甲山(西宮市)

 2021年12月30日


12月に入ってから、寒さのせいに加えて体調も気力も落ち込む日が多く、山に一度も登ることがないまま一ヶ月が経過してしまった。年の最後にせめて甲山くらいには登っておこうと急遽思い立ち、既に正月飾りが行われている神呪寺に立ち寄る。



まずは神呪寺にお参り。お気に入りの巾着型の賽銭箱に少しばかだけれど小銭を入れ、この1年間、山歩きでも街歩きでも多くのトラブルがありながらも、無事年末を迎えることができたことのお礼をする。



年末年始特有の澄んた空気を感じる。境内からは大阪市内の高層ビル群までくっきりと見渡すことができる。



甲山の由来碑。神功皇后が国家鎮護のために兜を山頂に埋めたことに始まると伝わる。六甲山系から少し離れて孤立している平地のなかに残る形のいい残丘であり、安山岩質の火山というユニークな山が人里の近くにあるわけだから、他にも種々の伝承があるようだ。



神呪寺の裏手から山頂に向けて登っていく。甲山登山道南口の標札がある訳だから間違いなく「登山」なのだ。



ジグザグに設置された階段道は勾配も緩やかで、小さな子供でも問題ない。急に思いついたこともあるけれど、ビジネスシューズで登っていく。こんな山でも滑ったり転んだりすれば、それなりの怪我に繋がるので、注意を怠らず登っていく。



10分ほど歩いて甲山山頂に到着。「よく頑張ったね」との看板が出迎えてくれるけれど、全く疲れもない。小さな子供向けの看板だとすれば、「がんばったね」と平仮名で書いておくべきだろうなぁ。



まるで運動広場のようになっている広々とした山頂にポツンと二等三角点が立っている。標高は309m。



頂上の一角には平和祈念の塔があるのだけれど、何故か周囲を分厚い生垣で囲まれていて近寄ることが難しくなっている。あまりガードするようなものには思えないんだけれど…。



山頂からも西宮をはじめとする市街地を木々の隙間から見下ろすことができる。



山頂を軽く散策したあと、登ってきた道をそのまま下っていく。「神呪寺までゆっくり15分」の案内標識があるが、よく見ると、「10分」が「15分」に書き換えられている。小さな子供たちやご老人も登ってくるので、余裕のある時間を案内する方が無難なのだろう。



下山して神呪寺に戻ってきた。花塚や魚鳥塚といったよく見かける塚のほかに、盲杖塚というものがある。目の不自由な方が使われる白い杖を供養したものだ。



登り納めとしては、ちょっと寂しすぎる30分ほどの登山だったけれど、年明けには天候さえよければ六甲山方面に登り初めに出掛けたいものだ。




桑名宿~四日市宿【東海道五十三次-22】

 2021年12月21日


先週、名古屋の宮宿まで辿り着いた東海道五十三次ウォーク。宮宿から桑名宿までは海路(七里の渡し)となっているため、今日は桑名からスタートだ。ここまで21日も掛かったけれど、ついに三重県に突入し、自宅から日帰り可能なところまでやってきた。



桑名駅から30分弱歩いて、七里の渡しの船着場跡までやってきた。海路でここに降り立つと出迎えてくれるのが伊勢神宮の一の鳥居だ。江戸時代、庶民は許された目的内での旅しかできなかったため、目的地は京ではなく、誰もが許可されたお伊勢参りに向かったという。



船着場から桑名城の堀へと繋がる水路が張り巡らされている。交通の要衝となる桑名では51もの櫓が城の周囲に配置されていたという。前方に見える隅櫓風に復元された水門管理所の2階が展望台になっている。



埋立などで伊勢湾の地形も往時とは随分と変わっているはずだ。七里先の熱田が見えるはずもない。目の前は揖斐川の河口だ。その向こうには建設の是非で大いに揉めた長良川の河口堰、さらにその向こうには木曽川の河口があるはずだ。



桑名藩は幕末に会津藩とともに幕府を支え続けただけに、主だった建物は官軍に破壊され、今は公園になっている。公園には5000人以上もの犠牲者を出した伊勢湾台風のモニュメントが立つ。温暖で利便性もいい土地だけれど、激烈な高潮や洪水の記憶を忘れてはならない。



駅と七里の渡しの間で、木曽三川の宝暦治水で落命した平田靱負以下の薩摩藩士が祀られた寺があった。工事範囲は岐阜南部~愛知西部と思っていたけれど河口部の桑名まで及んでいたことに驚く。こんな工事を押し付けられた薩摩藩の憤りが倒幕と無縁とは思えない。



城址に立つ初代桑名藩主、本多忠勝の像。徳川四天王の一人として家康の天下取りに多いに貢献した猛将だが、桑名の街づくりにも力を注いだという。手にしているのは天下三名槍のひとつ蜻蛉切に違いない。あらためて見れば随分と長い。常人には使いこなせそうにない。



七里の渡しや桑名城跡の見学に随分と時間を取ったけれど、桑名宗社で道中の安全を祈願して、いよいよ四日市宿に向けて出発する。



桑名城を取り囲むように海から離れたところにまで水路が整備されている。おそらく天守を防衛していた堀の跡なのだろう。よく見ると水路の両側の石垣はかなり古いもののようだ。城の建物は破却されたが、石垣など残されたものもあるようだ。



水路に沿って、短い遊歩道がある。ミニチュア東海道になっているようで、江戸の日本橋から京の三条大橋までの名所を紹介するような道になっている。道の向こうには富士山も見える。



背の高い梯子の上に半鐘が設置されている。今も使っているものとは思えず、おそらくは街道の雰囲気づくりの一環なんだろう。交差点に見えるのは、滋賀県名物の飛び出し坊や「とび太くん」だ。鈴鹿峠を越えて三重県まで進出している。



かつての東海道はおそらく街区の整備などのために真っすぐな道としては残されていないところが多く右左折を繰り返して進む。しかし民家の窓枠などに東海道の道案内標識が掛けられているのが有難い。



桑名市を出て朝日町に入る。この辺りには松並木の街道が続いていたそうだけれど、戦時中の松脂採取のために全て切り倒されたという。戦争には役に立たなかった榎の大木ばかりが残っている。



観光協会が立てたものではなく、個人で立てたような道案内標識も見える。お寺でも東海道歩きをする人のための休憩所を用意してくれているところもある。



四日市市内に入る。富田の一里塚跡があるが、塚の名残りは無い。四日市市って意外に広い…。一里塚が市内に4つもあるではないか。まあ静岡よりはマシだ。静岡市内には確か一里塚が9つ、宿場が6つもあったはずだが、通過するのに2日半も掛かってしまった。




「明治天皇御駐輦跡」の石碑がある。数えだしたらキリがないほどに東海道には明治天皇行幸の碑が多い。遷都の途上で車(輿?)から降りて小休止しただけだろうけれど、きっと画期的な出来事であり大いなる名誉だったのだろう。石も立派だし、揮毫は近衛文麿だ。



街道を進む旅人は、常夜灯の明かりに随分と助けられたに違いないけれど、米洗橋の袂にある常夜灯はひと際大きい。明治天皇の行幸碑もそうだけれど、やはり中京地区は派手好きの風土なのかと思ってしまう。それにきっと豊かな土地柄であったのだろう。



四日市の市街地へと入っていくと、何やら奇妙な人形の絵やパネルが目に入る。どうやら大入道というこの地の祭礼に登場するからくり人形らしい。大入道と名付けられた煎餅なども見られる。



四日市宿の幟にも、大入道風のキャラクターが描かれている。首が伸びていないけれど、これも大入道なのだろうか。調べてみると、これは大入道の息子のこにゅうどう(小入道)くんらしい。



四日市宿資料館というものが見られる。よく見れば耳鼻咽喉科の医院のなかにあるようだ。耳鼻咽喉科と歴史資料館という妙な組み合わせがとても気になるけれど、閉館日のため内部は窺い知れない。



四日市のマンホールは3種類あるようだ。ひとつは市の花、サルビアをモチーフにしたもの。2つ目は歌川広重の浮世絵。広重が四日市宿の象徴的な風景として選んだのは強風のなかを歩く旅人。今の四日市の街並みから想像することは難しい。



3つ目は工業地帯と港湾。しかし四日市にはいないパンダとコアラが何故いるのだ? 調べると姉妹都市・姉妹港の天津・シドニーの象徴らしい。パンダのいる神戸や白浜でさえ、動物園周辺にごく少数のパンダマンホールがあるだけ。四日市のパンダ採用は大胆なことだ。



駅近くの商店街にサンタクロースの衣装を着た機械仕掛けの人形が首を伸ばしたり縮めたりしている。おお、これが大入道か、と思ったけれど、これは「中入道」というものらしい。大入道の弟だという。大入道はもっと大きく9mほどもあるらしい。ややこしいことだ。



四日市駅の改札前には小入道。工業都市でお堅いイメージの強かった四日市だったけれど、かなりハッチャけた町でもあるようだ。



本日の歩行軌跡。ガイドブックでは15.7㎞となっていたけれど、桑名の町ブラもあって歩行距離は20㎞ほどになった。今日は一日かけて四日市まで歩けばいいと気楽に歩いたこともあり、休憩時間も多く7時間もかけた割にはたった一宿場先に進んだだけだ。





池鯉鮒宿~宮宿【東海道五十三次-21】

 2021年12月14日


広重の絵には馬市が開かれるような静かな宿場町が描かれている池鯉鮒(知立)のビジネスホテルに一泊。昨日新しい靴が合わずに痛めた足指の具合はあまり改善されていない。躊躇っているうちに朝10時にもなってしまうが、靴紐を緩めに結んで出発だ。



街はずれにある知立神社に立ち寄る。池鯉鮒の由来となった池があったところで、三河国二ノ宮、東海道三社のひとつ(他の2社は三島神社と熱田神宮)という由緒ある神社だ。特に室町時代の築と伝わる多宝塔の柿葺屋根が趣深い。



昨日は晴天とはいえ、風が強く肌寒かったけれど、今日はさらにいい天気。雲ひとつ見当たらないうえに風もなく穏やかだ。国道1号線を進んで知立市から刈谷市に入っていく。



名鉄の富士松駅の前に「お富士の松」がある。桶狭間の合戦の後、今川勢が織田方の密偵と見間違えてが切り殺してしまった旅人を村人が丁寧に葬り、そこに1本の松を植えたという。でも、どうして「お富士」なんだ?



駅前の自販機には、14代刈谷藩主、土井利信が描かれている。土井利勝なら知っているけれど、利信とは聞きなれない名前だし、調べてみても目立った事績も無い。ひょっとして歴代刈谷藩主全員のラッピング自販機があるのではなかろうか。



境川。名前のとおり、この川が三河と尾張の境界になるのだけれど、思ったよりも細い川だ。昔は派手好きの尾張側と、質素を旨とする三河側で、材質が異なる橋を繋いでいたという。



豊明市に入ると間もなく阿野一里塚が現れる。珍しく左右双方の塚が残っているためか、国史跡に指定されている。ここまで辿ってきた何十もの一里塚のなかには国史跡は無かったような気がする。左右それぞれの木が異なり、一方は赤く、もう一方は黄色く色づいている。



豊明市のマンホールは、騎馬姿の戦国武将。今川軍か織田軍かは判らないけれど、間違いなくこの地で繰り広げられた桶狭間の戦いをモチーフにしたものだ。



少し寄り道をして国史跡になっている戦人塚にやってきた。25,000とも45,000とも伝わる今川軍のうち討死した2500余人の兵が小高い塚に供養されているいう。



一見、桶狭間の戦いのモニュメントかと思った馬の像は、中京競馬場への道を示すものだった。道理で大きな蹄鉄の上の乗っている。



名鉄中京競馬場前駅のすぐ近くに、桶狭間古戦場跡がある。さほど大きくもない緑地のなかに、桶狭間古戦場と書かれた石碑が少なくとも8基も立てられている。ややこしいことに、少し離れた名古屋市内にも桶狭間古戦場の施設があるが、戦場は広域に渡ってのだろう。



今川義元の墓もある。海道一の弓取りとまで呼ばれた大大名の墓としては、敗れたとはいえひどく質素なものに思えたけれど、義元の墓と呼ばれるものはアチコチに幾つもあるようだ。



東海道を東進し、いよいよ名古屋市に入る。最初に現れたのが絞り染めの織物で有名な有松の町だ。旧東海道沿いのの家屋は、瓦屋根、白壁、格子窓で統一されたうえに、「ありまつ」と藍色に染められた絞りの暖簾が掛けられている。



郵便局でさえ、他の家々と同様に格子窓に統一されたうえに、お揃いの絞りの暖簾が掛けられている。全国の大部分の絞り製品は有松で製造されているらしく、今も街道沿いに絞り関係の商店が数多く見られる。



まるで江戸時代にタイムスリップしてきたかのような街並みだ。このまま時代劇のロケでさえできそうな雰囲気だ。実際多くの建物は、江戸時代のものが残されているようだ。大都市名古屋にこのような街並みが残されていることに驚いてしまう。



有松の町を出ると、間もなく鳴海宿に入口の常夜灯が現れる。(有松も鳴海宿の一部と見ることができるのかもしれない)



有松の余韻が残るなか、鳴海はどんな宿場町かとワクワクしながら進んで行ったけれど、大都市郊外の典型的な生活道路が続き、旧宿場町の名残りはまるで感じられない。大都市近郊にあって戦災や再開発が繰り返されたのだろうけれど、ちょっとガッカリだ。



せめて桶狭間の戦いに登場する鳴海城跡にでも立ち寄ろうかとも思ったけれど、時間もないのでパス。暗くなるまでに宮宿まで辿り着けるか、だんだん怪しくなってきたのだ。先を急ぐけれど、相変わらず足は痛く、スローペースでしか歩けなくなってきた…。




名古屋市の緑区から南区へと入っていく。この後、瑞穂区、熱田区と歩いていかなければならない。名古屋市内に入ってもゴールの宮宿はまだまだ遠い…。



笠寺の一里塚に到着したのは既に16時。日没まであと40分しかない…。だというのに宮宿の七里の渡しまでは未だ5㎞以上あるではないか…。もっと朝早く知立の宿を出発すれば良かった。



一般に笠寺観音と呼ばれる笠覆寺。雨の日に観音様に笠を掛けていた娘が、京の貴族に見染められたという逸話もさることながら、この寺を有名にしているのは、織田家の人質となっていた幼き日の家康が、今川に捕らえられた織田信広の交換が行われた場所ということだ。



名古屋市内に入ると、信号待ちばかりか、歩道橋に登ったり下りたりを余儀なくされ、時間は掛かり、体力も削られる。大都会でのウォーキングは、ちょっとした山道よりもダメージを食らいがちだ。



可能な限り、せっせと歩いたけれど、宮宿の七里の渡しに到着したのは17時半。既に夜の帳が下りている。ここから桑名までは東海道は海路となる。次回は桑名の渡し場からのスタートになる。



疲れた~。歩行距離は25㎞、所要時間は8時間強。痛む足をこらえて、よく頑張ったものだ。七里の渡しに到着して気が抜けたのか、そこから名鉄神宮前駅までの道が、ひどく長く感じられた。