甲州街道(7)大月〜笹子

 2023年1月5日


甲州街道歩きも7日め。大月駅からスタートする。大月市のマンホールは猿橋や富士山、そして桂川の鮎をモチーフにしたもの。う~ん、岩殿山が入っていないのが残念だなぁ。あの武骨な山容は絵になりにくいのだろうか。



全国発送を謳う果物屋が多い。最近ではデパートやスーパーでも結構な高級果物が販売されているけれど、ここで買えば安いのだろうか。果物王国とまで言われる山梨県だけに、この後もこの種の店には多く出会うことになりそうだ。



ここまで甲州街道に沿うように流れていた桂川は大月の西で分岐し、本流は富士山麓へと続いている。この後は笹子川と名を変えた流れとともに甲州街道を西に向かうことになる。



下花沢宿。山梨県に入ってから宿場跡を示すは全て同じデザインだ。「山梨県東部JR八駅トレッキング推進協議会」というところが立てている。これ以外に旧宿場を示すものは殆ど無く、明治天皇の聖蹟ばかりが目立つ。



星野本陣跡。築200年近い建物は国の重要文化財にも指定されている。建物の正面には「本陣」と刻まれた石碑が立つが、その隣には2倍以上大きな明治天皇御小休所の石碑が立っている。



大した勾配ではないけれど、ずっと上り坂が続いている。笹子峠を前にしてチェーン着脱所が道端に現れた。



上花咲宿を過ぎると、いよいよ民家も疎らになってくる。10時半にもなっているのに逆に気温が下がってきているように感じる。標高が上がってきているせいだろうか。風も冷たいし、笹子川を流れる水も随分冷たそうに見える。



中央本線に沿った未舗装道には氷が溶けずに残っている。標高は400mをほどでこんな具合だから、1000m超の笹子峠に向かうのはとても無理だ。バキバキに凍った道を覚悟しなければならない。



国道の歩道と、今も残る旧道を行ったり来たりする。やはり旧道の方が圧倒的に歩いていて気持ちがいい。



下初狩宿。聖護院道興の歌碑が立っている。関白の息子で大本山聖護院門跡という高位にありながら、末寺巡回のため道興が歩いた距離は半端ない。応仁の乱に関わりたくなかったんじゃないかと勝手に推測している。



「樅の木は残った」などで知られる山本周五郎の生家の碑が立っている。なんとなく、旧街道の宿場町から歴史小説・時代小説の大家が誕生するのは、いかにも、という気がする。



甲州街道は、東海道と違って周囲の山々が富士山との間を遮っているところが殆どだ。下初狩宿と中初狩宿の間にある宮川橋は、ひと目富士山が見えるだけで名所扱いになっている。



芭蕉句碑が立つ中初狩宿。「山賤(やまがつ)の おとがいとづる 葎(むぐら)かな」…木こり(山賤)が蔓草(葎)が入らないよう口を閉じて歩いているよ、という意味のようだ。昔はずっと難路だったのだろう。



中初狩宿の本陣跡。大概の宿場には本陣があるけれど、東海道と異なり甲州街道を大名行列に使ったのは僅か3藩。(甲州が天領のため大名がいない) 村の庄屋宅が時々本陣の役割を勤めていたようだ。



「首塚」と書かれた小さな案内標識がある。誰の首塚とも書かれていないけれど、これこそ小山田信茂の首塚への道を示している。裏切り者と誹られる信茂だけに、名前を書くことさえ避けているのだろうか。



少し山中に入ったところに、首塚と意外に立派な碑がある。なんと大月市長の揮毫による「小山田信茂顕彰碑」で、裏切りを蔑むのは後の徳川の治世下に登場した忠孝思想による評価でしかないとの説明がある。地元では信茂を再評価する活動が盛り上がっているようだ。



緩やかな登り道が続き、どんどん山の中に入ってきた。国道を進むのは仕方ないけれど、歩道の無いところが増えてきた。目の前の中央本線の高架を駆け抜けるように走るのは、甲府に向かう特急かいじのようだ。



旧宿場町の雰囲気が残る白野宿。この先の阿弥陀海道宿、黒野田宿の3宿で宿場業務を分担していたという。甲州街道は分宿だらけだけれど、ここでは月の半分が黒野田宿、残りをさらに白野・阿弥陀海道両宿でニ分していたという。旅人も相当混乱したのではなかろうか。



中央本線の高架下に「伝説:立石坂の立石」と書かれた碑がある。ガイドブックによれば、鬼退治にやってきた桃太郎に向かって鬼が投げつけた立石(石杖)がここに刺さったとある。でも肝心の立石がどれなのか、よく判らない…。



この辺りの集落には、どこにも消防団が設置され、火の見櫓が見られる。田舎町では老朽化した危なっかしい火の見櫓が残っていることが多いけれど、この地域の火の見櫓はどれも新しく今でも問題なく登れそうだ。



笹子餅。笹子峠を越える旅人のための力餅だ。店を訪れたものの10個入りか5個入りしか販売しないという。ばら売りをしないというのは和菓子屋失格で、ただの土産物屋じゃないかとも思うけれど、笹子峠を越すには餅の5つくらいのエネルギーは必須なのだろうか。



笹子駅。駅前には阿弥陀海道宿の碑が立っている。この先、黒野田宿を経て、いよいよ笹子峠となる。笹子峠に向かうのは端から諦めていたので、笹子駅から帰路につくつもりだったのに、迂闊にも1時間に1本の列車を寸前のところで乗り損ねてしまう。



標高は既に600m。風がムチャクチャ冷たい。駅前には桂太郎揮毫による笹子隧道開通の記念碑が立っている。明治36年完成、長さ4656mのトンネルは、当時の技術の粋を結集しての国家的大事業だったのだろう。



笹子駅。ホームがムチャクチャ長い。300mくらいはあるぞ。駅の南側に延びる線路は、かつてスイッチバックのために使われていたのだろう。



本日の歩行距離13.7㎞。平坦そうに見える街道歩きだけれど獲得標高は400mを超えている。所要時間は4時間余りと短めだけれど、この先を歩くのは春が訪れるのを待たなければならないようだ。



甲州街道(6)鳥沢〜大月 &岩殿山

 2023年1月4日


2日間の予定での甲州街道歩き。鳥沢駅からスタートすると間もなく上鳥沢宿の標識が現れる。淡々と歩くだけなら1日で20㎞先の笹子駅まで進めるけれど、それよりも以前から超気になっている岩殿山城に立ち寄りたい。



鳥原駅から40分ほど歩けば、犬目宿、鳥沢宿とともに桃太郎伝説の由縁となっている猿橋宿。ここに日本三大奇橋のひとつに数えられる猿橋がある。橋脚がなく、両岸から何本もの短い刎ね木をせり出すように重ねることで、橋桁を支えている。



残念なことに工事中ということで、猿橋を歩いて渡ることはできない。ここまで30mくらいはあった桂川の川幅が、ここだけ数mとなっている。それだけに谷は深く橋脚を立てることができない。でも多少無理をしてでもこの場所に橋を架けたかったという気持ちは判る。



伝承によれば、この猿橋ができたのはなんと飛鳥時代。何匹もの猿が手を繋ぎ合って橋をつくる「猿の谷渡り」にヒントを得て製作されたという。そのためか猿橋の傍には猿のトーテムポールのようなものが立っている。



猿橋宿からさらに西へと進んでいくと行く手に、荒々しい岩肌がむき出しになった岩殿山が現れた。これこそ難攻不落を誇った岩殿山城が築かれた山だ。これに登らないなんて選択肢などありようがない。



この辺りは水力発電の設備が多い。猿橋の傍など、水路橋もいくつか見られた。いくつかの発電所をリレー形式で巡っているようだ。明治の終わりに東京に向けて初めて大量の電気の送電を開始し、今も現役だ。



駒橋宿。かつて旅籠だった建物が今も残されている。門前にはかつての「橿屋」という表札が今も架かっている。



さあ甲州街道を一旦離れて岩殿山へと向かう。反り立つような岩壁の上に築かれた岩殿山城は織田軍の侵攻で武田勝頼が甲府を捨てて籠ろうとした難攻不落の要害だ。とにかく圧が凄い。この山の姿を目の当たりにすると攻城軍の戦意も挫けてしまいそうだ。



しかもアチコチと崩落しているらしく、甲州街道に近い南側の登山口も、その次に近い登山口も、通行禁止になっている。岩殿山の北側にある畑倉登山口まで2㎞ほども大きく回りこんだところにやってきた。



南側や東側からと比べると北側からの道はまだしも厳しくないようだ。もっともこの後、何が待ち受けているのか分かったものではない。



これが鬼の岩屋。里に出て女子供を攫ったり、牛や馬などを盗んだり、悪事を働いていた赤鬼が住んでいたというところだ。そしてここに上野原に住んでいた桃太郎が、犬目、鳥沢、猿橋で募った仲間とともに鬼退治にやってきたというのが大月の桃太郎伝説なのだ。



もちろん鬼がいるはずもないけれど、上野原、犬目、鳥沢、猿橋と、桃太郎と同じ道を歩いてついに鬼の棲家まで辿り着いて感無量だ。しかし洞窟周辺にはツララや氷が見られ、この先の登山を不安にさせてくれる。まだ2割ほども登っていないのだ。



先にそそり立つような岩壁を見ているので、大した斜面とは感じないけれど、結構足に応える坂が続く。それに粘土質の土や、滑りやすい岩もところどころにあって油断できない。



約40分で頂上に到着。標高は634m。スカイツリーと同じ高さだ。眼前には見事な富士山が聳えている。城主小山田信茂は、保身のため土壇場で勝頼の入城を拒み、稀代の裏切り者と蔑まれることが多いけれど、信茂の事績を思えばそんな単純な話とは思えないのだ。



壁のような岩肌を目にしているだけに崖には近寄れないけれど本丸跡周囲を少し散策する。山の地形だけでも十分に鉄壁の守りと思えるけれど、さらに空堀などもある。しかし周囲が敵だらけで後詰が無い以上、勝頼がここに籠城していても滅亡は時間の問題だっただろう。



なんとか雲のかからない富士山の写真を撮影したいと、しばらく待つけれど、なかなかスッキリとはしない。西から東にゆっくりと流れる雲だけでなく、富士山の山頂付近で新たな雲が発生しているように見える。まるで富士山が雲を吐き出しているかのようだ。



多くのハイカーはここから岩岩した道を経て西の登山口へと縦走するようだ。しかし鎖場も多く、稚児落としなどといういかにも難所っぽいところが多い。今日は半端な装備でしかないし、時間もないので来た道を下りることにする。



覚悟はしていたけれど、下りには随分と気を使わされる。落ち葉が積もった急斜面で転倒などしたならば、ずっと下まで転げ落ちてしまいそうだ。



再び桂川を南に渡り甲州街道へと戻る。この辺りの断崖になっているけれど、猿橋付近に比べると随分と川幅は広い。この川もまた岩殿山城の要害化に一役買っていたことは間違いない。



大月駅。かつては小山田氏が支配していた甲斐西部・郡内地方の中心だ。江戸時代には大月宿が置かれ、富士山参詣道との分岐点として賑わったそうだ。



歩行距離は13.1㎞、獲得標高は651m。所要時間は5時間半。そのうち街道を歩いていたのは2時間余りだ。



岩殿駅から急いで大月駅まで歩いたのは、是非とも訪問したいところがあったからだ。リニア見学センターだ。大月から南へ、ルートのほとんどがトンネルになっているけれど、都留市内の山中にあるごくわずかな地上部に実験センターと併設されている。



館内には展示車両や軌道の見学などができるとともに、リニアの原理である超電導現象を実験を用いての解説が聞ける。おお、液体窒素で冷却された金属体が磁石の上で確かに浮いている。



リニアの軌道。レールが無いので何だか自動車道のようだ。運が良ければ実験走行でここを走行するリニアを見学できるらしい。



大月に戻り、山梨名物のほうとうを食べる。小麦粉を練って細く切っているけど、麵のようで麵でない(コシがない)。これが味噌とカボチャなどの野菜と相まって、とてもまろやかな味だ。