桑名宿~四日市宿【東海道五十三次-22】

 2021年12月21日


先週、名古屋の宮宿まで辿り着いた東海道五十三次ウォーク。宮宿から桑名宿までは海路(七里の渡し)となっているため、今日は桑名からスタートだ。ここまで21日も掛かったけれど、ついに三重県に突入し、自宅から日帰り可能なところまでやってきた。



桑名駅から30分弱歩いて、七里の渡しの船着場跡までやってきた。海路でここに降り立つと出迎えてくれるのが伊勢神宮の一の鳥居だ。江戸時代、庶民は許された目的内での旅しかできなかったため、目的地は京ではなく、誰もが許可されたお伊勢参りに向かったという。



船着場から桑名城の堀へと繋がる水路が張り巡らされている。交通の要衝となる桑名では51もの櫓が城の周囲に配置されていたという。前方に見える隅櫓風に復元された水門管理所の2階が展望台になっている。



埋立などで伊勢湾の地形も往時とは随分と変わっているはずだ。七里先の熱田が見えるはずもない。目の前は揖斐川の河口だ。その向こうには建設の是非で大いに揉めた長良川の河口堰、さらにその向こうには木曽川の河口があるはずだ。



桑名藩は幕末に会津藩とともに幕府を支え続けただけに、主だった建物は官軍に破壊され、今は公園になっている。公園には5000人以上もの犠牲者を出した伊勢湾台風のモニュメントが立つ。温暖で利便性もいい土地だけれど、激烈な高潮や洪水の記憶を忘れてはならない。



駅と七里の渡しの間で、木曽三川の宝暦治水で落命した平田靱負以下の薩摩藩士が祀られた寺があった。工事範囲は岐阜南部~愛知西部と思っていたけれど河口部の桑名まで及んでいたことに驚く。こんな工事を押し付けられた薩摩藩の憤りが倒幕と無縁とは思えない。



城址に立つ初代桑名藩主、本多忠勝の像。徳川四天王の一人として家康の天下取りに多いに貢献した猛将だが、桑名の街づくりにも力を注いだという。手にしているのは天下三名槍のひとつ蜻蛉切に違いない。あらためて見れば随分と長い。常人には使いこなせそうにない。



七里の渡しや桑名城跡の見学に随分と時間を取ったけれど、桑名宗社で道中の安全を祈願して、いよいよ四日市宿に向けて出発する。



桑名城を取り囲むように海から離れたところにまで水路が整備されている。おそらく天守を防衛していた堀の跡なのだろう。よく見ると水路の両側の石垣はかなり古いもののようだ。城の建物は破却されたが、石垣など残されたものもあるようだ。



水路に沿って、短い遊歩道がある。ミニチュア東海道になっているようで、江戸の日本橋から京の三条大橋までの名所を紹介するような道になっている。道の向こうには富士山も見える。



背の高い梯子の上に半鐘が設置されている。今も使っているものとは思えず、おそらくは街道の雰囲気づくりの一環なんだろう。交差点に見えるのは、滋賀県名物の飛び出し坊や「とび太くん」だ。鈴鹿峠を越えて三重県まで進出している。



かつての東海道はおそらく街区の整備などのために真っすぐな道としては残されていないところが多く右左折を繰り返して進む。しかし民家の窓枠などに東海道の道案内標識が掛けられているのが有難い。



桑名市を出て朝日町に入る。この辺りには松並木の街道が続いていたそうだけれど、戦時中の松脂採取のために全て切り倒されたという。戦争には役に立たなかった榎の大木ばかりが残っている。



観光協会が立てたものではなく、個人で立てたような道案内標識も見える。お寺でも東海道歩きをする人のための休憩所を用意してくれているところもある。



四日市市内に入る。富田の一里塚跡があるが、塚の名残りは無い。四日市市って意外に広い…。一里塚が市内に4つもあるではないか。まあ静岡よりはマシだ。静岡市内には確か一里塚が9つ、宿場が6つもあったはずだが、通過するのに2日半も掛かってしまった。




「明治天皇御駐輦跡」の石碑がある。数えだしたらキリがないほどに東海道には明治天皇行幸の碑が多い。遷都の途上で車(輿?)から降りて小休止しただけだろうけれど、きっと画期的な出来事であり大いなる名誉だったのだろう。石も立派だし、揮毫は近衛文麿だ。



街道を進む旅人は、常夜灯の明かりに随分と助けられたに違いないけれど、米洗橋の袂にある常夜灯はひと際大きい。明治天皇の行幸碑もそうだけれど、やはり中京地区は派手好きの風土なのかと思ってしまう。それにきっと豊かな土地柄であったのだろう。



四日市の市街地へと入っていくと、何やら奇妙な人形の絵やパネルが目に入る。どうやら大入道というこの地の祭礼に登場するからくり人形らしい。大入道と名付けられた煎餅なども見られる。



四日市宿の幟にも、大入道風のキャラクターが描かれている。首が伸びていないけれど、これも大入道なのだろうか。調べてみると、これは大入道の息子のこにゅうどう(小入道)くんらしい。



四日市宿資料館というものが見られる。よく見れば耳鼻咽喉科の医院のなかにあるようだ。耳鼻咽喉科と歴史資料館という妙な組み合わせがとても気になるけれど、閉館日のため内部は窺い知れない。



四日市のマンホールは3種類あるようだ。ひとつは市の花、サルビアをモチーフにしたもの。2つ目は歌川広重の浮世絵。広重が四日市宿の象徴的な風景として選んだのは強風のなかを歩く旅人。今の四日市の街並みから想像することは難しい。



3つ目は工業地帯と港湾。しかし四日市にはいないパンダとコアラが何故いるのだ? 調べると姉妹都市・姉妹港の天津・シドニーの象徴らしい。パンダのいる神戸や白浜でさえ、動物園周辺にごく少数のパンダマンホールがあるだけ。四日市のパンダ採用は大胆なことだ。



駅近くの商店街にサンタクロースの衣装を着た機械仕掛けの人形が首を伸ばしたり縮めたりしている。おお、これが大入道か、と思ったけれど、これは「中入道」というものらしい。大入道の弟だという。大入道はもっと大きく9mほどもあるらしい。ややこしいことだ。



四日市駅の改札前には小入道。工業都市でお堅いイメージの強かった四日市だったけれど、かなりハッチャけた町でもあるようだ。



本日の歩行軌跡。ガイドブックでは15.7㎞となっていたけれど、桑名の町ブラもあって歩行距離は20㎞ほどになった。今日は一日かけて四日市まで歩けばいいと気楽に歩いたこともあり、休憩時間も多く7時間もかけた割にはたった一宿場先に進んだだけだ。