2013年9月29日(日) ①
楽しみにしていた関ヶ原陣跡制覇ウォーキングに参戦した。昨年は申込みはしていたものの、大雨のため、当日になって参加を見送ったが、今日は素晴らしい晴天だ。
史上最大規模の「ウォーキングイベント」というのは、大袈裟過ぎるが、400年以上前に関ヶ原に集った武将たちに思いを馳せながらのウォーキングは、他のイベントでは経験できない醍醐味がある。参加費(1000円)まで払って、皆で揃って同じ道を歩くようなイベントは本来好みではないのだが、関ヶ原にはそれでも参加したくなるような魅力を感じてしまう。
早朝に自宅を出て、関ヶ原駅までやってきた。といっても、スタート時刻の8時半は既に過ぎている。一昨年は先頭集団で出発したが、早いペースのため、コース中盤の松尾山登山でひどくバテてしまった。今年は、大半の参加者が出発した後に、マイペースで出発することにする。
スタートポイントは、駅から10分ほどのところにある関ヶ原町役場。町章は、おそらく間違いなく、戦国武将の兜をモチーフにしたものだ。
コースは、7kmの合戦コース、12kmの激闘コース、16kmの制覇コースの3種。当然、制覇コースに挑戦する。小早川秀秋が陣取った松尾山の登山を含む陣跡を歩き尽くす。もっとも、徳川家康が最初陣取った桃配山とか、毛利や長宗我部が戦いを傍観していた南宮山など、戦いが行われなかった東側の陣地は含まれていない。
まずは、東軍の陣地を順に歩いていく。最初は細川忠興の陣地だ。大坂に残した愛妻ガラシャが死に追いやられた直後だけに、石田三成に対する敵愾心は、東軍諸将のなかでも群を抜いたものだったのではなかろうか。
各陣跡では、スタンプと千社札シールが貰える。ゲゲッ、スタンプが変わっている。以前は、なんとシャチハタネームのスタンプだった。関ヶ原参戦武将の多くは、細川とか小西とか黒田とか、どこの店にも置いてあるありがちな苗字だ。壮大なウォーキング大会に反して、お手軽なスタンプを採用していたところが、逆に面白かったのだが、家紋スタンプに変っていた。
東軍陣の北端の岡山の、黒田長政、竹中重門の陣跡に向かう。両将は、西軍の北端に陣取った石田三成とぶつかった。ウォーキングの序盤にも拘わらず、そこそこの登り道で、何となく腰が重い。これでは先行きが思いやられる・・・。
岡山からは、合戦の様子を展望できるため、東軍各軍に烽火を上げる役割も担っていたようだ。岡山の山頂では、烽火の再現がされていた。
ウォーキング参加者の多くは熊鈴を付けていて、実に耳障りだ。熊鈴にもマナーモードがあっていいと思うんだが・・・。中部圏のハイカーは関西とは異なり熊に神経質なのかなぁ。しかし1000人以上が歩く低山&街中のハイキングで熊と出会うことがあるのか、熊鈴は本当に熊に有効なのか、などと憤慨していたところに、熊か猪を捕まえると思える罠が現れた。
東軍陣地を歩いているのだが、石田三成が陣取った笹尾山はすぐそこ。両軍が真正面からぶつかったことがよく判る。この笹尾山がゴール地点なんだけど、ここから南に大回りをするため、笹尾山到着までには、まだ5時間ほど歩かなければならない。
後方の桃配山から指揮を執っていた徳川家康が、押され気味の東軍に喝を入れるため、前進して新たに陣地を構えたところ。足軽に扮した係の方がお茶を振る舞ってくれた。しかし、何とも物足りない。一昨年は、武将に扮したイケメンが、千社札を配ったり、ポーズを取って写真に応じてくれたりしていたのだが・・・。
田中吉政の陣跡。足軽に扮した係の方が、ここが田中吉政の陣跡ですよ、って説明しているだけ。家康の陣にほど近いとはいえ、ここもスタンプとか千社札が欲しいよねぇ。石田三成を捕縛する大功をあげ、筑後一国の国持大名にまでなった大物なんだけど、何だか影が薄い。
井伊直政の陣跡。赤備えの井伊の旗が、辛うじて井伊陣であることを主張しているけど、陣羽織風の法被を着た係員さんより、やはり武将を配置してほしかったと思う。
本多忠勝の陣跡。同じ徳川四天王の井伊のイメージカラーが赤であるのに対して、忠勝は黒。黒漆の鹿角脇立兜に黒糸威胴丸具足を着用した、秀吉に天下無双と称えられた猛将のイメージは、旗と石碑だけからは想像できない。
藤堂高虎、京極高知の陣跡は、関ヶ原中学校の敷地内。どうも関ヶ原の戦いの雰囲気に浸りこめない。ここは「ふじどう」の陣地なんだって、なんて声が聞こえてくるから、さらに気分は萎えてくる。
東軍の先鋒として、西軍の主力部隊の宇喜多秀家軍と激闘を繰り広げた福島正則の陣跡。もう全然戦国色が感じられない。バナナを振る舞っていただいたことは嬉しかったが・・・。
最短コースの合戦コースは、ここで折り返して、西軍陣跡へ向かうが、制覇コースは、この後、西軍から東軍に寝返った武将の陣地を訪れることになる。
新幹線の高架を潜って、市街地を離れて、関ヶ原市の南にある山間部に向かう。
関ヶ原は、交通の要衝であり、古代には不破の関が設置されていた。南北朝時代には、北畠vs足利の青野原の戦い、さらに7世紀には壬申の乱の舞台になっている。この井上神社は大海人皇子(天武天皇)が祀られている。ウォーキングコースは、不破の関跡とか、大友皇子が自害したと言われる自害峯とかの近くも通過するが、これらに頼らなくともイベントが十分成立してしまう。関ヶ原の戦いの歴史的存在感はとてつもなく大きい。
名神高速の向こうに、いよいよ松尾山が現れた。ここまではウォーミングアップのようなもの。ウォーキングの本番はここからなのだ。
小早川秀秋に呼応して、東軍側に寝返った脇坂安治の陣跡。賤ヶ岳の七本槍の一人だ。京阪中書島の地名の由来にもなった人だ。同時に西軍を裏切った、小川祐忠や赤座直保は戦後に領土没収されたのに、脇坂の領地は安堵されるなど、何かとエピソードの多い武将だ。
いよいよ松尾山に向かう。15000の大軍を率いて小早川秀秋が陣取ったのが標高約300mのこの山。登山に要する標準時間は45分とある。松尾山城から城主の伊藤盛政を追い出してまで、戦場から離れた山の上に籠ったのは、端から戦う気など無かったのではなかろうか。
杉林の中を、マイペースで、ゆっくりと登っていく。
途中、腰を下ろすのに適当そうな倒木や切り株が道端に多く転がっているが、坂道のため、丸太も傾いている。登山中、落ち着いて座れそうなところは、ほとんど見当たらない。
35分ほどで山頂に到着。まあまあ上出来だ。
山頂からの眺望は素晴らしいが、いかにも戦場から遠く離れている。約束通り寝返らない秀秋に業を煮やした家康が、この陣に鉄砲を撃ち込み、裏切りの催促をした話は有名だが、家康の陣から、こんなところまで鉄砲の玉が飛んでくるとは思えない。音さえ聞こえ無さそうだ。
東軍陣跡めぐりは、これにて終了。朝9時に出発して、松尾山到着が11時40分。お腹は減ったが、山頂は弁当広場と化していて、座り込む余地が無い。しばらく昼食は我慢して、松尾山を南に下り、続いて西軍陣跡を巡ることにする。
関ヶ原陣跡制覇ウォーキング(2)西軍陣跡 ~ に続く