高取城(高取町)

 2024年2月13日


日本三大山城のひとつに数えられる奈良県高取城を久々に訪問する。山上にあった城門のひとつを移設してきた公園の前には、「日本最強の山城、高取城」との超強気な幟が掲げられている。決して自賛ではなく、最近のNHKの番組での最強に選ばれたことがあるようだ。



壺阪山駅を中心に広がる静かな高取の町は、高取城の城下町なのだ。町を貫く土佐街道には今も旧城下町を彷彿とさせる古い建物が並び、特別な舗装が施されている。



3月には雛祭りイベントが開催されるようだ。旧家や古刹に伝わる雛人形を有効活用しての町興しイベント。10年ほど前から同種のイベントが各地で盛んに開催されるようになったけれど、古い歴史と高い格式を有する高取にも、凄いものが多数眠っていたに違いない。



植村家長屋敷。なまこ壁が印象的な重厚な建物だ。もとは天誅組との闘いで指揮を執ったことで知られる筆頭家老中谷家の屋敷だったという。大阪冬の陣で活躍した権現砲をぶっ放した(効果があったかどうかは諸説あるけれど)鳥が峰にも帰路に立ち寄ることにしよう。



高取城の再現CG看板がある。3重の天守、22基の櫓、33棟の門、3600mの石垣などからなる壮大な城郭が幕末まで健在だったという。これだけの施設が比高400mの山上にあるのだから防御力が半端ないのは判るけど、2万5千石の高取藩には過ぎたる城に思える。藩士は200人ほどしかいなかったはずだ。



土佐街道をひたすら西に向かって山へと入っていくと黒門跡がある。おそらくここが城に入るための最初の門なんだけど、山頂にある本丸までは未だ2.5㎞ほどはあるし、400mほども登らなければならない。



しばらく歩いていくと、舗装道は途切れ、いよいよ登山道が始まる。七曲りと呼ばれるように九十九折れの道が続くけれど、防衛上の理由というより、こうしなければこの急坂は登れなかったんだと思う。



何気ない橋のように見えるけれど、これは明らかに堀切だ。有事には橋を落とすのだろう。天誅組は市街地戦で呆気なく敗退してしまったけれど、戦い利あらずとあれば、高取藩兵は山城に籠ったはずだ。統制も武器も不十分だった天誅組に攻め落とせるとは思えない。



一升坂。延々と木段の道が続く。この城の普請に駆り出された作業員には一升の米が追加手当として貰えたらしい。もしこれが日当ならば、なかなかの報酬だけれど、これくらい払わなないと、この急坂で重い石などを運ぶような重労働作業に人が集まらなかったのだろう。



本丸まで1000m。この辺りからは石垣が絶え間なく続く。本丸から1㎞離れたところから石垣を巡らしているなんて、大和郡山城などよりデカいのではなかろうか。高取城を本格的なものに仕上げたのは当時100万石の郡山城主豊臣秀長の配下だった本田利久なんだけど…。



明日香に向かう道との分岐点にある猿石。似たデザインのものが明日香にも残っているけど、高取城の石垣整備の際に古代の遺物を運び込んだに違いない。当時石仏や墓石を平気で石垣に使っていたとはいうものの、さすがにこれはマズイと思ったんじゃないかなぁ…



二の門跡。門ごとに山麓の公園に今も残されているような頑丈な門が立っていたはずだ。頂上へと近づくにつ入れて、石の積み方は近代的なものになってきているように思える。



これほどの石垣が崩落せずに残されていることは奇跡的とさえ思える。立地の特性上、高取城は櫓や石垣の破損が多い城だったという。本来城の改修には幕府の許可が必要だったけれど、将軍家光が高取城は特別だからいちいち届けなくともいいとの特例を与えたそうだ。



数えた限り7つもの門を経て、ようやく最後の門、大手門にやってきた。単に石垣で隘路を作っているだけではなく、立派な虎口を設けている。大軍であっても何重もの防衛線を突破することは難しそうだ。もっとも高取藩に十分な城兵と武器があったのかは疑問だけれど…



本丸の高石垣。本丸に近づくにつれて石垣の年代は新しいものが多くなってきているように見えるけれど、それでも年季を感じさせる苔むした石垣だ。



本丸への登り口を示す案内。もともとここに生えていた大木を削って作成したと思われる熊と城が立っている。根は未だ残っているはずだ。



本丸。かなり広い。右奥にあるちょっとした高台が天守台で三重天守が立っていたようだ。今では三角点がポツンとある。山頂標は見当たらないけれど、ここが高取山の山頂(583m)になるようだ。



本丸跡で熱心に写真を撮られておられた方に、高取城の魅力について色々とお話を伺った後、道を変えて壺阪寺方面へと下っていく。登ってきた道と比べると、ちょっと寂しい狭い道だ。



結構荒れたところもある。公共交通機関を目一杯使うのならば、近鉄の壺阪山駅から歩くのではなく、バス停がある壷阪寺からこの道を登るのが一番近いようだけれど、あまりお勧めできない。



この道から下山したのは、壺阪寺ではなく、その手前にあるという五百羅漢がお目当て。道の分岐があって、見るからに平坦な道には「五百羅漢を経て壷阪寺」、もう一方の登りの厳しそうな道には「五百羅漢遊歩道を経て壷阪寺」と違いが不明確な案内がある。



ふと舌切り雀の二択を思わせるような分岐点で、敢えて小さな葛篭(厳しい山道)を選ぶけれど、ひどくズルズルと滑る難路。こういう道に遊歩道なんて付けないでほしい。思わず傍らの岩にしがみついて坂を下ったら、その岩には無数の仏様が彫られていた…。



加西の五百羅漢のように、独立した石仏が数多くあると思っていたのだけれど、ここの五百羅漢はすべて岩に仏様を彫ったものだ。ひとつの岩に10体も20体もの仏様が彫られている。剥離や摩耗が進んでいるところも多いけれど、それが一層の有難みを感じさせる。



壷阪寺。正式名称は壺阪山南法華寺。ちなみに北法華寺は京都の清水寺だ。清少納言が枕草子のなかに「寺は壺阪、笠置、法輪」とあって、お勧め寺院の筆頭に挙げている。法輪寺(嵐山)はともかく、壺阪、笠置など、意外に遠いところまで旅する機会があったようだ。



壷阪寺からは林道を伝って高取の町へと戻っていく。杉林の林道で快適道に見えるけれど、隣にある県道から投げ込まれるのだろう、テレビなど不法投棄が多く見られるのがとても残念で腹立たしい。



距離9.1㎞、獲得標高584m。所要時間は4時間10分。大して時間もかかるまいと思って午後1時から歩き始めたものの、戻ってきたのは夕刻のチャイムが響き渡る午後5時。急かされるように帰路についたため、天誅組の鳥が峠の古戦場を訪問することを失念してしまった。