2025年4月24日
午前中は観光に充てて、午後から可能な限り中山道を西進することにしたい。浅間山に見守られながらJR小海線の岩村田駅をスタートするものの、この先下諏訪までは鉄道と遠く離れた道を行くことになるうえに、路線バスさえごく限られたものしかない不安な区間が続く。
岩村田駅からしばらく歩くと相生松が現れる。和宮が江戸への降嫁の途中、ここで野点をしたという。今では住宅に囲まれて、落ち着いて野点ができるようなところではない。
まだ岩村田を出てさほども歩いてもいないのだけれど、レストランがあるうちに昼食を済ませることにする。中山道では昼食はほとんど麺類なんだけど、ちょっと気になるカニ入り焼うどんを注文。う~ん、イマイチ。中山道で初めてのイマイチランチとなった。
昼食を終え、あらためて浅間山に急き立てられるように、歩き始める。この辺りは浅間山の火山灰が降り積もった土壌で、米作にはあまり適さないらしい。
ということで、寒暖差の大きさも利用して、リンゴの栽培が盛んだ。街道に沿ってもいくつものリンゴ園が広がっている。
ちょうどリンゴの蕾が綻びはじめている。リンゴの花の寿命は10日ほどととても短いらしい。その短い間に受粉が行われないとリンゴの実が付かないというけれど、未だ受粉の作業をしているようには見えない。
菜の花畑の向こうには八ヶ岳。昨日は気温も低く冷たい雨が降っていたけれど、今日はポカポカの晴天で風も無い。汗ばむほどの陽気だ。
全く誰も歩いていない道をトボトボと歩いていく。車でさえ少ない。それなのに、ごく普通の民家に中山道パンフレットを入れたボックスが設置されている。
満開の桜の向こうに浅間山。その間にリンゴ園。桜の花と浅間山、リンゴの花と浅間山、リンゴの実と浅間山…、季節ごとに美しい構図の風景が楽しめそうなところだ。
小さな集落が続くけれど、旧中山道であることをとても誇りに、そして大切にしていることが感じられる。中山道の標識もとても美しい花壇に囲まれている。
塩名田宿にやってきた。海の無い信州で塩が付く地名は奇妙だとも思ったけれど、よく考えれば塩尻もある。信州に塩を運び込む拠点だったのだろうか。
街道沿いの家々には、旧宿場町の風情を感じさせる木製の表札が掲げられている。太い筆文字のフォントもいい感じだ。
丸山新左衛門本陣跡。今も立派なお屋敷が建っている。道向かいには丸山善兵衛本陣跡がある。先の写真も丸山煙草店だ。丸山姓が多い地域のようだ。
高札場跡。多くの宿場町で見られる高札場だけれど、通常は当時の高札と同じようなものを製作し掲示していることが多い。ところがここでは、高札場にベニヤ板を貼って、現役の掲示板として利用されている。復元するのもいいけれど、古いものを活用するのも悪くない。
岩村田宿の名物ともなっている木造三階建住宅群。一階の出口とは別に、三階からも崖の上の道に直接出ることができるようになっている。
暴れ川で知られた千曲川。江戸時代には何度も橋を架け変え、そして流されることが繰り返されたという。明治に入ってからは、ここに舟橋を設置したらしい。川の中に幾つも見える石は舟橋用の舟を繋いだ「舟つなぎ石」だという。
今では立派な鉄橋が2本も架かっている。うち1本は歩行者専用だ。橋の中央にはベンチも設置された、昔の旅人が羨むような贅沢な構造だ。
千曲川は南(写真方向)から北に流れ、信濃川となって日本海へと流れている。長野県の分水嶺は随分と複雑で、どちら向きに川が流れるのか、即座には判断が難しい。
中山道の標識と浅間山。とてものどかな街道だ。
「一家三兵士」と書かれた立派な石碑がある。日露勇士とされた三人の息子全員が日露戦争で戦死している。さらに父親は日露戦争前に亡くなっている。母親は家族の全てを失い、ひとり昭和まで生きたようだ。碑が作られた経緯も判らないけれど、あまりに悲しい。
日本橋から数えて24番目の宿場町、八幡宿に到着。中山道は六十九次だからようやく三分の一を超えたことになる。本陣跡に古い門が立っている。
静かで簡素な街並み。あまり旧宿場の雰囲気は感じられないけれど、いかにも昭和っぽい落ち着いた街並みだ。
八幡宿の西端にある八幡入口から佐久平まで千曲バスに乗る。もう少し歩きたいけれど、この辺りで終えなければ帰宅できない。千曲バスはこの先、望月宿、芦田宿まで。その先の長久保宿には繋がっていない。いよいよ公共交通手段での移動が困難なエリアに入ってきた。
新幹線の佐久平駅。いかにも山に囲まれた佐久盆地の代表駅らしい山型の屋根が印象的な駅舎だ。
距離8.7㎞、獲得標高100m、所要時間3時間48分。午後からのスタートだったので、短いウォーキングでの2宿制覇に終わった。いつになるかは分からないけれど、問題はこの先だ。移動手段、宿泊場所、徒歩距離、どれもが難しい。