2023年11月20日
甲州街道歩きも最終盤。上諏訪宿から6㎞先の下諏訪宿に向かう。おそらく諏訪大社の上社・下社によるものだろうけど、京都に近い方が「下」となっている珍しい例のように思う。湖岸から200mほど離れた道を進むけれど、山がすぐそこに迫っている。平地部はごく狭い。
久しぶりに見る一里塚址の石碑。江戸から五十二里。トラブルや寄り道も多かったけど、甲州街道完歩に15日も掛かるとは思っていなかった…。
平地が限られているからか、結構な斜面の上にも住宅が立ち並んでいるし、耕作面積を増やすための棚田も見られる。
諏訪地域を歩いて驚かされることのひとつは火の見櫓や消防団の多さだ。古いものが放置されているのではなく現役バリバリ感がある。過去に大火に見舞われたのかもしれないけれど、長らく諏訪大社を中心とした地域住民の連携が強いことが窺える。
比較的新しい蔵が多いのも、火災への備えのように感じられる。調べてみると、諏訪地方は特に冬はかなり乾燥するところらしい。意外に雪も少ないそうだ。一昨日の吹雪は結構レアな経験だったのかもしれない。
諏訪市から下諏訪町へと入る。正岡子規門下の歌人が集まったアララギ派の中心人物である島木赤彦の旧居に立ち寄る。農村の庄屋さん宅といった感じがするけれど、茅葺屋根と書院造が特徴的な士族の家なんだそうだ。
眼下には諏訪湖が広がる。この辺りは石投場と呼ばれる名所なんだけれど、諏訪湖周辺の干拓が進んだせいか、今では湖まで石が届くとはとても思えない。
「南信八名所石投場」の石碑が立っている。南信濃のベスト8に入るとは、相当な名勝と言える。その脇には明治天皇駐輦址の碑が立つ。明治天皇もここで石を投げたのではなかろうか。
ついに甲州街道最後の一里塚碑。江戸日本橋から数えて53番目の一里塚となる。間もなく合流する中山道の下諏訪宿直前の一里塚は55番目だから江戸〜下諏訪は甲州街道が約8㎞短い。それでも多くの旅人は物価が安く、設備が充実していた中山道を好んだらしい。
承知川の橋に使われていた大石が壁のように立てかけられている。武田信玄にゆかりのある橋なんだけど、この石の表面の模様が信玄の埋蔵金の在り処を示しているとも伝わるらしい。もっとも目を凝らしても、縦横の線が何本もあるとしか見えない。
諏訪大社下社秋宮に到着。中山道との合流地点はすぐそこなのだけれど、急ぐ必要はない。正面の立派な注連縄が施された社殿は重要文化財に指定されている神楽殿。1835年に造営されたものらしい。
その奥にあるのが1781年造営の幣拝殿。もちろん重要文化財だ。その右手前には一之御柱が立っている。上社同様、下社にも本殿はなく、神体はご神木なんだそうだ。
ついに中山道との合流地点にやってきた。甲州街道と中山道がT字路を形成している。長野県に入ってから、あまり街道の標識類や遺跡が少ないことに寂しい思いをしてきたけれど、下諏訪宿では旧宿場町の雰囲気を色濃く保存されている。
江戸から下諏訪まで甲州街道で五十三里十一丁。京までは七十七里三丁とある。この後、中山道を京都まで歩くつもりだけれど、まだ全体の4割しか歩いていないことになる。
合流点から見た甲州街道。正面の緑の奥に諏訪大社下社秋宮がある。
これが中山道。この五十五里先に江戸がある。
そして、これが京へと向かう中山道。甲州街道と合流して賑やかさを増しているように見える。道の左右には旅籠(今も旅館として営業している)が立ち並んでいたようで、おそらく信州で最も華やかな宿場町であったと思われる。
街道沿いの旅館の門前には、温泉の注ぎ口がある。「源泉掛け流し」、「諏訪明神ご神湯」とある。時代劇で良く見る旅籠到着時に足を洗うものなのか、あるいは手を洗うものなのか、はたまた神湯を口に含むものなのか…。もちろん無料の足湯の提供も見られる。
高札場も復元されている。東海道では度々見られたものだけれど、甲州街道ではほとんどお目にかかることは無かった。
合流地点からほんの少しだけ中山道を京に向かって歩いて、下諏訪駅に到着。駅前には長野五輪会場に立てられたという御柱が移設されている。中山道をこのまま塩尻宿まで歩くことも考えたけど、最終日の午後は諏訪の観光とグルメに充てることにする。
諏訪名物の味噌天丼に初挑戦。甘じょっぱい醬油出汁ではなく、信州名物の味噌だれをかけていただく。たれが変わると天丼の風味がまるで違うものになる。
今日は6.6㎞、3時間の軽いウォーキング。近いうちに戻ってきて、中山道へと進みたい。