八尾市跡部:物部守屋旧蹟巡り

2016年9月3日(土) ②


東大阪市の若江で、木村重成の旧蹟を巡ったのに続き、八尾の物部守屋の旧蹟を訪ねることにする。大坂夏の陣から遡ること約1000年前、蘇我・物部の間で天下分け目の戦いがあった舞台を訪ねることにする。もっとも、手元には実に大雑把な地図しか無い。



八尾・東大阪の市境から、物部一族の本拠地があったと言われる跡部までは、かなり距離があるようだ。土地勘もなく、敢えてスマホで距離を調べることもせず、ひたすら南に進む。歩道には傾斜や切り込み、排水溝の蓋などが多く、実に歩きにくい。



2~3kmくらい歩いたところに穴太神社がある。聖徳太子の生母である穴穂部皇女の生地だという。この穴穂部皇女って蘇我稲目の娘で、物部守屋とタッグを組んだ穴穂部皇子の同母姉。う~ん、ややこしいぞ。蘇我vs物部というのは、そう簡単な図式では表せない、入り組んだ関係のようだ。



近鉄大阪線。近鉄八尾と久宝寺口の間あたり。さらに南に南に向かう。この辺りは、八尾若江の戦いで、長宗我部盛親が藤堂隊と激戦を繰り広げた場所だと思うのだけど、何か史跡はあるのだろうか。



物部とはあまり関係はなさそうだが、八尾天満宮で一休み。戎社も同居している。戎殿のアチコチに、「人形・ぬいぐるみはお受けできません」の貼り紙がある。人形供養をする神社ってあまり無いと思うのだが、ここに持ち込んだり、置き去ったりする人が多いのだろうか。



長瀬川。柏原で大和川から分岐して、大阪の放出で第二寝屋川に合流するまでの15kmほどの間、美しく整備された水辺の道が続く。お気に入りのウォーキングコースだ。しばらくご無沙汰なので、いずれ近いうちに歩いてみたい。



渋川天神社。物部守屋の別業(別荘のことらしい)があったところとも伝わる。静寂な古社の佇まいのようだが、南に隣接してJR関西本線が走り、その向こうには大きな家電量販店があったりする。



大雑把な地図のおかげで、散々迷って、アチコチで人に道を尋ねてようやく辿り着いた跡部神社。蘇我馬子が聖徳太子とともに攻め滅ぼした物部守屋の館がこの辺りにあったらしい。もっとも、跡部神社には物部氏と関連するものは見当たらなかった。



国道25号線沿いにある大聖勝軍寺。車で通過する際に太子堂という地名には見覚えはあったが、実際に訪問するのは初めて。聖徳太子が仏のご加護のお蔭で勝利できたと、建立したものらしい。



大聖勝軍寺から東に少し歩いたところに物部守屋の墓所がある。神社風に鳥居が立っていて、墓標の文字は確かに物部と読めるものの、扁額もなければ説明板も無い。何度も通ったことのある国道沿いだが、これまでここに物部守屋の墓があるとは全然知らなかった。



さらに南に進んで、物部軍が抗戦したという稲積みの城の跡を目指す。地図では樟本神社の傍にあるようなんだけど、見当たらない・・・。よくよく調べると、樟本神社って、この付近だけで3つもある。



散々歩いて、これが目指す樟本神社のようだ。森高千里の渡良瀬川に出てくる八雲神社も足利市内にいくつもあると聞くが、分社などによって同じ名前の神社が固まっていることは珍しいものではないのかもしれない。ここも物部守屋の居住地との説明がある。まあ、この辺り一帯が物部領であったことには違いあるまい。



稲城跡の碑。スマホの電池が切れて、ガラケーのカメラで撮影するが、いかにもピンボケだ。稲積みの城とも、稲で囲んだ城とも伝わるが、矢は防げても、いかにも弱々しい感じは否めない。大和川に隣接して交通至便で、農耕には適していても、森林が無く、木材の手配は容易ではなかったのかもしれない。



最後は、地下鉄谷町線の八尾南駅まで歩いて帰宅。大雑把な地図に悩まされて、かなり無駄に歩き回らされた。あらためて歩行軌跡を確認すると八尾市をほぼ南北縦断していた。歩行距離は約16km。