六甲山系スタンプウォーク(摩耶山)

 2022年6月27日


暑いうえにイマイチ体調は優れないけれど、今日あたり歩いておかないと更に体が鈍ってしまいそう。ということで、YAMASTAスタンプ獲得を目指して阪急王子公園から摩耶山を目指す。既に午後1時。一番熱い時間帯のせいか、ジョギングコースにも人の姿は無い。



王子公園の旧ハンター住宅で最初のスタンプをゲット。ハンター住宅は有料ゾーンだけれど、フェンスの外からでもスタンプポイント到達判定をしてくれた。中国への返却まで間もないはずだけれど、王子公園周辺は相変わらずパンダの絵で溢れかえっている。



地味な登りが続き、神戸高校までやってきた。神戸のロンドン塔とまで呼ばれているロマネスク調の校舎が恰好いいけれど、こんな坂を登って通学するのも大変そうだ。駅から30分ほど歩いてきたけれど、既に体中が汗で体中ビショビショだ。



神戸高校の裏手にある上野登山道の入口で早くも座り込む。こんな日にホントに登るのかぁ…。暑いといっても、この先さらに暑い日が続くことは間違いないし、無理のない範囲で行けるところまで行ってみることにしよう。



写真では紫陽花の花が咲く気持ちよさそうな小径だけれど、暑さと湿気にやられて、早くも歩く気は半ば失せている。しかも最近購入したガーミンのスマートウォッチにはラインとかで気になるメッセージがガンガン入ってくる。



路面には明らかに箒かなにかで掃いた跡がある。どなたかが登山道の手入れを行ってくれているのだろうか。午後だというのに足跡が少ない。まだ夏本番でもないと思うんだけれど、連日熱中症のニュースばかり。とにかくゆっくりと登っていこう。



最初の展望台に着いたときには早くもヘトヘト。ちょっとした坂道ですぐに息も心拍数もはあがる。やっぱりやめとこう、と展望台のベンチに座り込み、メールの返信など仕事モードに入るけれど、疲れているせいか、良い文章が浮かんでこない…。



しかし10分ほどベンチに座っていたら、ちょっと元気になったような気がして再び歩き始める。悪い癖で、疲れているくせに、これまで歩いたことがなかった急登のバリエーションルートを進んでしまう。



急登を登り切った展望台で再びダウン。今日は下山することに決めて、完全仕事モードで溜まっていたメールの処理などを進める。座りこんでいる分には、さほど暑くも感じられず、程よい風も吹いて、贅沢にテレワークができる。上野道は眺望も良いし、ベンチも多い。



気が付けばもう15時を過ぎていて、少し気温も下がったようだ。ここまで1時間歩いて、1時間座っていたことになる。せめて次のスタンプポイントの虹の駅までは行こうと、切り通しのようになっている道を再び歩き始める。イノシシと出会いたくはないところだ。



虹の駅に到着。最近、旧摩耶観光ホテル前の副駅名が加えられたけれど、駅からは木々に遮られてホテル廃墟はほとんど見えないし、駅からホテルに向かうゲートも通常は閉鎖されている。



虹の駅で2つ目のスタンプをゲットし、下山にロープウェイを使うことになってもいいから摩耶山までは頑張って登っていこうと神戸の町を見下ろしながら思い始める。気温のせいか歩きやすくなってきた。でもこの先には天上寺跡へのえげつない階段が待ち構えている。



天上寺が放火で焼失したのはもう50年近くも前のことになるけれど、旧参道には古い石塔や石碑など、かつては3000人以上の僧を擁していたと言われる巨刹の名残りが今も多く残っている。



天上寺で唯一焼け残ったと言われる仁王門。といっても、肝心の仁王像は新しい天上寺に移されている。車が通れる道もないので、片付けることも修復することもできないままに何十年もの月日が流れたのだろう。



いつものことながら、天上寺跡へと続く長い階段には心が折れそうになる。ここまでの坂道よりもずっとキツイはずなのに、16時も過ぎて涼しくなってきたせいか、これまでよりも楽に登っていける。



天上寺跡。今では歴史公園になっている。といっても、かつての天上寺の遺跡がそのまま放置されているだけ(説明板はあるけれど)のように思える。でも、このまま静かにしておくのが一番いいのだろう。



摩耶山頂に向かって最後の階段を登っていく。登山口から少し登ったばかりの五鬼城展望台ではもう下山しようとばかり思っていたけれど、よくまあ登ってこれたものだ。



摩耶山頂。天狗岩のある山頂には、標高698.6mの三角点がある。ややこしいことに、少し離れたところに別の山頂碑があって、そちらの標高は702mとなっている。



3つ目のスタンプポイントの摩耶山頂から数分も歩けば、4つ目のスタンプポイントの掬星台。ゆっくりしたいところだけれど、急いで最後のスタンプポイント、再建された新天上寺へと向かう。



YAMASTAの六甲山スタンプラリー(計6コース)では、どうしたことか摩耶山頂と掬星台は2つのコースでスタンプポイントになっているので、コンプリートのためには摩耶山には2度登らなければならないと思っていたのに、一度で2つずつスタンプがゲットできていた。



摩耶山天上寺。これまでアゴニー坂からしか入ったことがなく、初めて正面門から入ろうとしたのだけれど、既に時間が遅く閉門していた…。



さすがに歩いて下山する元気はなく、長い時間待って、天上寺前から六甲山上バスで帰路につく。



こんなに疲れたというのに、歩行距離は僅か5.2㎞、獲得標高は730m。一体どういう計算に基づいているのか判らないけれど、ガーミンの時計には「リカバリータイム4日」と表示している。4日は休息が必要だということだろうか。



6コース中、4コース目となる「摩耶山ハイク」コースを何とかコンプリート。しかし摩耶山(しかも登りだけ)でこんなに疲れてしまうなんて、先が思いやられる。



摩耶山にはもう一度登らなければならないと思っていたけれど、有難いことに六甲満喫③コースの摩耶山・掬星台の欄にもスタンプが記録されていた。しかも別のデザインだ。



草津宿~京三条大橋【東海道五十三次-27(完)】

 2022年6月18日


2019年8月に始めた東海道五十三次ウォークも27日め。いよいよ京都の三条大橋にゴールすべく瀬田を出発する。かうては旅人が闊歩していた東海道も今では生活道路。車の通行量も多く、歩行者に与えられているスペースは歩きにくい端っこだけだ。



東海道をはずれて御霊神社に立ち寄る。祭神は壬申の乱に敗れた弘文天皇。大津京を本拠としていただけに大津市内には弘文天皇を祀る神社が多いのだけれど、明治になるまで天皇に即位していないことになっていたせいか、今でも大友皇子と案内されていることが多い。



以前から気になっていた近江国庁跡にも寄り道。律令制確立とともに、各国に設置された国庁だけれど、未だにその位置も実態も判っていないところがほとんどだったという。近江国庁跡は最初に遺構が発見されて国庁の実態解明の先鞭をつけたところだ。



さらに近江国一宮、日本武尊をお祀りする建部大社にも参拝。新たに赴任した国司が最初に参拝するのが一宮だから、基本的に国庁と一宮は近いはずという自説どおりだ。例外も多いけど…。東海道歩きでは草薙神社や杖衝坂など日本武尊ゆかりの地を多く訪問したものだ。



寄り道ばかりしていたものだから、JR瀬田駅から1時間半も掛かってようやく瀬田の唐橋に到着。壬申の乱、源平、南北朝、戦国、各時代で多くの武将がこの橋を巡って幾多の争いを繰り広げた。京の東の最終防衛ラインのようなところだ。



瀬田の唐橋を渡り、しばらく進むと膳所の町に入る。他の城下町同様、防衛のためかお城周辺では街道は複雑に右左折を繰り返す。



ついでのことなので琵琶湖に突き出した膳所城跡も訪問。湖にかかる近江大橋が見える。「矢橋の渡しは近くとも、急がば回れ瀬田の唐橋」と謳われた草津市矢橋付近から膳所を繋いでいる。今では大概の人が、唐橋を回らず、近江大橋で琵琶湖を横断しているはずだ。



源義仲のお墓がある義仲寺。暴れん坊感の強い義仲だけれど、松尾芭蕉や芥川龍之介など、平家を相手に雄々しく立ち向かった生き様に心酔する人は多い。特に芭蕉は遺言どおり、義仲の墓(写真左)の奥に葬られている。義仲の墓の手前には巴御前の供養塔もある。



大津市内を貫く旧東海道の交差点に「此附近露皇太子遭難之地」と書かれた小さな石碑がある。ロシアを怖れて、皇太子を斬りつけた犯人の死刑を求めた政府に、司法が屈することなく判決を下し三権分立が名実ともに確立したという大津事件の現場だ。



いつの間にやら、街道がとても整備されている。かつては東海道最大の宿場町であり、さらに琵琶湖水運の港町、膳所の城下町、唐橋を防衛する軍事拠点、といくつもの大きな役割を担ってきた大津だけに、これくらい風格のある街並みに整備することに何の違和感もない。



寄り道ばかりしていたせいか、4時間ほど歩いてようやく大津・京都間の逢坂山に取りつく。
瀬田から20㎞ほどだと思っていたけど既に13㎞も歩いている。まだ10㎞はあるはずだ。早々にトンネルに入るJR東海道線を横目に坂を登っていく。



「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」の歌で知られる蝉丸を祀る蝉丸神社が逢坂山にある。門前のとび太くんは蝉丸バージョンだ。百人一首の絵札どおりの頭巾姿だ。坊主めくりにありがちな「蝉丸は坊主か?」には様々なルールがあるらしい。



JRはトンネルを進むが、京阪は地道に坂を登っていく。大津の市街地では路面電車だったのが、逢坂山では最大61‰という急勾配に挑む登山列車に変貌する。さらに京都市に入ると地下鉄になるのだ。ひとつの車両にこれほど多くの役割を課しているのも珍しい。



ついに逢坂の関に到着。草むらに埋もれるように石碑が建っているのが趣深い。百人一首では3つもの歌に登場する歌枕だけれど、関所としての役割には理解できないところが多い。ここを通らずとも、大津から京都に行くことはさほど難しくないと思えるのだ。



昼食は歩く前から決めていた。一度食べてみたかった逢坂山の「きんし丼」だ。野口雨情が日本一と絶賛したという鰻丼に厚焼き玉子を載っけたものだ。15時にもなっての昼食なので一気にかき込んでしまったけれど、鰻に加えて分厚い玉子で結構腹にもたれる…。



なまじ休憩をすると、それまで隠れていた足腰の疲れがドッと噴き出すうえに、満腹のため、逢坂山以降は下りだというのに歩くペースはガクンと落ちる。京都に入る6つ街道に設けられた地蔵堂。六地蔵のうち、2つは未だに訪問できていないことを思い出す。



山科に入る。名物の山科ナスの風船人形が各家に吊り下げられている道を西へ西へと進んで行くが、足取りはさらに重い。まだ5㎞以上あるのか…。



天智天皇の御陵がある御陵(みささぎ)駅の手前には、かつて京阪京津線が地下化する前の軌道跡が残されているというので、力を振り絞って寄り道する。枕木を再利用した静かな遊歩道ができあがっている。



かつての京・大津間の東海道は、琵琶湖水運を利用して運び込まれた物資の重要な運送路でもあったところ。ここを往来する荷車のために12㎞にもわたって花崗岩に轍を刻んだ車石が
敷設されていたという。公共工事ではなく、脇坂義堂という心学者が私費を投じたという。



草むらに隠れるように粟田口刑場跡の説明板がある。江戸の鈴ヶ森など、都市のはずれに刑場は設けられたようだ。目立つところで刑を執行することは一罰百戒の意味もあったのだろう。草むらを登ったところに供養塔があるようだけれど、おっかなくて行けない…。



蹴上の水路閣が見えてきた。長らく南禅寺方面を歩くこともしていないけれど、今日はもはや寄り道する余裕がない。三条通を西へ西へとひたすら進んでいく。



京阪三条駅前に到着。ゴールは目の前だ。最近では土下座像と呼ばれている高山彦九郎像がある。皇居に拝礼しているのだ。学生時代に力強い眼光を持つこの像が気になって以来、高山彦九郎は気になる人物だ。荒廃した江戸末期にはこの地から御所の塀が見通せたという。



ついに三条大橋。川床が並び、カップルが等間隔で川辺に座っている。長年変わらない光景だけれど、ここでは豊臣秀次、石田三成、石川五右衛門、近藤勇などなど、数々の歴史上人物が処刑され首を晒されたところでもある。



これまで何百回(あるいはそれ以上?)も渡った三条大橋だけれど、今日は特別な気分で三条大橋を渡る。橋の西側に立つ弥次喜多像にご挨拶を果たしてついにゴール。コロナ禍で長い中断があったりして3年近くも掛かった。



事前に調べたところでは20㎞くらいのはずだったのに、8時間歩いて確認すると25.7㎞。寄り道が多すぎたかなぁ…。東海道ウォークのべ27日間の累計の歩行距離は590㎞、所要時間(歩行時間ではなく、休憩や観光を含む)は202時間。江戸時代の旅人の半分くらいのペースだけれど大満足だ。



街道を歩いていて見えてくるのは今現在の風景ばかりではない。まるで重ね絵のように、長い長い月日のなかで幾万の人々が残した足跡が塗り重ねられたような、奥行きのある景色だ。街道歩きの魅力に取り憑かれたような気もするけれど、次のターゲットは難しい。中山道は魅力的だけれど遠征が大変だ。山陽道は情報が少ない。悩ましい…。