2025年2月14日
中山道踏破に向けての7日目。前回は酷暑真っ只中の8月、今回は極寒の2月。もっともこの3日ほどは寒さも和らぐようだ。半年ぶりの本庄駅前には江戸時代に入って早々に廃城になった本庄城のポストが立つ。本庄宿の位置づけは本庄城より下なんだろうか。
かつては中山道で最大の宿場町なり、大いに賑わったという本庄宿だけれど、今やその名残を見つけることは難しい。2つあったという本陣の跡には石碑も案内板も無い。歩道の片隅にポツンとここが中山道本庄宿であったことを示す標柱が立っているだけだ。
どうやら明治に入って、本庄は生糸や絹織物の産地としてかつての宿場町は大変身を遂げたようだ。当時の繁栄ぶりを彷彿とさせる立派な建造物が散見される。この煉瓦造りの建物も元は地元の銀行だったらしいけれど、一地方銀行としてはかなり豪華なものに感じる。
今では資料館として内部は自由に見学できる。折しもこの地に伝わる吊るし雛などの展示も行われていたけれど、興味深いのは全国赤レンガ建造物番付。東横綱が東京駅、西横綱が大阪中央公会堂、そしてこの本庄のレンガ倉庫は東前頭二枚目と、かなりの高位にある。
中山道御宿場印めぐりというものがある。御朱印のブームに乗っかって、御城印や御湯印なども登場し、多くの人を惹きつけているようだ。生粋のスタンプラリーストではあるけれど、押印ひとつにつき300円~500円も払わされるなんて、アホらしく感じてならない。
分厚い壁や扉に守られた古い土蔵や蔵も多数見られる。生糸や絹織物でかなりの財を貯えた商家が多いようだ。
実は本庄で食べたかった名物がある。ナピラだ。納豆ピラフを略したものらしい。本庄市内にはナピラを扱う店がいくつもあるんだけれど、朝早くて開店しているところが無い…。
新田四天王のひとり、畑時能の墓がある。新田義貞が上州で倒幕の旗揚げした際には僅か150騎であったのに、進むにつれて大勢の兵力を糾合し、見る見るうちに大軍勢に膨れ上がったという。まさにこの辺りの道を義貞は鎌倉に向かって驀進していったはずだ。
群馬県との県境、神流川にやってきた。武田攻めで大功をあげた織田四天王のひとり滝川一益が、上野一国ほか計60万石の大領を任され、関八州の仕置きや越後上杉の牽制に精を出していたところに本能寺の変が勃発。それまで従順だった北条が突如牙を向いて来たのだ。
甲斐も信濃の同輩は武田残党に攻め落とされ、上野に孤軍取り残された一益を想いながら神流川に架かる古い橋へと向かうが、なんと通行止め。歩道までしっかりと封鎖されている。
やむなく国道17号線の神流川橋に迂回すると、かなりの威容を誇る冠雪した山が出迎えてくれる。これが赤城山かぁ…。群馬県の親分に県境で早速出迎えいただいたようで恐縮してしまう。
更に道の向こうには、更に高い山が…。浅間山だ。大親分だ。頂上には少し噴煙が見えるような気がする。これから軽井沢に向けて、浅間山はほぼ進行方向に見えるはずだ。富士山同様、見ているだけでパワーが貰える気がする。
かつて神流川は相当な暴れ川だったそうで、洪水のたびに川筋を変え、道も判らなくなってしまったという。そこで建てられたのが2基の見透灯籠だ。2基を結ぶ直線が道だと判るようにしたのだ。今も復元されたものが川の両岸に据えられている。
神流川古戦場碑にやってきた。5万6千の大軍で押し寄せてきた北条軍に対して、一益が率いるのは1万8千。大激戦で、結局勝利した北条軍も小田原に撤退せざるを得ないほどだったという。しかし一益は北条に勝つことではなく、とにかく京に戻ることを急いだようだ。
信長が、武田、上杉、北条が鎬を削り、真田をはじめ一癖も二癖もある国人・地侍たちが割拠するこの地を、既に老齢に達し領地よりも茶器が欲しいと言っていた一益に任せたのは、軍事、内政、外交の総合力を評価していたからに違いない。ただ一益に運が無さすぎた…。
昼食はつけ麺と餃子。ここまで中山道を歩いてきて、うどんなど麺類にハズレが無いのだ。たまたま良い店だったのかもしれないけれど、上里町など埼玉北部が小麦の名産地であることも無関係ではないような気がする。
新町宿。上野七宿のトップバッターだというのに本陣跡に簡素な木標と説明板があるだけ。高崎宿が城下町ならではの堅苦しさがあるため、新町宿に泊まる旅人が多かったと聞くけれど、今は静かな住宅街だ。
烏川の土手にやってくると、北西方向にまたまた気になる山々が連なっていることに気付いた。方角から推定する限り榛名山の御一統だろうか。榛名山といえば、湖なんかもあって、比較的登りやすい山だと思っていたけれど、容易な山には見えない…。
昨日は関東一円に暴風が吹き荒れたというけれど今日はかなり穏やかな日。ところが烏川の土手はかなりの吹きっさらし。赤城おろしというやつだろうか。気温もそれほど低くないはずなのに、30分ほどの土手歩きで鼻水が止まらなくなり、軽い頭痛まで感じてきた。
風邪の初期症状を感じながらも、とにかく倉賀野駅までは歩くしかない。高崎市に入ると多数見られる歩道上にペイントされた案内標識ばかりを見ながら、俯き気味にトボトボと進んでいく。
朝廷から家康を祀る東照宮に毎年幣帛を捧げるために送っていた使者を、日光例幣使と呼ぶそうだ。倉賀野の手前にある古い石標は、中山道を進んできた日光例幣使を導くもの。右江戸道、左日光道と書かれている。
「勘定奉行小栗上野介忠順公埋蔵金ゆかりの地」との石碑がある。いわゆる徳川埋蔵金だ。幕府崩壊直前に江戸城の金を運び出したとの伝説があるけれど、埋蔵地候補は赤城山など群馬県が圧倒的に多い。今も探している人は少なくないんだろうなぁ…。
倉賀野宿は中山道の宿場町であることに加え、利根川支流となる烏川があって、陸運、水運双方の要所として大いに賑わったという。古い商家が「おもてなし館」になっているけれど、どうしたことか閉館中。休日だけ開いているのだろうか。
ここも本陣跡は小さな碑と説明板のみ、と寂しい限りだ。今ではドラグストアの駐車場になっている。車にぶつけられないようにガードポールで囲うという配慮はなされてはいるだけでも扱いは悪くないと見るべきなんだろうか…。
まだ16時前なので高崎まで頑張りたかったけれど、鼻水がひどくて倉賀野駅で今日は終了。距離17.8㎞、所要時間は6時間38分。今日は風邪薬を飲んでゆっくりしよう。