堂山~湖南アルプス~(大津市)

 2025年6月6日


大津市の湖南アルプスに出掛ける。長い間金勝アルプスの別名だと思っていて(実際に両者を混同している人は多い)、頻繁に耳にする山だというのに初めて出掛けることになる。右膝の具合が悪く、今回は欲張らずに湖南アルプスでも最も人気のある堂山に向かう。



田上枝公園の駐車場から20分ほど歩くと、巨大な構築物の建設現場が現れる。新名神高速道路だ。無数とも思える鉄骨を目の当たりにして、ここまで大変な工事なのかと度肝を抜かれる。この現場を見るだけでも、ここまで来た価値があるとさえ思える。



長らく新名神の建設現場を見学し、ようやく木漏れ日が美しい山へと入っていく。この辺りは、瀬田川の水運に恵まれ、古くから神社・仏閣の建築のための伐採が行われたため荒涼たる禿山となっていたらしい。近代になって植樹が行われたせいか、大きな木は見られない。



歩き始めて1時間ほどで堂山の東登山口に到着。が、膝のサポーターを持ってこなかったことに気が付く。膝の具合は明らかに良くないけれど、もう数日もすれば梅雨入り、そして酷暑…。まあ行けるトコまで行ってみよう、と天神川を渡渉して進む。



シダが生い茂る山道を登っていく。かなり暑さを感じる。天気予報によれば今日の気温は30度にもなるとのこと。未だ午前10時だというのに既に暑い。最近は25度を超えると急激に体が辛くなるようになった。



この辺りは過度の樹木伐採のため、治水に苦労してきたところらしい。そのせいで、明治に入るとオランダの技術者に指導を仰ぎ多くの堤防が建造されたそうで、近代砂防発祥の地になっているらしい。これは当時のオランダ堤防に倣って25年ほど前に築造されたものだ。



新オランダ堤防を過ぎると、沢を登っていくことになる。日陰では涼しさを感じるとはいえ、大きな岩を乗り越えながら進むうちに、やはり右膝が痛くなってきた。



こりゃダメだ…。今日は無理せず帰ろうと思いつつ、沢沿いの木陰で休憩。小さな滝もあって、とても気持ちいい。30分ほどもぼんやりとした後、帰ろう、と立ち上がったところ、膝の痛みを感じなくなっていた。もうちょっと登ってみよう。



鎧堤防を越えると、一面砂浜のような景色が広がっている。堤防が堰き止めた砂が広く堆積している。花こう岩の山だから風化で大量の砂が発生するようだ。山の中とは思えない光景にテンションが上がる。もっとも、どこをどう歩いていけばいいのか、道がよく判らない。



道はよく整備され、凹凸も少ないんだけれど、水が流れている。防水性能がしっかりした靴でないと辛そうだ。お気軽な山との触れ込みを良く見るけれど、十分な装備が必要そうだ。



ようやく眺望が開けるところまで登ってきた。正面に見えるのが堂山だろうか。ただその前に花こう岩が風化した急坂のザレ場を登ったり下ったりしなければならないようだ。膝の具合が快復するまで、さらにしばらく休憩をする。



登り階段ばかりが膝に負担がかかるのではなく、滑りやすい下りのザレ場の負担も大きい。どうも元凶は膝ではなく古傷の右股関節のようで、これを庇うために右膝や右のお尻が痛くなり、さらにそれらを庇うため左脚に負荷が乗り過ぎてきて最後には攣ってしまうようだ。



辛い。ザレ場の連続が膝の痛みを増すとともに、日陰のないところが続くだけに暑さも堪える。どこか座り込めそうなところがないか、ばかりを気にし始める。



一体何度目の休憩だろうか。琵琶湖や比叡山の遠望を楽しみながら座り込んでしまう。まあ、日没までに下山すればいい。とにかく股関節や膝を労りながら無事下山すればいいのだ。



湖南アルプスの山々に目を転じると、剥き出しになった岩肌が随所にあることが判る。おそらく、同じような花こう岩のザレ場なのだろう。一度はげ山になってしまうと、元の樹々が生い茂る山に戻すまでには随分な時間を要するようだ。



ザレ場を過ぎると少し不思議に思えるほどに道は真っ平なのだ。が、道幅は狭く、周囲の植生が枝葉を伸ばしており、半袖では腕に多数の擦り傷ができかねない。



その後岩場とザレ場が交互に現れ、もうそろそろ堂山に到着してもらいたいところなんだけれど、再三再四、偽ピークが現れる。せっかく登ってきたのに偽ピークだと判った時のショックは小さなものではないし、再び一旦下り、登り返さねばならないと思うと気が重い。



今度こそと思って辿り着いたのに、「堂山peak2」とある。すこし先に見えるpeak1のさほど広くないと思える山頂部には何人ものハイカーが休憩する姿が目視できる。キアゲハ(昔はキスジアゲハって呼んでたんだけど)が飛び交うpeak2でのんびり休憩する方が良さそうだ。



peak1の人影が見えなくなり再スタート。すぐそこに見えるのに、peak2からpeak1への道が超大変。ここに来るまでにも一歩間違えば大事故必至と思われる危険個所をいくつも通り過ぎてきたけれど、ここが最大の難所だ。へっぴり腰になりながらまずはpeak2を下っていく。



一旦下ると今度は、ウンザリするような岩を攀じ登っていかねばならない。どうしてこんな山が初心者向けとして紹介されているのか、憤りさえ覚える。



やっとのことで堂山peak1山頂(383m)。股関節も膝も痛いし、体力的にも精神的にも随分な疲労を感じる。体力も急激に落ちたような気がする。幸い誰も他のハイカーが来ないので、再び長い休憩。



登ってきたのはいいけれど、ザレ場の急坂を下っていくのは気が滅入る。こういう道が好きな人が多いことは判っているけれど、個人的には苦手な道だ。ましてや膝が痛いときに来るような山じゃなかったと後悔しながらも、慎重に下っていく。



天神川まで下ってきて、もうひと息とちょっと安心したのも束の間。ここからがさらに厳しい道だった。大きな岩を越えたり下ったり、何度も渡渉を繰り返し、進んでいかねばならない。岩にはところどころヌメヌメしたものが付着しており、油断すると転倒事故だ。



しかも道が判らない。赤テープもあったりなかったり…。右岸を進むか左岸を進むか、悩みながら下っていくけれど、何度も道を誤り、ついには怖れていたように転倒してしまい、川にちょっとドボン。幸い無事で済んだけれど、テンションはダダ下がり。



いやはや酷い目にあった。沢あり、岩あり、砂場あり、ザレ場あり、眺望も良し。体調が良ければ楽しかったのかもしれないけれど、とても初心者向けの気楽な山とは思えない。距離9.1㎞、登り獲得標高401m。途中3時間以上も休憩して7時間以上も掛かったしまった。



中山道(13)(八幡~和田)

 2025年5月14日


一昨年の暮れに日本橋をスタートした中山道歩きだけれど、1年半ほどかかって未だ24番目の宿場町、八幡宿。ここからがアクセスも悪い山深い地域に入っていくことになる。宿泊場所も限られているため、何としても24㎞ほど先の和田宿まで歩かねばならない。



八幡宿を出て、しばらく進むと、早くも望月宿の入口を示すような石碑が現われた。意外と簡単に到着したと思ったけれど、これは望月宿の入口というより、八幡と望月の境界線でしかないようだ。



望月の入口から瓜生峠を越えて宿場町まで歩いていくんだけれど、様々な道案内が交錯していてややこしい。ガイドブック、GOOGLEマップ、YAMAP、それぞれ中山道の道筋が微妙に違うし、現地でも複数の標識が違う方向を指し示している。



どうせなら、なるべく古い道を歩こうと、荒れた山道を歩いて、ようやく望月宿に到着。本陣を務めておられたお宅は医院になっていたけれど、脇本陣は今も当時の雰囲気を残している。小さな町だけれど、街道ウォーカーのためのトイレも用意されているのが嬉しい。



望月はかつて馬の名産地で、満月の日に朝廷に名馬を献上していたことから町の名前が望月となったそうだ。かつては馬を飼育する広大な牧が広がっていたというけれど、今では水田ばかりで、牧場の名残りは感じられない。



望月宿からしばらく歩くと、宿場間の距離が長いところに設置された「間の宿」、茂田井に到着。間の宿なのであまり期待もしていなかったけれど、古い土蔵や白壁造りのお屋敷などが立ち並ぶ、旧街道の名残りを色濃く残す街だった。



古い酒蔵も2軒残っている。道幅も当時のままのようで、長く続く白壁に沿って歩いていると江戸時代の旅人気分になれる。



間の宿にも関わらず、高いプライドを持って町を保全し、旅人をもてなしてくれていることが判る。ウォーカーのための立派なトイレ(厠と表記されている)やベンチなども用意してくれている。



雲りがちで浅間山も霞んでいるし、標高は700mほどもある高原地帯なんだけれど、気温は25度超。かなり暑く、歩くのが辛くなってきた。



芦田宿。道幅は拡張されているけれど、旧宿場町を彷彿とさせる木造の旧家が並んでいる。本陣、脇本陣ともに、当時のままではないだろうけれど、今もそれらしい建物が立っている。醤油・味噌・酢を伝統の天然醸造でつくる創業130年超の酢屋茂も軒を並べている。



江戸時代(文化元年)から220年以上営業を続いている金丸土屋旅館。かつては「津ちや」という屋号だったそうだ。広い間口に連子格子、白壁、卯建、天水桶…。時代劇に登場するような造りだ。ここに宿泊することも考えたけれど、まだスタートして9㎞でしかない。



難所の笠取峠を前に、古い松並木が1㎞ほど続く。決して行儀の良い並木ではないけれど、それが逆にいい趣を醸し出している。江戸幕府が中山道整備をした際に、17世紀初頭にここに植樹して以来、地元の方々が大切に補植、保全を続けてきたようだ。



松並木の西端にある東屋には、地元の小学生が手書きで作成したパンフレットが設置されている。松並木をもっと良いものにするための意見を書いてほしいと、ノートも用意されている。チラッと中を見たところ、3割くらいは海外の方のコメントだった。



国道142号線を笠取峠に向かって登っていく。中山道を継承しているにしては、大きな国道ナンバーだ。明治以降、追分からの北国街道に沿って道(国道18号)や鉄道(信越本線)が整備され、こちらは完全に取り残されてしまった。



気楽な国道の歩道歩きと思っていたのが大間違い。結構勾配がキツく、体力が消耗される。標高900mの笠取峠を越えると、「中山道原道」と書かれた案内標識や道路上の矢印が現れる。覚悟を決めてガードレールの隙間から山中へと入っていく。



おそらく車道を歩く方が距離は長いような気がするけれど、体力的な消耗は少なく済むはずだ。道が不明瞭なところや、案内板が無いところもあって、行き止まりで引き返すことを繰り返す。



予想をかなり上回る疲れを感じながらも、長久保宿に到着。長久保宿の古い旅籠の様子を体感できる歴史資料館「一福処濱屋」で長い休憩をさせていただく。



東西方向の竪町と、南北方向の横町から成る、珍しいL字型をした宿場町だ。和田峠と笠取峠という二つの難所の間に位置する窪地であることから、元は長窪という町名だったそうだ。



既に15㎞以上歩いているけれど、8㎞先の和田宿を目指す。それでも次の宿場町の下諏訪宿まで峠越えの24㎞の道程が残る。「峠前最終コンビニ」と書かれているけれど、下諏訪まで無いはずだ。30㎞もコンビニが無い国道なんてあって良いのか、などと憤慨したくもなる。



食料も飲料も調達が困難な地域に入るにあたって過剰とも思われる物資を購入。荷物は重く地味な登りが続く。気温も上がってきた。足腰はヘロヘロだけど進むしかない。「これより和田の里」とあるけれど和田の入口に過ぎず、和田宿はまだまだ先ということは学習済みだ。



何も無い退屈で辛い道が続くけど、面白いのが様々なバス停があること。雪深い地域だけに屋根付きのバス停は必須なのかもしれないけれど、これほど立派なバス停なのに、なんと一日1本しかバスは来ないのだ。近年ドンドン減便が進んでいるようだ。



中山道沿いに羽田孜元総理のお墓がある。長野県選出とは知っていたけれど、この辺りが出身地らしい。決して質素なものではないけれど、銅像や事績の掲示もない嫌味の無いお墓だ。



クルミ農園がある。クルミなんて、ほぼ全量輸入だと思っていたけれど、長野県東部ではかなり盛んに栽培されているようだ。



和田宿まであと2㎞くらい手前で足を攣り始めてしまう。芍薬甘草湯を飲んでしばらく休憩して歩き始めるけれど、また攣ってしまう。既に限界突破しているようだ。まさに足を引きずるように、和田宿まで辿り着いた。



和田宿本陣。疲労困憊だというのに、今日の宿は風呂無し食事無しの文久元年築の旧家を転用したところだ。宿で1時間ほど身動きもできなかったけど、食欲には逆らえず、小高い山の上まで20分ほど歩いて和田宿温泉「ふれあいの湯」まで食事・入浴に出掛ける。



距離24㎞、獲得標高725m、所要時間は9時間半。これくらいの距離はさほど苦しむことなく歩けると思っていたし、立体地図(上が北東)で見る限り大した山道を歩いたようにも見えない情けないことに限りなくボロボロ状態だ。



和田宿での体調次第で翌日和田峠越えをして下諏訪を目指すつもりだったけれど、到底無理だ。翌朝の一日一本のバスで撤退する。果たして和田峠を越えることができるのだろうか。今日の行程より更に厳しいはずだ。すっかり自信を失ってしまった。