2017年9月2日(土)
チョコっと信貴山への軽登山に出掛ける。もう何度も歩いているが、例年2月の「寅まつりスタンプラリー」など冬にやってくることが多く、夏の信貴山の記憶がない。
近鉄の信貴山下駅から、かつてケーブルカーが敷設されていた道をテクテクと登っていく。しばらく前と比べると気温は下がったとはいえ、まだまだ夏の日差しだ。
単調な上り坂が続くと、平衡感覚が失われてくる。すべての構築物は斜面に建てられているので、水平線がどれなのか麻痺してくる。
どうやら、緑地帯を挟んで北側(写真の左側)を、もともとケーブルカー(近鉄東信貴鋼索線)が走っていたようだ。
15分ほど住宅街を歩いて、ハイキングロードの入口に到着。何だか地元の人のみが知る、雑木林の抜け道、といった感じだ。
ホントにこんなところをケーブルが走っていたのだろうか。確かにまっすぐな道が、ほぼ一定の勾配で続いているが、深い樹木に覆われ、小虫が飛び交うこの道に、ケーブルカーの映像を重ねあわすことは難しい。
住宅街も近いので、おそらく毎日のように、この道を上っている人も多いのだろう。なんだか、うらぶれた雰囲気ではあるが、突然の雨を凌ぐための傘が設置されているところが2箇所見られた。坂道の連続で結構息が切れるが、腰を下ろす場所はほとんど見当たらない。
木に括り付けられたカンカンと叩く金属の棒が2本。どうやら山火事など、非常時に叩いて危険を知らせるもののようだ。
1983年の廃業から30有余年、もはや鉄道遺跡と呼べるものは、ほとんど見つけることができない。道の脇に鉄骨が何本か放置されていたが、これもケーブルに使用されていたものかどうか、わからない。
もとのケーブル信貴山駅。今はバスの停留所になっている。ロータリーまで付属した立派すぎるバス停だ。
バス停から信貴山山門まではさらに10分ほど、ごく緩やかな坂道の参道を歩かなければならない。かつては料理旅館が立ち並ぶ賑やかなところだったようだ。
信貴山といえば、この写真。何度も来て、何度もこのブログにもアップしている大寅と本堂の組み合わせだ。
聖徳太子像。乗馬しているだけでも、聖徳太子っぽく見えないのだが、さらに馬上で笛まで吹いておられる。
境内に聳え立つ榧(かや)の木。なんと、西暦480年、一粒の榧の実から若芽が誕生した、との説明がある。とすると、樹齢は1500年を超えることになる・・・。
鳥居神仏習合とか、難しい歴史的な経緯はよく判らないが、信貴山朝護孫子寺という由緒あるお寺のなかに、たくさんの鳥居が立ち並んでいる。伏見稲荷の鳥居ほどの統一感がなく、木製やら石製やら、様々な形の鳥居が順不同に建てられているのだが、この不統一さは、この寺が長い年月をかけて少しずつ発展・変化してきたことを物語っているようだ。
アチコチのお寺でみられるものだが、ここにも四国八十八箇所巡礼のお砂踏みのようなものがある。通常88ヶ寺からの砂を埋めたところを踏んで歩くのだが、ここでは、阿波、土佐、伊予、讃岐と4つの踏み石に簡略化されている。
信貴山朝護孫子寺の本堂の前には、山頂にある空鉢護法堂にお水を供えにいくための水筒がズラリと並んでいる。ここから15~20分、階段を登っていったところだが、今回は信貴山頂行を見送る。
本堂の前には、神戸市が寄進した大きな灯籠がある。神戸市と信貴山の関係も良く判らないのだが、大正時代では、政教分離原則も無く、自治体が寺社に寄進するようなこともアリだったようだ。
朝護孫子寺の本堂。聖徳太子が物部氏との戦いに臨む際に、現れたという毘沙門天が祀られている。
本堂から張り出された舞台からは、奈良盆地が一望できる。ご来光を拝むにも絶好の場所だと聞いたことがある。
信貴山といえば寅、寅といえば信貴山、というほどに、寅がアチコチに見られる。いつの間にやら、「信貴山寅探し探検隊」なる表札が掲げられて、名物寅を紹介している。これは「富虎」。1億円札の束を口に咥えている。う~ん、あまりにストレートではなかろうか。
灯籠の根元に巻き付いた寅もいる。
檻に入れられた寅もいる。
これまで勝手に金寅、銀寅、と呼んでいたが、どうやら阿吽像になっているようだ。
おまけ)
信貴山の門前にあるダム湖では、開運バンジージャンプなるものが、開業していた。生まれて初めてバンジージャンプなるものを目の当たりにしたが、1億円あげると言われてもお断りさせていただきたい。
信貴山下から登ってきただけで、大したウォーキングにもなっていないが、都合により今日はこれまで。のんびりとバスでJR王寺駅に戻る。