から登頂開始。実は1枚目の写真は登頂後に丹波篠山市側に下山したときに撮影したもの。金山城跡に対する熱意が随分と違うものだ。金山登山の前に、鐘ヶ坂の「昭和のトンネル」を見学に行く。全長455mの立派なものだけど、新トンネル開通で閉鎖されている。



昭和のトンネルに続いて、明治のトンネルを見学に行く。トンネルまではなだらかな遊歩道になっているけど、おそらく荷車や馬車が通ったであろうトンネルだから、トンネルへのアプローチは元々それほどの難路ではなかったはずだ。



20分ほどの緩い登り道を経て明治の隧道にやってきた。煉瓦造りのトンネルでは日本で5番目に古いものらしい。草生した隧道の中を歩きたいが、入り口から数mの入ったところに鉄柵が施されている。長さ268mの真っ暗な隧道の先に豆粒ほどの出口の明かりが見える。



鉄柵の隙間から覗き込みフラッシュを焚いて写真を撮る。東海道53次で歩いた明治・大正・昭和・平成の4つのトンネルが残る宇津ノ谷峠のように、内部を開放すればいい観光の目玉になると思うんだけどねぇ…。耐震とか煉瓦剥離などに問題があるのだろうか。



トンネル見学で随分と遠回りをしたが、あらためて金山に向けて登っていこう。丹波篠山市側がメインの登山路で、丹波市側からの登山路の情報は少ないのが少々不安だったのだけど、鬱蒼とした森に続く薄暗い道を目の当たりにして、益々心配になってきた…。



いきなり丸太橋が登場する。4本あるとはいえ、それぞれの丸太はさほど太くもなく、かなり腐敗が進んでいる。恐る恐る丸太の上に乗ると、いっそ川に下りた方が安全ではなかろうか、と思わせるような軋み方をする…。



あとは坂をガシガシ登るばかり。多くは尾根道とはいえ、樹木が鬱蒼としていて眺望は無い。



もっとも標識は充実しているので道迷いの心配はない。ここで急坂に挑むか、巻き道(トラバース)に迂回するかの二択を迫られる。ここまでの登りは急坂のうちには入らないものだったようだ。となると本物の急坂は相当キツイはずと予想して安全そうな巻き道へと進む。



無難そうだと選んだ道だが、トラバースの幅がひどく狭い…。深い谷ではないけれど、道自体が谷に向かって傾いている…。10年ほど前の滑落事故の悪夢が蘇るような道がしばらく続く。



標識の多くは、「金山城」ではなく、「鬼の架橋」登山道になっている。どうも本来は、金山城跡ではなく、奇岩・奇景で名高い鬼の架橋の方がこの山の主役のようだ。



トンネル見学の寄り道も含めて1時間ちょっとで金山城の本丸跡のある頂上に到着。坂はそこそこ険しかったけど、標高540mにしては、意外にアッサリと登頂できた。スタート地点の鐘ヶ坂公園が既にそこそこの標高だったのだろう。



金山の山頂からは、明智光秀に敵対する赤井氏の黒井城の山容がはっきりと見える。まあ、見えるには見えるんだけど、直線距離で7㎞も離れていては敵の動きが判るはずはない。黒井城まで軍を動かすにしても、ここからでは半日かかるだろう。



逆サイドには、黒井城と連携する波多野氏の八上城が篠山盆地の向こう側に見える。こちらはさらに遠く14㎞離れているという。金山城は、見張り台としての役割より、威嚇や偵察を含む軍事行動ための部隊を両城の間に安全に収容できる拠点として必要だったのだろう。



金山頂上のすぐ近くに鬼の架橋と呼ばれる奇岩がある。4畳半くらいの巨岩が絶妙のバランスで2つの岩に乗りかかっている。



近寄ってみると、岩同士が接触しているのはごく僅か。こんな不安定な状態で長年動くことなくこの形が保てているのが不思議だ。恐る恐る岩を押してみたけれど、ビクとも動きそうにない。頑張れば岩の上にも登れそうだけど、さすがに怖くて自重する。



金山城跡、鬼の架橋ともに、期待を大きく上回る絶景で、満足感一杯でメインの登山路から丹波篠山市側に下山していく。苦手なトラバースだけど、こちらは道幅もしっかりあって不安感はない。



下山途中に、園林寺という尼寺の跡が残る。石垣の上には今も当時の建物が残骸となって朽ちるがままに放置されている。滝行など厳しい修行で有名な尼寺だったそうで、江戸時代末期から大正時代あたりまで、大勢の尼さんがこんな山深いお寺に居られたそうだ。



迷いようのない、判りやすい一本道だというのに、尼寺跡を興味深く探索しているうちに、間違った道に進んでしまった。倒木と蜘蛛の巣ばかりの道になり、どうやらおかしいと気づくまでに随分時間が掛かった。我ながら道間違いの才能?は相当なものだと思う…。



メインの登山路に戻りはしたが、結構ウンザリするような下り坂が続く。容易に比較はできないけれど、この道を登るより、マイナールートの丹波市側からの登る方が楽なんじゃなかろうか、とも感じる。



丹波篠山市側の下山口は、新鐘ヶ坂トンネル(平成のトンネル)の目の前になる。トンネルの向こう側が丹波市で、トンネル上の山々を歩いてここにやってきたのだと思うと感慨もひとしおだ。



平成トンネルは後回しにして、昭和トンネルと明治トンネルの丹波篠山市側の入口の探索に向かう途中、伊能忠敬の測量記念碑を発見。海岸線だけではなく、山や川も測量していたことにも驚くが、なんと131人もの労役を従えての測量だったということにもビックリだ。



おそらく伊能忠敬が歩いたであろう、鐘ヶ坂を越えるための旧道が今も残っているようだが、あまりに荒れ果てていて、探索する気にならない。



当然のことながら古いトンネルほど、距離は短いが、標高は高くなる。昭和トンネル入口は平成トンネルに比べて数十~100メートルくらいは高い位置で、棒葉の木に隠れるように昭和トンネルがひっそりと眠りについている。



トンネル内を覗いてみれば、まだまだ使用に耐えることができそうに見える。ここを完全封鎖してしまうのは何とも勿体ないなぁ…。



丹波篠山市側のトンネル探索を終え、長さ1012mの平成のトンネルを歩いて丹波市側に戻る。車道一車線ほどもある贅沢な歩道が完備されているという珍しいトンネルだ。国道のトンネル歩きは何度もしたけど緊張感が半端ないものだ。が、ここでは何の恐怖も感じない。



歩道をよく見ると無数の自転車のタイヤ痕が見える。歩道というより自転車道として多く利用されているようだ。丹波地区の自転車道充実の一環かとも思うけれど、平成トンネルの幅を抑えて、昭和トンネルを歩行者・自転車専用にした方が良かったのでは?とも思う。



本日の歩行軌跡。中央を斜めに貫く直線が最後の平成トンネル歩き。何度も線が交わっているけれど、高低差があって歩いた道は実際には交わっていない。それにGPS電波が届かないためトンネル部の軌跡は直線に描かれているけれど、実際は結構なカーブになっている。



総歩行距離は8㎞ほどだったけれど、金山城址、鬼の架橋、鐘ヶ坂トンネルのいずれも実に面白く実に充実したウォーキングで、多くの人にお勧めしたいコースだと感じた。

ただ残念無念なことに丹波篠山市側で明治のトンネルを発見できなかった。丹波市側でトンネル探索をした際の感覚で、明治トンネルは昭和トンネルの西にあると思い込んでしまっていたため、丹波篠山市側で昭和トンネルの東側を探さなかったのだ。付近のお店の方にも聞いたりしたものの場所が判らず諦めてしまったのだけど、後でGPS軌跡を確認すると明治トンネルは昭和トンネルの東にあったのだ。丹波市側で昭和トンネル見学の後、明治トンネル探索のため西に歩いたのだけど、なんとUターンするように昭和トンネルの上を通って歩いていたのだ。実に惜しまれる。

西宮七園めぐり(後)甲陽園~香櫨園

 2020年9月24日


先日は甲東園、昭和園、甲風園、甲子園の4つだけに終わった西宮七園めぐりだが、今日は残る三園を歩いてみよう。阪急甲陽線終着駅の甲陽園駅から出発だ。高級住宅街として知られるが、駅舎はスレート葺きにテント風の庇と意外にも質素だ。



西宮七園のうち4つには「甲」の字がつく。甲子園が甲子(きのえね)の年に建設されたことに由来していることは有名だが、その他の「甲」は、西宮市のシンボル「甲山」からの命のはずだ。甲陽園駅に近い大池からも甲山が良く見える。



大池の畔にある樹木の周囲には呼吸根と呼ばれる奇妙な突起物が多く見られる。伊丹の昆陽池周辺と同様のものだ。落羽松(らくうしょう)という木だそうだけど、松の仲間ではなく、杉の仲間で、別名は沼杉というらしい。



甲陽園から南に歩いていくと、大社中学校というのがある。この辺りで大社といえば廣田神社しかないけれど、随分離れている。移転したのかなぁ…。目に飛び込んでくるのが、「死ぬなケガすな病気すな」とド直球の標語が彫られた校門脇の石碑だ。気になるぞ。



夙川の鉄橋を甲陽線が渡っていく。わずか3駅を繋ぐ単線のワンマン運転だけれど3両編成の電車が結構な頻度で往復している。甲陽園駅付近に学校を誘致しているため、逆方向になる通勤・通学双方の乗客がある。かなり利益率の高い路線ではないかと想像する。



夙川沿いの遊歩道を南へと進む。阪神間の川には美しく整備されたところが多いけれど、最も人気が高いのは夙川ではなかろうか。川幅があまり広くもない割に遊歩道ゾーンが広く、対岸の緑や花も楽しむことができる。



犬を連れての散歩の途中、ベンチで休憩しながら本を読む女性の姿が見える。おとなしく待っている犬が愛らしい。先日も都賀川で川に足を浸らせながら犬を横に座らせて本を読んでいる女性を見た。季節が良くなってくると阪神間の川ではよく見かける優雅な光景だ。



苦楽園口橋の袂に苦楽園の町名由来説明板が見える。ここを開発した実業家が所有していた三条実美ゆかりの苦楽瓢という瓢箪に由来するという。単なる地元自慢ではなく、ここが開発前には「交通不便で狐狸の棲息する」土地だったというような話から始まるのが面白い。



阪急苦楽園口駅。ここが苦楽園と呼ぶ人も多いが、ここは苦楽園「口」であって、苦楽園に繋がる入口でしかない。苦楽園の町はここから徒歩なら15分以上はかかるところだ。



緩やかな坂道を登り、苦楽園を目指す。1㎞ほど歩いてようやく苦楽園一番町にやってきた。ここのバス停が「苦楽園麓」。その名のとおり、苦楽園はここからさらに高台に広がっている。芦屋との市境を超えれば、かの六麓荘だ。



苦楽園から夙川方面へと適当に歩いていく。うまい具合に夙川の支流と思われる水路沿いの道がある。閑静な住宅街のなかを貫く気持ちのいい道だ。



甲陽線を渡る。あらためて見るとまっすぐの線路が続く。鉄道が敷設された頃には、建物などの障害物が何もないところだったことが想像できる。



夙川に架かる歩行者専用の小橋。「こほろぎ橋」という風流な名前が付けられている。川辺から大きく張り出した松の枝が橋を一層情緒深いものにしている。映画のロケにもよく使われるという。



甲陽線の終着駅、夙川駅。阪急神戸線に直角に突き当たるようにホームが設置されている。右の線路は神戸線との連絡のためのものだろう。物理的には三宮から甲陽園までの直通電車も運航可能に思える。



阪急夙川駅の南にある片鉾池。ここがかつて大賑わいだったという香櫨園遊園地の一部なんだそうだ。池に張り出すように立っているのは夙川公民館だ。



香櫨園遊園地の遺跡が何かないものかを探しながら片鉾池公園を散策したが、何も見当たらない。阪急電車は夙川駅を香櫨園駅とするつもりだったけど、遊園地が阪神電車の傘下だったため、香櫨園という名前を使えなかったらしい。



片鉾池公園のすぐ南をJR神戸線が走る。公園と線路を遮る金網にしがみつくように行き交う列車を見つめる子供たちの姿が見える。子供だけでなく、大人だって楽しいぞ。



JR神戸線の夙川鉄橋の南西に、不思議な空地がある。個人的な想像だけど、もともとJRは芦屋駅と西宮駅の間の新駅をここに作るつもりだったんではないだろうか。実際は夙川の東側に「さくら夙川駅」が開業している。ネットを調べてもこの空地の意味が判らないままだ。



国道2号線を越え、夙川公園に入る。一見尼さんのような女性像があり、誰かが帽子を被せている。実際はバスタオルを羽織った少女像なんだそうだ。阪神大震災で大きな被害を受けたこの地域で亡くなった子供たちの慰霊のための像だという。



阪神香櫨園駅のあたりも、松が川に覆いかぶさるように生えている。人為的なものなのか、何らかの自然条件によるものなのか、どうしてここまでの傾きが保てているのだろうか。



阪急香櫨園駅に到着。橋上駅に似つかわしく、アーチ状のカーブを多用したお洒落な造りだ。さらに駅舎2階のホーム部分にバルコニーのような張り出しが設けられている。



実は香櫨園という町は無い。マンションなどに香櫨園という名前はアチコチで見つけることができるのだけど、その多くが香「櫨」園ではなく香「枦」園となっている。実は阪神の駅も一時は香枦園駅だったが、住民が開業当時の字を使うよう働きかけて変更されたと聞く。



これが香櫨園駅のバルコニー。ホームから自由に出入りできる。なんだかかつての喫煙コーナーのようにも見えるけれど、川の真上に設けられ、景色を楽しむためのもののようだ。地元の人はお立ち台と呼んでいるらしい。



香櫨園の町名表示が無いので、今日は甲陽園と苦楽園の2つの表示板をゲットしただけ。当初予定と異なり2日がかりになったけど、無事西宮七園巡りはこれにて完了だ。



今日の歩行軌跡。寄り道ばかりの7㎞強ののんびりウォーキングだった。