高尾山・かしわら水仙郷(柏原市)

 2025年2月26日


柏原市の高尾山の山麓に整備されている「高尾山創造の森」にある水仙郷を見に出掛けます。大寒波の影響で3月も近いのに未だ満開ではないとのことですが、行けるときに行っておかねば、春の到来とともにすぐ開花期が終わってしまいそうです。



JR柏原駅をスタートし、結構な急坂を登って鐸比古鐸比賣神社へ。「ぬでひこぬでひめ」神社。鐸比古と鐸比賣の二柱を祭神としているのはいいけれど、なんて読みにくいんだ。この神社が高尾山創造の森の入口となる。



ゆっくりと階段を登って、水仙郷に向かう。つい先日まではひどく寒かったのに、今日は春の到来を感じさせる暖かさだ。



高尾山創造の森には、たにごえ、いにしえ、みはらし、きぼう なかよし、くつろぎ、ひのき、といった道が整備されている。何だか公園の遊歩道のようなネーミングだけれど、それぞれ結構な山道だ。



ちょっと寄り道して夫婦岩へ。ちょうど鐸比古鐸比賣神社の真裏の崖の上にある。注連縄が張られているところを見ると、磐座のようなものかもしれない。



1時間弱ウネウネした山道を登って、ついに水仙郷に到着。地域の方々が手塩に掛けて栽培してきたものだという。事前の情報で覚悟はしていたけれど、確かに開花が遅れているようっだ。



それでも沢山の水仙が白い花を開いている。平日のことなので、大して人にも出会うまいと思っていたのは大間違い。シニアや女性が中心だけれど、この水仙を目当てにやってきたに違いない何十人ものハイカーが行き交っている。



それにしてもやや俯き加減の水仙の写真を撮るのはなかなか難しい。上から下から、色々な角度から撮影を試すけれど、満足できるものが撮れない…。



水仙といっても、いくつもの種類があるようで、同じような場所にあっても未だ蕾ガチラホラと付き始めたようなものもある。



水仙郷を中心とした山道には素朴な木の階段が設置されているのだけれど、多くの木には何本もの切れ目が入れられていて、足が滑らないような優しい工夫をしてくれている。



せっかくなので、水仙郷の上にある高尾山まで登ってみることにしよう。高尾山への登り口には鐸比古大神と書かれた扁額がある。鐸比賣の文字は無い。



行きがけの駄賃のように登り始めた高尾山だけれど、これがなかなか険しい山道。登ったところで何も無いに違いないんだけれど、登り始めた以上、登っていくしかない…。



道は益々険しく、補助ロープ無しでは登るのが難しくなってきた。まあ登るのはいいけれど、下るのが厄介そうだ。



呑気な山歩きのつもりだっただけに、想定外の険しさに驚かされたけれど、無事山頂(277m)に到着。山頂は狭く、樹々に遮られて眺望はイマイチだけれど、大和川が奈良方面から堺へと流れていく様子はよく見える。



登りは主に「たにごえの道」「なかよしの道」を歩いてきたけれど、下山は「いにしえの道」「くつろぎの道」で戻ることにする。要所には立て看板が充実しているのはいいけれど、地図を持っていないと「いにしえの道」と言われても、どこに向かうのかが判らない。



いにしえの道。あまり道が明瞭ではないけれど、迷うようなところではない。どうやら付近に古墳が多くあることからのネーミングのようだけれど、今日は古墳の気分じゃない。



南パノラマ展望台。正面には八尾空港の滑走路が見える。休憩しながら八尾空港から離着陸する小型飛行機を待っていたけれど、全く飛行機がやってこない。奈良方面から伊丹空港に向かう大型機は頭上を何機も飛んでいくんだけれど…。



エノキの巨木を取り囲むように大きなウッドデッキが設置されている。せかせかと歩くのは似合わない景色が続く。



再び水仙の群生が現れた。多分これが最後の水仙だと思えるだけに、何とかいい写真を撮ろうと頑張るけれど、やはり難しい。



水仙の特徴は、何といっても白い花弁に囲まれた黄色い副花冠。中国では水辺の仙人ということから名付けられ、欧州ではナルシストの語源として知られる水仙だけれど、なぜそんな風に見えるのか、ピンと来ない。



ブドウ園が広がっている。さすがに未だ葉も見えず、枯木のような状態だけれど、秋までには立派なブドウが実のだろう。



「柏原ぶどう」の大きな看板が立つ。昭和初期には全国で大阪府がブドウ生産高のトップだったと聞いたことがある。今では6位くらいになっているらしいけれど、柏原は今も全国有数のブドウの産地だ。



業平道と書いた立派な石標がある。どうやら在原業平が恋人の元に通っていた道ということで名付けられたらしい。奈良や芦屋、さらには東京にまで業平の名のついた土地や橋があるけれど、在原業平ってそれほど人々に慕われている理由が良く理解できない。



歩行距離5.4㎞、獲得標高353m、所要時間は3時間12分。呑気な山歩きだったけれど、右膝に少し痛みを感じるのが気になる。



中山道(9)(安中~横川)

 2025年2月16日


中山道遠征も3日目。風邪の症状は治まったけれど、身体はクタクタ。高い交通費を払ってここまで来たからには、とは思うけれど3日連続で歩くのは今では随分と辛い。帰路の時間に余裕を持たせるため、大きな亜鉛工場がある安中駅に始発でやってきた。



さあ、安中宿の探索だ。が、期待していたほどに宿場町の風情は見られない。郵便局前には本陣跡を示す簡素な標識が立つだけだ。



旧街道といえば、道幅はせいぜい3~4間(5~6m)くらいのものだと思うんだけれど、日本橋からこのかた、どこも道幅は拡張されていて、旧街道らしい雰囲気にはまだ出会えない。



安中藩士の住宅が再現保存されているというので、少し寄り道して見学する。開館時間前なので塀の外から覗き込むだけだけど…。これはおそらく下級武士が住んでいたと思われる4軒長屋。庭付きとはいえ、広さはせいぜい40~50平米くらいだろうか。質素なものだ。



こちらは奉行職にあった武士の家。門付き、庭付きの一戸建て。なかなか重厚で住み心地の良さそうなお宅だ。



今では大きな亜鉛工場や化学工場が市の主要産業のようだけれど、かつては養蚕で栄えたという。古く重厚な蔵がいくつも見える。



安中の西木戸跡。この先はいよいよ中山道最大の難所とも言われる碓氷峠に向かって、勾配がきつい道になるようだ。



新島襄の生家を訪問。同志社の創設者というより、会津若松城でスペンサー銃を撃ちまくった八重の旦那さんとして知られているかもしれない。下級武士というけれど、結構大きなお宅だ。藩主に認められて蘭学を学んだというから、もっと上の位だったのかもしれない。



貯水槽には安政遠足の絵が描かれている。今まさに歩いているのは当時の遠足で武士たちが走った(歩いた?)道だ。碓氷峠までなんて元気な時でも到底ムリだ。2日間の街道歩きの疲れが重く蓄積しているけれど、なんとか横川駅まで辿り着きたいものだ。



「中山道しのぶ安中杉並木」と上毛かるたにも取り上げられている杉並木。こういう道にやってきると俄然元気になる。400年ほど前に整備されたものだという。排気ガスで枯れる木も多いと聞くけれど、是非とも保護してもらいたいものだ。



赤城山、榛名山とともに上毛三山と呼ばれる妙義山。松井田宿からすぐのところだ。登山でも人気の山だそうだけれど、ポンコツハイカーにはとても登れる山には見えない…。



いよいよ道路標識に軽井沢の文字が現れた。道の向こうには浅間山が聳えている。



松井田宿。日本橋から数えてようやく16番目の宿場町だ。中山道69宿の2割を少し超えたに過ぎないことに愕然としてしまう。古い低層家屋が多く、ようやく田舎町にやってきたという気がする。



薬局なども宿場町を意識した意匠で建設されている。疲労が蓄積した足腰は既に悲鳴をあげ、松井田駅から帰ろうと言い始める。この先は更に坂が続くだろうけれど、ゆっくりでも何とか横川駅を目指そう。



落ち着いた街並みではあるけれど、ここも本陣や脇本陣は残っていない。ごく簡単な説明板が電柱に括り付けられているだけだ。



松井田宿をさらに西へ1時間ほど歩くと、五料茶屋本陣がある。参勤交代の大名などのために設けられた休憩所のようなものらしい。内部も見学できるようだけど、既に足腰はパンパンで、一旦靴を脱いだらもう歩けなくなりそうな気がしたので見学は控えた。



地味な坂道を登って横川を目指す。夜泣き地蔵と茶釜石。叩くと釜のような音が鳴るらしいけれど、お地蔵さんに睨まれているようで、叩くことはできなかった。



信越本線。新幹線開通に伴う並行在来線の縮小が行われた結果、多くの区間が3セク化された。さらに横川~軽井沢間は廃線になり、その結果、信州や越後とも分断され、高崎~横川の8駅間を一編成の普通列車が行き来するばかり。「信越」でも「本線」でも無くなった。



遠く谷合に横川の集落が見えてきた。もうひと息だ。手前の山が近づいてきたせいか浅間山はむしろ見えにくくなってきた。この寒さでは碓氷峠に挑むことはできないけれど、また暖かくなってから戻ってくるぞ。



13時半、ついに横川駅に到着。疲れと痛みに耐えてよく頑張った。昼食も摂らずにやってきたのは、おぎのやで横川名物、峠の釜めしを食べるため。



持ち帰りで駅舎のベンチで食べるつもりだったけれど、店に空席があったので、店内で釜めし定食を食べる。釜めし1400円に300円プラスで、みそ汁、香の物、さらに碓氷峠の力餅がひとつ付く。一気に平らげてしまった。



横川駅舎。近くには碓氷関所跡や鉄道関係施設もあって、観光客が随分と多い。もっともここまで歩いてきた人はさほど多くはないはずだ。春には横川駅から坂本宿を経て、碓氷峠、そして軽井沢を目指すため再訪したい。



寸断された信越本線。どことなく物悲しい。ここから軽井沢までの廃線ウォークというのもあるらしい。とても気になるぞ。街道も歩きたいし、廃線跡も歩きたい。次回はもう少し時間的な余裕を持ってやってくることにしたい。



距離19.5㎞、所要時間は6時間19分。獲得標高も390mと中山道歩きで初めて登りらしい道を歩いたけれど、まだまだ序ノ口。この先の碓氷峠は相当大変だと聞く。



日本橋から9日かけて、ようやく長野県境手前の横川。少しずつ歩行軌跡は伸びてはいるものの、いつになったら京都に辿り着くのか、考える気にさえならない。



中山道(8)(倉賀野~安中)

 2025年2月15日


昨日赤城おろしにやられて引いてしまった風邪は、朝になっても癒え切らず出発を逡巡していたけれど、11時を過ぎてようやく倉賀野駅から始動し、宿場町の後半を見て回る。本陣は残されていないものの、脇本陣跡にはそれっぽい建物がある。



高札場も復元されている。バテレン(宣教師)を訴え出た者には銀500枚、イルマン(修道士)なら銀300枚の報奨金が出るという。銀500枚といえば、現在価値で4000万円ほどにもなるようだ。



倉賀野宿を過ぎると、復元された松並木が現れる。石碑には「左側通行」とある。どうやら中央分離帯のように松並木を配置していたようだ。



高崎を始点とする上信電鉄。いかにもローカル線らしい単線だけれど、国内では4番目に開業した私鉄なのだ。信越両国と江戸を結ぶ物資の集散地、高崎の繁栄ぶりが窺える。もっとも信州まで延伸するつもりで上新電鉄と名付けたものの下仁田止まりとなっている。



人口37万、群馬県の最大都市となる高崎の市街地にやってきた。突き当りが高崎駅の西口。道路幅が広く、開放感のある街並みだ。



寄り道して高崎城址へ。もとは井伊直政が築城したものだ。広大な城域は今では高崎市役所、医療センター、音楽センターなどに分割されているけれど、僅かに乾櫓と長屋門が残されている。実は一旦農家に払い下げられて納屋になっていたものを買い戻したらしい。



群馬音楽センターの前には、大きな弦楽器(チェロ?)のオブジェが立っている。が、近づいてみると、なんと電話ボックスだと判って驚かされる。



さらに巨大な象の藁人形が立っている。高崎と象の関係は良く判らないけれど、高崎ってかなりアートな街だ。



中山道に戻り、高崎市街地を西へと横断。大都市のはずが、城下町の堅苦しさのため敬遠されがちな宿場町だったそうで、本陣も脇本陣も無かったそうだ。蔵造りの古い商家なども少しは見られるものの、街道や宿場町の風情はほとんど感じられない。



高崎を過ぎれば、いよいよ広大な関東平野の西端も間近だ。東京からほぼ途切れることなく続いてきた都市圏を抜け出し、ようやく田舎にやってきたような気がする。浅間山が一層存在感を増してきた。



遠くに見える立像は高崎観音に違いない。高さは41m。近年は100m級の仏像が増えてきたので大した巨仏といえなくなってきたけれど、築90年近い高崎観音は今なお高崎屈指の名所となっている。



市の西部にはいくつものダルマ工房が見られる。上州のからっ風がダルマに張る紙の乾燥に適していたことで生産が始まったそうだけれど、江戸時代に天然痘が流行った際、赤いダルマが厄除けになると江戸の人々が買い求めたことで爆発的に成長したらしい。



今では赤だけでなく、色とりどりのダルマが生産、販売されている。駅の土産物屋を覗いてみても、やはりイチオシは様々なダルマグッズだ。



藤塚の一里塚。日本橋から数えて28番目の一里塚となるけれど、現存する一里塚は随分と久しぶりだ。塚木は樹齢200年超の榎だという。



群馬県内に入ってから、1㎞ほどおきに中山道の木製標識が立っている。次の宿場町までの距離が書かれているのだけれど、老朽化してほとんど読めない…。文字だけでも上書きしてもらえないものかと思う。



群馬県は長野県と並んで道祖神が多い地域だという。特に目を惹くのは男女双対道祖神というもの。仲の良い夫婦が寄り添っているような絵柄にはホッコリさせられる。



第九中仙道踏切。中山道歩きの途中から気付いたのだけれど、どうやら中山道がJRを横断する踏切には通し番号が付けられているようだ。確か熊谷の踏切が第六だった。ひとつひとつを丁寧に確かめてくれば良かった…。



板鼻宿に到着。かつての本陣は公民館になっている。和宮は京を出て20日めにここで宿泊したらしい。2万人以上もが付きそう前代未聞の大行列で、ゆっくりと降嫁したように思っていたけれど、ここから5日で日本橋に到着しているのだから一日24㎞ほどにもなるペースだ。



公民館の裏には和宮資料館がある。かつて和宮が宿泊したという書院だ。大して居心地の良さそうな建物には見えないけれど、伊賀者が床下で警護するなど、とにかく安全第一だったのだろう。残念ながら休日は内部見学できない。



板鼻宿には清水を満々とたたえる用水路が流れている。碓氷峠か榛名山の方から湧き出た水だろうか。人工の用水路だというのに一切の汚れを感じさせない清らかな水だ。醒ヶ井の用水路にも似たところだ。それぞれのお宅ではこの水を生活用水に引き込んでいるらしい。



出発が遅かったせいもあって、早くも17時前。西の空は夕景色だが、異様にゴツゴツした山が聳えている。妙義山だ。これまた群馬を代表する親分さんだが、登れるのような気がしない。山の傾斜は垂直よりさらに反り立っている。



碓氷川。山にも近いだけにゴツゴツした川原石が転がっていそうなところなのに、やけに丸っこい石ばかりが目に付く。ここまで転がってくる間に早くもこれほどに削られたということか。この後の道の険しさが思いやられる。



安中市に入る。群馬県最西端の市になり、気持ちは高揚するけれど、信越本線の安中駅で今日はフィニッシュ。安中駅の西側にある安中宿の散策は明日の楽しみとしよう。




安中といえば、かつて安中藩主が藩士に課したという遠足(とおあし)で知られる。安中から碓氷峠までを走らせた(歩いていた?)という。距離30㎞、標高差1000m。日本におけるマラソンの発祥と言われるが、今も年1回これを記念したマラソンが開催されている。



歩行距離16.9㎞、所要時間は5時間45分。風邪気味だったけど、なんとか目標を達成することができた。もっとも体はクタクタだ。明日は安中宿から横川を目指すつもりだけれど大丈夫だろうか。勾配もきつくなりそうだ。