金鳥山【六甲山系】

 2024年8月19日


登山など考えたくもない猛暑が続くけど、YAMAPの山の日バッジを獲得するためには8月中にどこかの山に登頂しなければならない。降雨が予想されるとはいえ、珍しく朝から過ごしやすい気温(30度は超えるのだけれど)なので、保久良神社の奥にある金鳥山に向かう。



阪急岡本駅から舗装道をひたすら登る。バッテリー充電を忘れて、空調服は無し。こんな日に使えないなんて…。長い坂道は結構疲れるし、やっぱり暑いんだけれど、地元のシニアがかなりの数、それもソロで登っておられる。ここでも毎日登山が開催されているようだ。



灘の一ツ目と呼ばれる保久良神社の参道前にある灯篭。日本武尊が熊襲征伐から海路で戻った際、この火のお陰で無事難波津まで戻ることができたらしい。今では電線が無粋に張られた灯篭だけれど、昔は麓の子供たちが当番制で毎日夕刻に点火のために登っていたと聞く。




参道には亀に乗った保久良神社がお祀りする椎根津彦命の像がある。神武天皇東征の際には航路を先導したという。この椎根津彦命が青い亀に乗ってこの地にやってきて、ここにかがり火を焚かせたとかいう話が古事記とか日本書紀に記録されているらしい。



標高185mの保久良神社で、もう十分疲れてしまった…。地元の方と長々と雑談する。皆さん、同年代あるいは年上と見受けられるけれど、毎日のようにここまで登ってこられるらしい。とてもお元気だ。毎朝ラジオ体操も行われているようで、指揮台が設置されている。



保久良神社参道。十二支の石像が並んでいる。こんなのあったかなぁ…。たぶん最近設置されたもののはずだ。



「保久良山」と書かれた看板類が多く見られる。保久良神社を中心とした山域を指しているものなのだろうけれど、登山マップには無い山だ。ここで1座登頂としてくれてYAMAPのバッジを獲得できれば、有難いのだけれど…。気が進まないけれど、金鳥山を目指す。



境内より紀元前弥生式土器が出土し、保久良神社あたりは弥生時代から祭祀の地であったらしく、いくつもの磐座が現存している。



金鳥山に向かうのがイヤな理由は、既に疲れていたこともあるけれど、この長い石段がしんどいのだ。大した段差でもないように見えるのだけれど、古傷の股関節に妙に応える。登るのもイヤなのだけれど、下るのも苦手なのだ。



覚悟していたとはいえ、雨が降ってきた。大した雨ではないけれど、これ幸いと休憩。うまい具合に良い風が抜けるところに頃合いの岩があったので、長々と腰を下ろす。金鳥山の手前に見晴らしの良い展望台があって、またまた長い休憩。



金鳥山の山頂は登山道から逸れた脇道の奥にあり、とても判りにくい。どなたかが付けてくれたテープが分岐点の目印だ。



ピークハンターでも無ければ、わざわざ立ち寄る価値の無い山だ。しばらく進むと、完全に藪漕ぎ状態となってしまう。



ここが金鳥山の山頂(338m)。ここも旗振山だったと言われる。高取山に旗信号を送っていたというけれど、今では全く眺望が無い。キャンプファイアーの火床にようにも古代の祭祀場のようにも見える石積みがあるけれど、何なのだろう。



前回登ってきたときには見つけることができなかった山頂標を確認。とてもお洒落な金属プレートなのだけど、ちょっと見つけにくい。



所期の目的だった金鳥山登頂は果たすことができたけど、今日はもう下山することにしよう。体調次第で七兵衛山あたりまで行くつもりだったけれど、ブッチャケ疲れた…。雨も止みそうにないし、言い訳も十分だ。



金鳥山をそのまま西に下ると、ハブ谷や八幡谷に道が繋がっているようなので、少し様子を見るために進んだけれど、かなり難路っぽい。やめとこう…。



少し道を変えて保久良神社からの登山道に戻るが、やめときゃよかった。藪漕ぎはともかく、蜘蛛の巣だらけだ。目の前に巣を張った大きな蜘蛛が何度も登場する。蜘蛛の写真を撮ったつもりなのに、ピントがまるで合わず、写真の真ん中に黒っぽいものがあるだけ…。



結局、嫌いな石段を再び下っていく。昔と違ってスムーズに下ることができず、どうしてもドスンドスンと、足首や膝に負担のかかる下り方しかできない。



オレンジ色の花が咲く道を下って岡本駅へ。どうやら黄花コスモスという花らしい。黄色というよりオレンジ色なんだけど…。



距離4.4㎞、獲得標高330m。お手軽登山のはずなのに、所用時間は3時間半。まあ1時間半以上も休憩していたと記録されている。毎年夏に登山するたびに感じるのだけれど、いよいよ体力の急激な衰えが始まったのかもしれない…。





中山道(6)(籠原~本庄)

 2024年8月9日


JR籠原駅から中山道歩き再開。昨日は所用のため、体力は多少回復したようだけれど、今日も暑い日になりそうだ。さらに雲が少なく、日射しに苦しめられそうだ。ツバの広い帽子と長袖の速乾シャツ、そして秘密兵器?の空調服でどこまで対応できるだろうか。



比較的快調に熊谷市を抜け、深谷市にやってきた。かつては400本ほどの松や杉が並んでいたというけれど、今ではほとんど残っていないようだ。道の拡幅に伴い、植栽を進めているらしいけど、旅人を日光から守るまでにはまだまだ長い年月が必要となりそうだ。



深谷宿の東西入口にある常夜燈。当時のものが残っているようだ。今と異なり、当時の旅人にとって、常夜燈はとても明るく、有難いものであったに違いない。



文政八年から営業しているという旅館が今も営業している。創業200年にもなり、今の建物の築年数は浅そうだけれど、かつての建築様式を可能な限り継承しているように見える。最盛期には深谷宿に80軒ほど旅籠が並んでいたという。



旅館だけではなく、酒蔵、茶舗、製菓、など、古くからこの地で営業していたと思われる老舗の多くが古い建築様式となっている。ただその数は限定的で古い街並みを形成するほどではない。でも新しい建物も和風になっているものが多く、今後街並みの整備が進みそうだ。



深谷駅。街の規模とは不釣り合いなほどの豪華な駅舎だ。深谷は煉瓦生産が盛んで東京駅の煉瓦の大半は深谷産らしい。もっともここで使われているのは重厚な煉瓦ではなく、煉瓦風のタイルのようだけれど、それでも相当な力の入りようだ。誰が費用負担したのだろうか。



深谷は渋沢栄一の故郷。駅前には立派な渋沢栄一の銅像が建てられている。NHK大河の主役に続き、新一万円札の肖像となり、大いに盛り上がっている。町中に渋沢栄一のバナーやポスターが溢れかえっている。



もっとも深谷の一番の誇りといえば、もとは深谷ネギだったはず。マンホールには、深谷ネギをモチーフにしたゆるキャラ、渋沢栄一に加えて、一の谷の戦いで馬を担いで坂を駆け下りたという畑山重忠、市の花の椿と特産の煉瓦…、と深谷市のウリの多さが判る。



もっとも中山道の旧宿場町としては、ちょっと寂しい。本陣跡に立つ碑もかなり老朽化している。街並みの整備も少しずつ進んでいるようだし、今後の発展に期待したいところだ。



古い酒蔵を活用した街の活性化が進んでいるようだ。広い敷地にある多様な建物が開放され、飲食店や書店や映画館など、様々な業態のお店となっている。



鬼瓦工房なんてのもある。市が古い酒蔵を借り上げ、ありきたりではなく、ユニークな取り組みをしている芸術家や起業家にシェアしているようだ。覗いて回るだけでも楽しく、深谷の新たな名所になりそうなところだ。



深谷の地域通貨はネギーというらしい。地域通貨で買い物をするとさらに抽選で地域通貨が貰えるらしい。ネギージャンボとは軽いノリだけれど、人口10万前後の都市が数多く並ぶ埼玉北部にあって、地域経済振興にあの手この手を駆使しているようだ。



日射しがキツく、日陰のベンチを見つけるたびに座り込んでしまう。一旦座り込むと日陰から強い日射しを見つめ、雲が太陽に掛かるタイミングで再び歩きだすことを繰り返す。これがかなり効果的。日陰で休憩中こそ空調服は威力を発揮し、体力回復を助けてくれる。



岡部藩の陣屋跡に立ち寄る。譜代の安部家が江戸時代を通じて治めた2万石ほどの石高が合った藩だけれど、驚くほどに何もない。



岡部駅を過ぎると次の本庄駅まで7㎞も駅がない。バスも走ってない。やめるならココなんだけど、頑張って本庄を目指そう。途中で地元の方と長い雑談をし、飲み物やタオルまで戴く。ご厚意に応えるためにも歩き通さねば…。でも、暑い…。



深谷市も端っこの方までやってくると、急に視界が広がり、群馬県の山々が薄っすらと見えるようになる。手前の畑は、ネギ畑。あっ、深谷ネギだ。



利根川と荒川に挟まれた深谷は土地が肥沃で、良い農作物が採れるところだそうだ。何故か関西では深谷ネギを見ることが少ないのだ。糖度の高くてすき焼きなんかには最高なんだけどなぁ…。深谷ではネギ料理でも食べたいと思っていたのだけれど見当たらない。



岡部消防署第一部と書かれた要塞のような倉庫。消防車が格納された車庫なのかもしれない。明らかに戦前の建物だから元は防空壕のようなものなのかもしれない。興味は尽きないけれど、何の説明もない。火の見櫓と拡声器が併設されている。



市街地から離れて完全に田園風景のなかのウォーキングになる。国道歩きよりも何十倍も楽しいはずなんだけど、暑さに参ってしまう。とにかく日陰が無いのだ。



小山川という川を渡る。調べてみると利根川水系だ。ここまで荒川に沿って北上してきたけれど、この後しばらくは利根川沿いに歩くことになるようだ。橋を渡るといよいよ本庄市だ。



お日様が雲に隠れるのをじっと待つ。慌てる必要もない。いや慌てるだけ疲れる。とにかく日射しが弱まるのをゆっくり待つことにする。



旧本庄宿に入ってきたときには西日がギラギラ。気温は少し下がったけれど、眩しいうえに、空調服のバッテリーが切れてしまう。空調ファンが止まって初めて空調服の効果が実感できる。これまで主に北に向かって歩いてきたのが、西に針路が変わってきたのが判る。



本庄駅。今回の遠征はここまで。群馬県入りを目指していたけれど、まあこんなものだろう。次回はいつになるか判らないけれど、いよいよ埼玉県を脱出できるはずだ。



歩行距離18.8㎞。所要時間9時間40分、うち休憩時間が4時間半! 所要時間の46%が休憩だけれど、これでいい。時間を削るよりも、疲れを最小化させることが優先だ。




中山道(5)(行田~籠原)

 2024年8月6日


今回の中山道歩きはJR高崎線の行田駅から。駅舎だけが行田市で、すぐ南は鴻巣市、北は熊谷市、という不思議な立地。高崎線が行田市を通過しているのは僅か200mほどだ。行田市の中心は秩父鉄道の行田市駅になるようだ。



行田駅から再び荒川の堤防の上を通る中山道へ。途中から車両通行止めになっているのが嬉しい。もっとも今日は自動車よりも、日射が気になる。昨日より少し涼しいようだけれど、厳しい埼玉の日射を遮る木もビルも無い道を進むのは、実に無防備な行動に感じられる。



熊谷の街並みが遠くに見える。昨日の川越歩きの疲れが残っているせいか、とても遠く感じられる。まだ午前9時半でさほど気温は高くないけれど、湿気が酷く高く、身体にまとわりつくようなベタベタした空気感だ。



荒川に架かる久下橋。橋長は778m。長くて橋の末端が確認できないほどだけれど、航空写真で見る限り、平時の荒川の川幅はせいぜい50m。残りの700mは荒川が氾濫した時に備えた堤外地であり、いざとなれば遊水池となる地帯に架けられている。



久下橋を横から見ると、橋の下部には何もない草原が広がる。その名のとおり荒川が荒ぶる川であったことが知れる。



橋が架かる前には渡し船だけが荒川を渡るための手段だったようで、この辺りに渡船場があったようだ。昭和30年についに架橋したものの、その橋長は100m弱。川が氾濫したら冠水することを前提に設計されたものだったらしい。



荒川の堤防から市街地へと入っていくと、熊谷の手前に、八丁の一里塚があったという。ようやく江戸日本場から16里めになる。塚は残されていない。まあ、説明板があるだけでもヨシとしよう。



熊谷駅の手前で新幹線の高架を潜り、高崎線を渡る。踏切の名前が第六中仙道踏切。第六というけれど、どこから数えて6番目なんだろうか。これから踏切を渡る際には、踏切名にも注意することにしよう。




熊谷の中心部を流れる星川。整備された川の両岸には、様々な屋台が並ぶ夜市が毎月開催されるところらしい。



日本最高気温41.1度という記録を有する熊谷市に、最も暑い季節、最も暑い時間帯にやってきた。しかもまたまた国道17号線に戻っての舗装道歩きとなる。もうかなりバテているけれど、大丈夫かぁ…。街路樹は木陰を期待できるほどには成長していない。



熊谷市も日本一暑いという状況に無策であろうはずもなく、遮熱性舗装を導入するなどを進めているようだ。でも地図を見る限り、1㎞ほどしか対策されていないようだ。



期待はしていなかったけれど、旧宿場町の雰囲気はほとんど感じられない。札ノ辻跡にも簡単な説明板が立つだけだ。説明板には、「中山道の記憶を今に伝える貴重な文化財である」とあるけれど、復元さえされていないし、何が文化財なんだろう…。



残念ながら本陣跡も説明板だけ。火災や空襲で主だった旧宿場の遺構はあらかた焼失したようだ。中山道では板橋宿に次ぐ大きな町だったというけれど、忍藩が厳しく風紀を取り締まり、飯盛女を置かせなかったことなどで、あまり人気のある宿場町ではなかったらしい。



熊谷市内唯一の百貨店、八木橋百貨店の前には、「熊谷夏の陣」という大きな看板がある。まあこれだけ暑いと、その暑さを逆手にとって街の活性化に繋げようとすることも理解できる。ただ残念なことに、午前11時(30.6度)から気温の更新がされていない。



百貨店のレストラン街で昼食。ちょっと高そうだけれど、とにかく涼しいところでゆっくりしたい…。あんかけ焼きそばのランチセットを注文。当然ライスが付くと思っていたけれど、蒸餃子と杏仁豆腐だけ。炭水化物定食に慣れた関西人にはちょっと物足りない…。



店を出ると気温は33.4度。まだ13時20分だから、さらに34~35度くらいまで上昇しそうだ。おそらく20度台前半に冷房が効いたレストランですっかりクールダウンした体にとって、この温度差はキツイ。再び歩きだす力が出ない…。



歩道橋がメチャクチャ辛い。なんで横断歩道にしてくれないんだ、とボヤきたくもなる。体がとても重く感じられる。



国道17号線から分岐して少し狭い道となる。車両通行量が多い国道では、歩道が分離されていても、気分も載らず、何故かとても疲れが溜まる。これくらいの道でも有難い。



と思ったら、間もなく再び国道17号線に再合流。高いビルも街路樹もなく、ロードサイド型店舗ばかりが並んでいる。もっとも辛い道だ。目に付くのは「雪くま」という熊谷ブランドの高価なかき氷の看板。喫茶店だけでなく、定食屋や中華でも雪くまを扱っている。



熊谷の市街地を離れ、少しずつ田園風景が楽しめるようになってきた。田んぼの上に何羽もの大きな鳥が舞っている、と思ったら、空飛ぶ案山子のようなものらしい。ポールから紐で結びつけられた鷹?型の凧が、縦横無尽に飛び回って、小鳥たちを追い払っているようだ。



JR籠原駅。せめて深谷駅まで歩きたいと思っていたのだけれど、ここでギブアップ。北上するについれて駅間距離が長くなり、次の深谷までは5㎞強。まだ熊谷市を脱出できてもいないけれど、もう十分疲れたし、明日もあるので無理は禁物だ。



籠原駅から、立ち寄ることができなかった熊谷駅に電車で戻る。駅前にはこの地出身の熊谷直実の銅像がある。須磨寺にある銅像と同じように扇を手にしているけれど、これは一の谷の合戦で逃走する平敦盛を呼び止めている有名なシーンだそうだ。



秩父鉄道の改札前にある「熊たまや」で肉ネギつけうどん。カウンターだけの小さな店だけれど、とても評判の高い店。小麦粉もネギも熊谷産を使い、七味は自分でブレンドする。細めの麺はとても喉越しが良く、暑い日には持ってこいだ。埼玉のうどんのレベルは高い。



7時間半も掛けた割には歩行距離は13.3㎞。統計を見ると3時間15分も休憩しているのだから、こんなものだろう。この季節、休憩時間は歩行時間と同じくらい欲しいところだ。