2021年12月14日
広重の絵には馬市が開かれるような静かな宿場町が描かれている池鯉鮒(知立)のビジネスホテルに一泊。昨日新しい靴が合わずに痛めた足指の具合はあまり改善されていない。躊躇っているうちに朝10時にもなってしまうが、靴紐を緩めに結んで出発だ。
街はずれにある知立神社に立ち寄る。池鯉鮒の由来となった池があったところで、三河国二ノ宮、東海道三社のひとつ(他の2社は三島神社と熱田神宮)という由緒ある神社だ。特に室町時代の築と伝わる多宝塔の柿葺屋根が趣深い。
昨日は晴天とはいえ、風が強く肌寒かったけれど、今日はさらにいい天気。雲ひとつ見当たらないうえに風もなく穏やかだ。国道1号線を進んで知立市から刈谷市に入っていく。
名鉄の富士松駅の前に「お富士の松」がある。桶狭間の合戦の後、今川勢が織田方の密偵と見間違えてが切り殺してしまった旅人を村人が丁寧に葬り、そこに1本の松を植えたという。でも、どうして「お富士」なんだ?
境川。名前のとおり、この川が三河と尾張の境界になるのだけれど、思ったよりも細い川だ。昔は派手好きの尾張側と、質素を旨とする三河側で、材質が異なる橋を繋いでいたという。
豊明市に入ると間もなく阿野一里塚が現れる。珍しく左右双方の塚が残っているためか、国史跡に指定されている。ここまで辿ってきた何十もの一里塚のなかには国史跡は無かったような気がする。左右それぞれの木が異なり、一方は赤く、もう一方は黄色く色づいている。
豊明市のマンホールは、騎馬姿の戦国武将。今川軍か織田軍かは判らないけれど、間違いなくこの地で繰り広げられた桶狭間の戦いをモチーフにしたものだ。
少し寄り道をして国史跡になっている戦人塚にやってきた。25,000とも45,000とも伝わる今川軍のうち討死した2500余人の兵が小高い塚に供養されているいう。
一見、桶狭間の戦いのモニュメントかと思った馬の像は、中京競馬場への道を示すものだった。道理で大きな蹄鉄の上の乗っている。
名鉄中京競馬場前駅のすぐ近くに、桶狭間古戦場跡がある。さほど大きくもない緑地のなかに、桶狭間古戦場と書かれた石碑が少なくとも8基も立てられている。ややこしいことに、少し離れた名古屋市内にも桶狭間古戦場の施設があるが、戦場は広域に渡ってのだろう。
今川義元の墓もある。海道一の弓取りとまで呼ばれた大大名の墓としては、敗れたとはいえひどく質素なものに思えたけれど、義元の墓と呼ばれるものはアチコチに幾つもあるようだ。
東海道を東進し、いよいよ名古屋市に入る。最初に現れたのが絞り染めの織物で有名な有松の町だ。旧東海道沿いのの家屋は、瓦屋根、白壁、格子窓で統一されたうえに、「ありまつ」と藍色に染められた絞りの暖簾が掛けられている。
郵便局でさえ、他の家々と同様に格子窓に統一されたうえに、お揃いの絞りの暖簾が掛けられている。全国の大部分の絞り製品は有松で製造されているらしく、今も街道沿いに絞り関係の商店が数多く見られる。
まるで江戸時代にタイムスリップしてきたかのような街並みだ。このまま時代劇のロケでさえできそうな雰囲気だ。実際多くの建物は、江戸時代のものが残されているようだ。大都市名古屋にこのような街並みが残されていることに驚いてしまう。
有松の町を出ると、間もなく鳴海宿に入口の常夜灯が現れる。(有松も鳴海宿の一部と見ることができるのかもしれない)
有松の余韻が残るなか、鳴海はどんな宿場町かとワクワクしながら進んで行ったけれど、大都市郊外の典型的な生活道路が続き、旧宿場町の名残りはまるで感じられない。大都市近郊にあって戦災や再開発が繰り返されたのだろうけれど、ちょっとガッカリだ。
せめて桶狭間の戦いに登場する鳴海城跡にでも立ち寄ろうかとも思ったけれど、時間もないのでパス。暗くなるまでに宮宿まで辿り着けるか、だんだん怪しくなってきたのだ。先を急ぐけれど、相変わらず足は痛く、スローペースでしか歩けなくなってきた…。
一般に笠寺観音と呼ばれる笠覆寺。雨の日に観音様に笠を掛けていた娘が、京の貴族に見染められたという逸話もさることながら、この寺を有名にしているのは、織田家の人質となっていた幼き日の家康が、今川に捕らえられた織田信広の交換が行われた場所ということだ。
名古屋市内に入ると、信号待ちばかりか、歩道橋に登ったり下りたりを余儀なくされ、時間は掛かり、体力も削られる。大都会でのウォーキングは、ちょっとした山道よりもダメージを食らいがちだ。
可能な限り、せっせと歩いたけれど、宮宿の七里の渡しに到着したのは17時半。既に夜の帳が下りている。ここから桑名までは東海道は海路となる。次回は桑名の渡し場からのスタートになる。
疲れた~。歩行距離は25㎞、所要時間は8時間強。痛む足をこらえて、よく頑張ったものだ。七里の渡しに到着して気が抜けたのか、そこから名鉄神宮前駅までの道が、ひどく長く感じられた。