日光街道 (2) 草加~春日部

 2025年11月27日


日光街道2日め。昨日は所用のため足腰にとっては十分な休養になったはずなのに、右のお尻や股関節の痛みが引かない。しっかりと歩けるのか不安ではあるけれど、煎餅を齧る少女像がある草加駅をスタートする。



旧日光街道は幹線道路とは少し離れた一般道となっていて、歩道部も広く取られていて歩きやすい。本陣跡の碑も随分と立派なものが建てられている。



実のところ、あまり固い煎餅は好まないのだけれど、せっかくなので1枚だけでも草加煎餅を食べたい気分になる。嬉しいことに「1枚でもどうぞ」と書いてあるお店もあるんだけれど、早朝のため未だ開店していない。



「草加せんべい発祥の地」の立派な石碑が立てられている。茶屋で売れ残った団子を平たく延ばして焼いて売ったのが始まりとも伝わるそうだけど、お菓子よりむしろ旅人の保存食だったようだ。米どころであり、醤油の野田とも近い宿場町という特長を生かした名品だ。



観光案内所の名前は「芭蕉庵」。芭蕉の銅像が立っている。奥の細道には「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう草加といふ宿にたどり着きにけり」とあるけれど、当時の長旅はまさに命懸け。草加宿に到着した安堵感が伝わる。



芭蕉も歩いたという草加松原。想像していたより何倍も凄い。綾瀬川に沿っての1.5㎞の松並木道には石畳が貼られ、幹線道路との交差点には松並木に馴染む木製風のなだらかなスロープになった歩道橋が設置されている。



近年かなり手を入れて整備されたもののようだ。しかし旧街道としての風格を失うことなく、加えて多くの市民に散歩やジョギングを楽しみ、川辺の松の木陰で寛ぐことができる空間を提供することに成功しているように感じる。



芭蕉の名を冠した施設、文学碑、銅像、壁画などが多く見られる。随行の曾良のものもある。江戸時代屈指の幹線道路なのだから、様々な事件が発生し、数多くの偉人がこの地に足跡を残しているはずだけど、千住から草加まで、とにかく芭蕉一色だ。



鷺と鵜(たぶん)が並んで水辺に佇んでいる。鷺は水面から嘴で魚を突き、鵜は水に潜って魚を呑み込むのだから、両者の漁法は全く違う。お互いが邪魔になるんじゃないかとも思うんだけど、何故か一緒にいることが多いような気がする。



越谷に到着。宿場の名前は越ケ谷とケが入るように、かつては越ケ谷だったものが、周囲の市町との合併の過程で市名が越谷になったらしい。大火や地震に見舞われたせいか、江戸時代の遺跡は見当たらないが、明治期の屋敷が改装されたレストランやショップが見られる。



かつて七代続いた味噌醸造商が建てた二階建の倉庫。国の登録有形文化財にも指定されているようだけれど、今では図書室や喫茶室などが設置され地域コミュニティのために使われている。



越谷から川ひとつ北に渡ったところに大沢宿場跡の碑がある。ややこしい話だけれど、江戸中期に本陣が越ケ谷から大沢に移り、宿泊施設は大沢、商店は越ケ谷と分担するようになったらしい。



あまり旧宿場町の風情が残らない越谷だけれど、昔から水郷で知られた街とのことで水にまつわる種々の言い伝えや噂を水遊都市伝説として売り出しているようだ。



越谷香取神社。大沢の鎮守であり、日光街道を行く旅人の多くが、旅の安全を祈願して参詣したという。



皇室の「鴨場」に立ち寄る。広大な敷地内の池に飛来する鴨を、江戸時代からの技法(訓練されたアヒルを使って鴨を追い込み、傷つけることなく網で捕獲するという)を伝承しているそうだ。メチャクチャ興味があるけど、門は固く閉ざされ内部を窺うことはできない。



越谷を過ぎると旧日光街道は国道4号線へと吸収される。ここまで比較的細い道を歩いてくることができたんだけど、ついに幹線道路沿いの退屈な歩道歩きになってしまった。



日本橋から数えて4番目の宿場町、春日部に到着。江戸時代には粕壁と表記されていたというけれど、この地名は鎌倉時代の武士団、春日部氏に由来するものだという。残念ながら宿場の遺跡や風情はほとんど残されていない。



しかし郷土資料館には鎌倉時代からの春日部の歴史を案内する手の込んだ展示がある。特にかつての粕壁宿のジオラマは視覚的に宿場町を理解することができ、とても興味深い。



現在の春日部を全国的に有名にしているのは、クレヨンしんちゃん。郷土資料館でさえ、春日部を舞台にした大ヒットアニメのキャラクターが様々な形で登場する。



興味深い展示が多く、つい長居してしまった郷土資料館を出ると、空はどんよりと暗くなり、雨が降っている。ひどく冷たい雨だ。



幸い、東武伊勢崎線の春日部駅はすぐソコ。雨のダメージはさほど受けることなく、今日のゴール、春日部駅に無事到着。春日部駅の前にあったイトーヨーカドーは、クレヨンしんちゃんではサトーココノカドーとして度々登場していたけれど、昨年閉店してしまったという。



草加宿で気付いた「スマホで集める日光街道埼玉六宿連携スタンプラリー」。埼玉県内の六つの宿場町で各2ヶ所のスタンプポイントが設けられている。主催はJAFだけれど、歩いてスタンプを集めても問題あるまい。日光街道を歩きながら参加しないという選択肢はない。



草加、越谷、春日部の各宿で計6つのスタンプをゲット。続く杉戸宿、幸手宿、栗橋宿を歩けば全16のスタンプをコンプリートできるはずだ。もっとも一等賞は東武動物公園の入場券。当選しても困るなぁ…。できれば埼玉の銘菓あたりが有難い。



距離23.6㎞、所要時間は8時間54分。登り獲得標高は14m、下りが11m。併せて3mしか登っていない。関東平野の真っ平さに今更ながら驚く。春日部でさえ未だ標高7mほどだ。



日本橋を起点に4つめの軌跡が腕を伸ばし始めた。五街道を制覇する日はいつになるのだろうか。




日光街道 (1) 日本橋〜草加

 2025年11月25日


東海道、甲州街道を踏破し、続いて中山道を信州和田峠の手前まで歩いたものの、多発する熊出没に怖れをなして長らく停滞中。熊騒動が容易に解決するとも思えないため、熊の問題は無さそうに思える日光街道を先に歩くこととする。



4度目の日本橋スタート。ここから、千住、草加、越谷、春日部、古河、小山、宇都宮といった21の宿場町を経て日光東照宮を目指す。総距離は150㎞程度。延べ7~8日で踏破できればヨシと考えてスタートする。初日は最低でも20㎞ほど先の草加まで進みたい。



日本橋から歩き始めると、大通りから逸れ、意外なほどに狭い道を進んでいく。まあこのような道の方が歩きやすいし、東京の風情を楽しみながら歩くことができる。道の向こうには東京スカイツリーが見える。



道端に蔦屋耕書堂跡の案内板がある。さほど古くはない案内板だけど、NHK大河が決まってから建てられたものかもしれない。蔦屋重三郎が活躍した当時は書店が立ち並ぶところだったというけれど、付近に出版社や書店は見当たらない。



浅草橋の両岸には多数の屋形船が見られる。隅田川などを楽しみながら、宴会や花見ができるのだろう。街道をゆく江戸の旅人もここで多数の屋形船を目にしていたことだろう。 



浅草雷門。まだ朝も早いせいか人の数は少なく感じる。あるいは中国からの観光客が減ったせいだろうか。雷門の前には、欧米人もアジア人も整然とした列を作って、順々に大提灯とのツーショットを撮影している。



東武浅草駅。関西では当たり前なのに、東京には少ないターミナルデパート(松屋)だ。この先、日光街道は東武伊勢崎線に併行するように埼玉県を北上していく。



整備された隅田公園からは隅田川の向こうに東京スカイツリーが良くみえるけど、634mもあるようには見えないなぁ…。もっと近づかなければ高さが実感できないのかもしれない。それにしてもアサヒビール本社の金色の雲のようなオブジェは何を表しているんだろう…。



待乳山昇天。名前からして、母乳が出なくて困っている女性が祈願するお寺かと思ったけれど、身体健全、夫婦和合、商売繁昌にご利益があるらしい。東京で一番低い山「待乳山(9m)」のピークハントを兼ねて本殿を参拝する。



千住大橋。徳川家康は江戸防衛のため、隅田川にはここ以外の架橋を禁じていたそうで、そのためか単に「大橋」と呼ばれていたらしい。現在でも橋に掲げられた銘板にはただ二文字「大橋」と書かれている。



千住大橋の北の袂が、松尾芭蕉の奥の細道への旅立ちの地だ。芭蕉庵のある深川から船で千住まで来て、ここで大勢の人に見送られて曾良とともに旅立ったという。ここから5ヶ月で2000㎞の長旅が始まる。しばらくは芭蕉と同じ道を歩くことになることに興奮してしまう。



まじかぁ?3月27日に千住を出発して、翌日には間々田だとぉ? 一日40㎞のペースだ。まあ、壁画に描かれた芭蕉はかなりの高齢に見えるけど当時は46歳の壮年。こちらは68歳。一日20㎞が精一杯なのも当然だろう。



千住は江戸時代から青物市場(やっちゃ場)で賑わい、日光街道にも多数の青物問屋が軒を連ねていたそうだ。今も古い看板が多く掲げられているし、気のせいか青果店が多いような気がする。



かつての千住宿は北千住駅を中心とした賑やかな商店街となっている。銀行の正面玄関には芭蕉の木像が立っている。



日光街道、奥州街道、水戸街道など、千住宿を通過する大名家は64にも及び、商店街にはそれら大名家の家紋が並んでいるけれど、戦災のせいだろうか、当時の遺跡はほとんど見ることはできない。本陣跡も小さな石碑が立っているばかりだ。



楽しみにしていた「かどや」の「槍かけだんご」はあいにく休業日。水戸光圀公御一行が松に槍を立てかけて休憩したことに由来する甘辛い団子だという。お腹が減ったものの、団子をアテにして飲食店の多い北千住を素通りしてしまったのが悔やまれる。



荒川に架かる千住新橋までやってきたところで雨が降り始めた。予報では午後はずっと雨だというけれど、この辺りで止める訳には行かない、ちょうど千住新橋の下にあるバス停のベンチに避難して雨脚が弱まるのを待つ。



雨雲レーダーを確認すると、周辺は全て雨模様。空腹と寒さに耐えながら、多少なりとも雨脚が弱まるのを待つ。昨日の天気予報では降雨確率はかなり低かったし、イザとなれば傘でもカッパでも容易に購入できると考えて、何の雨具も用意していない。



雨脚が弱まったところを見計らって荒川を渡り、しばらく歩いて蕎麦屋さんを発見。関西ではまずメニューには載ることのない「きつねそば」を注文。暖かい蕎麦が身に染みる。



東京の中央区、台東区、荒川区、足立区を通過し、ようやく埼玉県に突入。草加市だ。雨は相変わらず降ったり止んだりを繰り返している。



瀬崎浅間神社。雨宿りよりも、疲れた足腰の休息が主目的で境内に長々と座り込む。本殿の奥にあるのが富士塚。富士信仰に基づいたミニチュア富士山だ。東京を中心に関東では多く見られるものだけど、関西ではお目にかかったことがない。



火あぶり地蔵。貧しい家の娘がこの地の商家に奉公に出され一生懸命働いていたものの、実家の母親が危篤だというのに帰省が許されず、ついには「この家が燃えれば帰れる」と放火するに至ったという。火あぶりの刑に処せられた娘を憐れんで地蔵堂が建立されたという。



ようやく草加宿の標柱が現われた。草加煎餅も食べたいし、旧宿場町も見て回りたいけれど、もうクタクタだ。



草加駅前。傘も差さずに歩いていることが恥ずかしいような雨脚になってきた。初日から辛いウォーキングになってしまったけど、この後、無事日光に辿りつくことができるのだろうか…。



本日の歩行距離21.3㎞。ガイドブックに寄れば18.5㎞なんだけど、街道歩きでは寄り道が多くなるせいか、歩行距離は1~2割増しになってしまう。休憩が多くて所要時間は9時間20分。芭蕉の半分のスピードにも満たない…。