2015年12月5日(土)
長年溜め込んだウォーキング関係のマップ類を整理していると、いつか歩こうと思ったまま放置されているコースの多さに愕然としてしまう。そんな中から、今日は大阪狭山市から富田林市への道を歩くことにする。資料はなんと8年前のもの。当時と道も変わっているかもしれないと思いつつ、南海金剛駅をスタートする。
金剛駅の近くにある狭山神社。とても落ち着いた風格のある社殿だ。住吉造というものらしい。古事記に登場する狭山池の造営より前の創建と伝わるだけに、1400年以上の歴史があることになる。
真っ赤なナンテン?が美しい街路樹を形成している住宅街をドンドン歩く。が、どうも進んでいる方向が違っているようだ・・・。
引き返したものの、マップに記載されている南海高野線を渡る橋が見当たらない・・・。
あっちこっち、と迷いまくって、ようやく富田林市に突入。
あとで歩行の軌跡を確認すると、あちらこちらと行ったり戻ったり・・・。よくある事ではあるが、あらためて歩行軌跡を見ると、何とも情けない・・・。
中高野街道を歩く。数年前に大阪府の交通道路室(だったかな?)で、何冊もの旧街道マップを入手して、大阪から高野山に続く、東高野街道、中高野街道、西高野街道は、いずれも全て歩きとおしたので、この道も歩いたはずだ。もっとも全く記憶に残っていない・・・。
南海高野線から近鉄長野線にかけて、溜池の多い地域を進む。これは寺池。日本最古と言われる狭山池の規模にはとても及ばないものの、外周1kmくらいはありそうだ。
何となく西洋的な道だ。空気も澄んで、金剛・葛城山系が道の先にくっきりと見通すことができる。
面白い構図だと思って苦労して撮ったんだが・・・。ねぎ畑+金剛山(右)+大和葛城山(左)。
こちらの構図もイマイチ・・・。刈穂の跡+PL塔(大平和記念塔)。
檜皮葺、入母屋造、漆塗りの柱、極彩色の琵琶板・・・。この地の氏神というが、とても重厚で端麗な本殿だ。錦織造と呼ばれて、日光東照宮にも影響を与えたものなんだそうだ。
近鉄長野線を渡る。まっすぐな単線が河内長野に向かって続いている。
富田林の寺内町にやってきた。江戸時代から明治・大正の街並みがしっかりと残っている。江戸時代には有力町衆による自治が行われていたそうだ。これは杉山家住宅。有力町衆のひとつだ。
もともとは、戦国時代に一向宗(浄土真宗)門徒が開いた町。どうした経緯かは知らないが、石山本願寺に味方しなかったため、織田信長からの攻撃を受けずに済んだそうだ。
建ち並ぶ歴史的建造物には、それぞれ酒造業、材木商、油屋、呉服商などであったとの説明板が設置されている。商いの規模も大きく、かなり裕福な町であったことが想像できる。
寺内町エリア全体が富田林市富田林町。文字通り、富田林中の富田林ということになる。
マップでは、ここから東高野街道をさらに進んでいるが、所用があるので、近鉄富田林駅から帰宅。駅舎も寺内町風の白壁黒塀になっている。
歩行軌跡。 わざわざ富田林までやって来たわりには、歩行距離は11km強に留まった。スタート直後の道間違いと、富田林の寺内町でのウロウロ歩きが無ければ、7kmの道程だったはずだ。