中山道(12)(岩村田~八幡)

 2025年4月24日


午前中は観光に充てて、午後から可能な限り中山道を西進することにしたい。浅間山に見守られながらJR小海線の岩村田駅をスタートするものの、この先下諏訪までは鉄道と遠く離れた道を行くことになるうえに、路線バスさえごく限られたものしかない不安な区間が続く。



岩村田駅からしばらく歩くと相生松が現れる。和宮が江戸への降嫁の途中、ここで野点をしたという。今では住宅に囲まれて、落ち着いて野点ができるようなところではない。



まだ岩村田を出てさほども歩いてもいないのだけれど、レストランがあるうちに昼食を済ませることにする。中山道では昼食はほとんど麺類なんだけど、ちょっと気になるカニ入り焼うどんを注文。う~ん、イマイチ。中山道で初めてのイマイチランチとなった。



昼食を終え、あらためて浅間山に急き立てられるように、歩き始める。この辺りは浅間山の火山灰が降り積もった土壌で、米作にはあまり適さないらしい。



ということで、寒暖差の大きさも利用して、リンゴの栽培が盛んだ。街道に沿ってもいくつものリンゴ園が広がっている。



ちょうどリンゴの蕾が綻びはじめている。リンゴの花の寿命は10日ほどととても短いらしい。その短い間に受粉が行われないとリンゴの実が付かないというけれど、未だ受粉の作業をしているようには見えない。



菜の花畑の向こうには八ヶ岳。昨日は気温も低く冷たい雨が降っていたけれど、今日はポカポカの晴天で風も無い。汗ばむほどの陽気だ。



全く誰も歩いていない道をトボトボと歩いていく。車でさえ少ない。それなのに、ごく普通の民家に中山道パンフレットを入れたボックスが設置されている。



満開の桜の向こうに浅間山。その間にリンゴ園。桜の花と浅間山、リンゴの花と浅間山、リンゴの実と浅間山…、季節ごとに美しい構図の風景が楽しめそうなところだ。




小さな集落が続くけれど、旧中山道であることをとても誇りに、そして大切にしていることが感じられる。中山道の標識もとても美しい花壇に囲まれている。



塩名田宿にやってきた。海の無い信州で塩が付く地名は奇妙だとも思ったけれど、よく考えれば塩尻もある。信州に塩を運び込む拠点だったのだろうか。



街道沿いの家々には、旧宿場町の風情を感じさせる木製の表札が掲げられている。太い筆文字のフォントもいい感じだ。



丸山新左衛門本陣跡。今も立派なお屋敷が建っている。道向かいには丸山善兵衛本陣跡がある。先の写真も丸山煙草店だ。丸山姓が多い地域のようだ。



高札場跡。多くの宿場町で見られる高札場だけれど、通常は当時の高札と同じようなものを製作し掲示していることが多い。ところがここでは、高札場にベニヤ板を貼って、現役の掲示板として利用されている。復元するのもいいけれど、古いものを活用するのも悪くない。



岩村田宿の名物ともなっている木造三階建住宅群。一階の出口とは別に、三階からも崖の上の道に直接出ることができるようになっている。



暴れ川で知られた千曲川。江戸時代には何度も橋を架け変え、そして流されることが繰り返されたという。明治に入ってからは、ここに舟橋を設置したらしい。川の中に幾つも見える石は舟橋用の舟を繋いだ「舟つなぎ石」だという。



今では立派な鉄橋が2本も架かっている。うち1本は歩行者専用だ。橋の中央にはベンチも設置された、昔の旅人が羨むような贅沢な構造だ。



千曲川は南(写真方向)から北に流れ、信濃川となって日本海へと流れている。長野県の分水嶺は随分と複雑で、どちら向きに川が流れるのか、即座には判断が難しい。



中山道の標識と浅間山。とてものどかな街道だ。



「一家三兵士」と書かれた立派な石碑がある。日露勇士とされた三人の息子全員が日露戦争で戦死している。さらに父親は日露戦争前に亡くなっている。母親は家族の全てを失い、ひとり昭和まで生きたようだ。碑が作られた経緯も判らないけれど、あまりに悲しい。



日本橋から数えて24番目の宿場町、八幡宿に到着。中山道は六十九次だからようやく三分の一を超えたことになる。本陣跡に古い門が立っている。



静かで簡素な街並み。あまり旧宿場の雰囲気は感じられないけれど、いかにも昭和っぽい落ち着いた街並みだ。



八幡宿の西端にある八幡入口から佐久平まで千曲バスに乗る。もう少し歩きたいけれど、この辺りで終えなければ帰宅できない。千曲バスはこの先、望月宿、芦田宿まで。その先の長久保宿には繋がっていない。いよいよ公共交通手段での移動が困難なエリアに入ってきた。



新幹線の佐久平駅。いかにも山に囲まれた佐久盆地の代表駅らしい山型の屋根が印象的な駅舎だ。



距離8.7㎞、獲得標高100m、所要時間3時間48分。午後からのスタートだったので、短いウォーキングでの2宿制覇に終わった。いつになるかは分からないけれど、問題はこの先だ。移動手段、宿泊場所、徒歩距離、どれもが難しい。



中山道(11)(軽井沢~岩村田)

 2025年4月23日


中山道遠征2日目。昨日は重い荷物を背負って碓氷峠を歩いたけれど、今日は佐久盆地のほぼ平坦な道。しかも荷物の大半を軽井沢の宿に置いての軽装だ。しかし残念ながら朝から雨模様。大した雨ではなさそうなので平装で軽井沢を出発するけど、先行きは不安だ。



軽井沢は綺麗な街だけど、自販機やごみ箱がほとんど無い。軽井沢から離れてようやく自販機が登場した。甲州街道では随分と利用したハッピードリンクショップだ。低価格で各種メーカーを取り揃えているのが有難い。単なる自販機ではなく、○○店と名付けられている。



近衛文麿元首相の別荘。テレビドラマに出てきそうな、以下にも、といった感じの瀟洒な洋風建築だ。今では市に寄贈されて記念館になっているようだけれど、朝が早すぎて未だ開館していない。



別荘風の洒落た住宅が並ぶ静かな道を進んでいく。どのお宅も美しく庭を整備されていて、道行くよそ者にも様々な花を楽しませてくれる。特に道に覆いかぶさるように枝を伸ばす桜の木は小雨のなかをトボトボ歩く惨めさを忘れさせてくれる。



沓掛宿にやってきた。しかし最寄りの駅名は中軽井沢。沓掛という名前より軽井沢を名乗る方が圧倒的に地域ブランドアップになるということだろうか。



特に遺跡もみあたらず宿場町としての風情は感じられない。雨脚が強まってきてLLBeanの粗品で貰ったレインポンチョを着込む。街歩きなら役に立ちそうと思ってリュックに入れておいたものだけど、結構大きくて風でバタバタする。どのように着るのが正解か判らない。



馬頭観音がとても多く見られる。本来は馬とは関係のない観音様だったというけれど、その名から馬の守護仏として崇められることが多くなったという。街道で多数使役されていた馬の健康を祈り、あるいは亡くなった馬たちの霊を弔ったものに違いない。



追分宿に入ると随分と路面が丁寧に整備された道となる。立派な追分宿記念館があるけれど、残念なことに休館日。「風立ちぬ」など、軽井沢を舞台にした小説で知られる堀辰雄文学記念館も休館日。



追分宿はかつては飯盛女が多数いることで知られる宿場町だったというけれど、今ではそうした猥雑な雰囲気とは無縁のとてもスッキリとした街並みが続く。



追分宿の出口付近にある有名そば店に立ち寄りたくて、開店時刻まで色々と時間を潰す。街道を少し外れて泉洞寺へ。カーリング地蔵や卓球地蔵など、風変わりなお地蔵様が境内に並んでいる。堀辰雄がしばしば通ったという歯痛地蔵も見られる。



宿場町の出口にある桝形茶屋つがるや。江戸時代の建物がそのまま残されているようだ。漆喰の白壁には「ます(□のなかに斜め線)形」、「つがるや」の浮かし彫りの文字が残っている。桝形とは城や町の出口に設けられた石垣で囲まれた鉤型の防衛施設だ。



追分とは街道の分岐点のこと。左が中山道、右が北国街道だ。もともと中山道が主要な街道だったものが、明治以降北国街道の方が重要ルートとなったように思う。追分から小諸、上田、長野、と信越本線が敷設されたのに対し、諏訪に向かう旧中山道沿いには鉄道が無い。



蕎麦屋の開店時間までの時間つぶしで、なぜか追分宿のアチコチに案内板が多く見られる「シャーロックホームズ像」を見に行く。どうしてここにあるのか、全く想像もできなかったけれど、シャーロックホームズを日本語に翻訳した方がこの辺りに住んでいたそうだ。



満を持して、評判の高い蕎麦店「きこり」に開店時刻を少し過ぎた頃にやってきたら、なんと早くもほぼ満席。駐車場には他府県ナンバーの車が溢れていた。なるほど蕎麦も汁も美味い。大人気店だということに納得できる。



軽井沢町から御代田町に入るけど、相変わらず別荘が多い。別荘ゾーンへの分岐には別荘オーナーの表札が何十も掲げられている。別荘地の先には「カーリングホール」があるようだ。カーリングホールって、どんなものかとても気になるぞ。



御代田の一里塚。中山道が少し移設されたのか、西塚も東塚も中山道から少し離れた畑の中にある。そのせいか随分と保存状態がいい。特に西塚は塚木が枝垂れ桜なのだ。老桜で花は少なめだけれど、これまで見てきた一里塚のなかでも最も印象的なもののひとつだ。



小田井宿。有難いことに中山道を歩く人をもてなすお休み処が設置されている。この辺りでようやく雨は完全にあがった。



追分宿とは逆に、この小田井宿には飯盛女がおらず、そのためか主に姫君の宿泊所に充てられることが多く「姫の宿」と呼ばれたらしい。当時の本陣の建物ではないようだけれど、本陣跡と紹介されている場所には白壁の立派な屋敷が建っている。



続いてやってきたのは岩村田宿。佐久市の中心だ。町の入口にある龍雲寺には武田信玄の墓所がある。甲府を始め、アチコチに信玄の墓所と言われるところはあるけれど、信玄が初めて信州に侵攻し支配したところだけに、信玄との縁が深い町であることは間違いない。




岩村田は三河譜代の内藤氏が治めた岩村田藩の城下町。わずか1万5千石の小藩とはいえ城下町ゆえの堅苦しさがあったらしく、大名行列はここに逗留することが無く、本陣も脇本陣も設置されていない小さな宿場町だったらしい。



JR小海線の岩村田駅。新幹線開通で、併行する信越本線(軽井沢~篠ノ井)は3セク(しなの鉄道)となったのに対し、よりローカル色の強い小海線(小諸~小渕沢)がJRに残るという皮肉なことになっている。大赤字と聞くが、帰宅する学生で駅は随分と賑わっている。



歩行距離22.3㎞、登り獲得標高180m、所要時間8時間。荷物も少なく、ほとんどの区間が軽い下り坂だったのに、雨のせいか、結構疲れてしまった。




軽井沢への帰路、小諸で途中下車する。なぜか小諸という言葉の響きには一度訪問してみたくなるような郷愁を感じるのだ。秀吉の九州攻めの際に大失態をしでかした仙谷秀久がその後復活し、初代小諸藩主として整備した小諸城跡を散策する。




仙谷秀久といえば島津との戦いで秀吉の命に背いて長宗我部に無理攻めさせ、自らは逃亡するという愚行のため、最も嫌われている戦国武将の一人だと思うけれど、領地を全没収された後、必死の頑張りで汚名返上し大名に返り咲いた。NHK大河の大穴ではなかろうか。



小諸の蕎麦も美味いと聞くけれど、さすがに一日2度の蕎麦は辛い。余談だけれど、出石の蕎麦はその後出石城主に転じた戦国秀久が小諸から持ち込んだものと聞く。
小諸駅。バスはJRバスだけど、しなの鉄道だ。JR時代に比べ運賃は倍になったという。