日光街道(4)栗橋~間々田

 2025年12月11日


日光街道歩き4日め。中一日のウォーキングとなるけど膝が痛い。2日連続で歩くのが辛くなってきた。スタートの栗橋駅のすぐ近くに公園のようにキレイに整備された静御前の墓所がある。義経を追ってきたものの、この地で義経の死を知り、病を得たと伝わる。




すぐ北を利根川が流れているとはいえ、東京湾から数十㎞もあるというのに、栗橋の想定浸水深は5.9mもある。



まだ朝7時ということもあるけれど、空が暗い。街灯は未だ点いている。天気予報では雨が降る確率は低いんだけど、先行きに不安を感じる。遠征ウォークの場合、日程の変更ができないだけに、天気の急変だけは勘弁してもらいたいものだ。



かなり探し回ってようやく見つけた栗橋関所跡の碑。後方は利根川の堤防だ。ここを越えるいよいよ武蔵国から下総国(茨城県だけど常陸国ではない)に入る。散々探し回ったけど、GOOGLEマップにある本陣跡や渡船場跡は見つけることができなかった。



栗橋宿で2つのスタンプをゲットし、埼玉六宿で各2スタンプ、計12個のスタンプをコンプリートした。埼玉の特産品が当選すれば嬉しいけれど、気になるのは一等賞が東武動物公園の入場券ということ。これは貰ってもちょっと困る。



利根川の堤防にあがると、な、なんと富士山が見える。わかるかなぁ、写真でははっきり見えないけれど、写真中央に冠雪した富士山が見える。理屈では解っているけれど、実際に茨城・埼玉の県境から富士山を見るなんて感動ものだ。



これから渡る利根川橋に目を転じると、橋の向こうにも山が見える。筑波山だ。東の筑波、西の富士、という言葉があるとは聞いていたけれど、なるほど、ここから見るとまさにそのとおりだ。広い関東平野で明確に見える山といえば富士山と筑波山くらいなんだろう。



利根川の上流に気球が浮いている。10以上はある。渡良瀬遊水池に熱気球を体験できるところがあるらしい。でも渡良瀬遊水地といえば、熱気球より、複雑に入り組んだ群馬、栃木、埼玉、茨城の4県の県境が気になる。実際現地に行っても県境はないけど、言っていたい。



さすが、日本一の流域面積を誇る利根川だ。河口から100㎞以上もあるというのに、橋の長さは641m。さらに驚くべきは、堆積した川砂の膨大さだ。



利根川を渡ると茨城県。栗橋宿と川を挟んで中田宿がある。当然この2つの宿の間に当時橋などあろうはずがなく、渡船を使うより他なかった。渡船は大正13年に架橋されるまで続いていたという。



もともとは利根川の堤防上にあったという中田宿。現在の中田の街には、中田宿のモニュメントは立っているものの、当時の宿場町の名残りは感じられない。



しかしかつて「中田の松原」として知られた松並木は、形を変えて復活されようとしている。東海道にもない平坦な道に続くきれいな松並木だということで評判は随分高かったらしい。



中田宿に続いて古河宿。室町時代には伊豆の堀越公方が関東の西半分、この地を本拠とする古河公方が東半分を勢力下においていた。江戸時代も、陸路・水路の要地でもあり、江戸の北方を警護するため、譜代大名の有名どころを順次藩主に据えている。



日光社参の折には、将軍を出迎えたという茶屋跡。将軍は、初日は岩槻城、二日目は古賀城に宿泊すると決まっていたらしい。三日目は宇都宮城で、四日目には日光に到着したそうだ。だというのに、こちらは3日半掛かってようやく古賀。江戸時代の旅は実に忙しない。



日光街道と古賀城址の間に古い街並みが広がる。こちらは古賀名物の鮎や鮒の甘露煮を扱っている老舗「ぬたや」だ。



古賀城址には、歴史博物館、文学館、美術館などが配置されている。どこも古い風景とハレーションを起こすことがないよう、建築形式に工夫がなされている。



土産屋が立ち並ぶかつては三神町と呼ばれたエリア。今も土壁の造りの商店や飲食店が並んでいる。城下町でもあり、宿場町でもあった古賀の賑わいぶりが感じられる。



町の北のT字路に立つ道標。日光街道と筑波道の分岐を示すとともに、常夜灯を兼ねたものだ。有名な書家による文字だそうで、古い道標としては圧倒的に読みやすい。



ひどくレトロな郵便ポストがある。差出口が金色のポストって、これまで見た記憶がない。調べてみると昭和初期に製造された、現在日本で僅かに残る最古の現役ポストなんだそうだ。



古河宿を出て野木宿へと向かう。ついに下野国、栃木県下都賀郡野木町だ。広大なキャベツ畑が広がっている。完全に東京通勤圏外までやってきたと感じる。



日光街道のなかでは比較的小さな宿場町だったらしい。それでもこの地の人だけでは宿場町の運営ができなかったため、助郷といって、近隣の村からの助力を得ていたという。本陣跡には、かなり詳細な宿場の説明板が立っている。



馬頭観音が多い。中山道でも甲州街道でもそうだったけど、おそらく街道輸送のための荷駄に多数の馬が使役されていたのだろう。使い潰してしまうようなことも多かったに違いなく、これらの馬を供養しているのだと思う。



間々田宿に近づくと、「乙女」という文字が溢れている。心ときめくような地名だけど、オト(崖・傾斜地)のメ(境目)が由来らしい。



間々田宿は駅の北側にある。旧宿場町の見学は次回回しにして、JR間々田駅から帰宅する。間々田という地名は、まさかとは思ったけど、日本橋と日光の中間地点ということで名付けられたようだ。芭蕉は間々田まで2日で歩いている。



歩行距離20.7km、所要時間は7時間50分。東京、埼玉、茨城を経て、目的地日光と同じ栃木県に入ったというのに、まだ半分。なんだか割り切れない気分もあるけれど、あと4日で日光に辿り着けるのだろうか。




日光街道(3)春日部~栗橋

 2025年12月9日


日光街道歩きも3日目。最近長距離を歩くと右膝が痛くなる。今回の遠征は所用のある日を挟んでの2日間。春日部駅をスタートする。江戸時代には粕壁宿と表記していたものが、近年全て春日部に変わったと思っていたんだけど、春日部市内の中心部の町名は今も粕壁だ。



春日部の書道教室に、(おそらく)優秀な作品が展示されている。右端に掲げられた、中二とは思えない立派な書が、「奥の細道」。字も上手いけど、郷土への所縁を考えた渋い選択だね~。



商店のシャッターには江戸自体の商家の風景が描かれている。表札を見るとこのお店は箪笥屋さん。シャッターに描かれているのは江戸時代の箪笥製作の様子だ。江戸時代にこんな風に箪笥を作り始めて今に至っているんです、という誇らしいメッセージが読み取れる。




しばらく歩くと小渕の一里塚。江戸から数えて9里めの一里塚となる。史蹟としての石碑が立つだけだけど、これだけでも街道ウォーカーにとってはかなりの励みになるのだ。



杉戸町に入る。失礼ながらこれまで聞いた記憶さえない町だ。春日部を過ぎると、埼玉県でも田園地帯の色合いが濃くなってくるようだ。町境を越えるとすぐ現れるのが地球儀のようなモニュメント。北緯36度の上に立っているという。



杉戸宿。おそらく戦災からも逃れ、都市化の影響を受けることも少なかったのだろう。古い商家が数多く見られる。写真は創業300年超の酒蔵である豊島屋だ。



高札場。おそらく復元されたものだろう。通常高札場には、幕府や藩主からのお達しや禁令が掲げられているものだけど、ここの高札場には杉戸宿の歴史や高札場とは何か、などの説明が記載されている。



東京オリンピックの聖火リレーを記念した立派な石碑が立っている。市内を6人のランナーが約200mずつ聖火を運んだようだけど、こんなものを作るなんて、よほど嬉しい出来事だったんだろう。



大落古利根川。おおおとしふるとねがわ、と読むらしい。元の利根川は、この川筋を通って江戸湾へと流れ込んでいたという。家康が関東に移って以来、利根川の付け替えが精力的に行われたという。川岸は整備された遊歩道になっていて、鴨などがのんびりと寛いでいる。



杉戸宿の北端の枡形にある江戸時代からの米問屋。街道に沿って母屋と蔵が並んでいる。古利根川の水運を利用して、手広く米穀を扱っていたらしい。



杉戸を抜けると、旧街道は田園の中を抜けていく。曲がるべきところの目印がなく、かなりの道迷い、遠回りをしてしまった。



螺不動尊。普通は田螺だけど、ここでは螺一文字で「たにし」と読むようだ。田螺をたくさん取って食べたので、その供養のためのものかと思ったけど、昔火災に見舞われた際、大切な不動明王像にたにしが張り付いて延焼を防いだことに由来するらしい。



幸手宿に到着。幸手は「さって」と呼ぶようだ。旧街道に沿って桜色のバナーが吊られている。幸手町も初めて聞く地名のような気がするけれど、予備知識なく見知らぬ街へと入っていくのはワクワク感がある。



ここも都市化の波に呑み込まれることなく、古い家屋が多く見られる。「ふるさとの道 日光街道」とあるけれど、江戸時代以前に遭った町ではなく、日光街道と日光御成道(将軍が日光参拝の際に使用した、家康の遺体が通った道)の合流地点に造られたようだ。



日光街道の風景をペイントした自販機。でも傍らに立つお坊さんが誰なのかが判らない。芭蕉ではないよねぇ…。



本陣跡。とても丁寧な説明板が建てられている。今では本陣の名残りも残っていないけど、元々が千坪もあったというから、到底維持できるようなものではない。



幸手の一里塚跡。宿場町のなかに一里塚があるのは偶然とはいえちょっと珍しい。やはり丁寧な説明板が設置されているだけでなく、塚をかたどったようなモニュメントが立っている。



幸手宿を過ぎると、西側に幾つもの山が連なっているのが見える。おそらく群馬県の赤城山とか榛名山のあたりのようだ。広大な関東平野だけど、いよいよ端っこを感じられるところまでやってきた。



日光街道と筑波道との分岐点(追分)を示す道標。250年も前のものだけに、ただでも詠みにくい旧字体のうえに、石が削れたり汚れたりで判読は大変だ。この種のものは、多少修復して読めるようにすべきなのか、何もせずそのままにしておくべきなのか、難しいところだ。



右は国道4号線。ちょっと嵩上げして、交差点を減らす工夫がされている。国道の土塁の下の道を歩くんだけど、国道の歩道を歩くことに比べれば随分と歩きやすい。



東北新幹線が青物野菜の畑のなかを貫いている。のんびり歩いていると、気付かぬ間に太陽が随分と西に傾いている。関東では関西に比べて20分ほどは日没時刻が早いはずだ。



栗橋宿の手前に炮烙地蔵堂がある。江戸時代の刑場跡なんだそうだ。栗橋は利根川の手前にある国境の街で、関所も設けられていたところらしく、関所破りはここで火焙りの刑に処されたそうだ。



暗くなる前に栗橋宿に到着。橋をひとつ渡ると、茨城県なのだ。日光街道が埼玉と栃木の間に、少し茨城県を挟んでいることが意外だ。もう一度地図を見てこの辺りの地理を良く勉強しておかねばならない。



栗橋宿には静御前の墓があるという。気になるところが多い栗橋宿だけど、見て回るのは次回まわしにして、栗橋駅から投宿している春日部に戻る。東武鉄道に乗らねばならないのに、駅が隣接一体化しているJRの宇都宮線に乗ってしまった…。



本日の歩行距離26.1㎞。出発した春日部の標高は7m、終点の栗橋が14m。ほぼ真っ平だ。所要時間は9時間20分。