草津宿~京三条大橋【東海道五十三次-27(完)】

 2022年6月18日


2019年8月に始めた東海道五十三次ウォークも27日め。いよいよ京都の三条大橋にゴールすべく瀬田を出発する。かうては旅人が闊歩していた東海道も今では生活道路。車の通行量も多く、歩行者に与えられているスペースは歩きにくい端っこだけだ。



東海道をはずれて御霊神社に立ち寄る。祭神は壬申の乱に敗れた弘文天皇。大津京を本拠としていただけに大津市内には弘文天皇を祀る神社が多いのだけれど、明治になるまで天皇に即位していないことになっていたせいか、今でも大友皇子と案内されていることが多い。



以前から気になっていた近江国庁跡にも寄り道。律令制確立とともに、各国に設置された国庁だけれど、未だにその位置も実態も判っていないところがほとんどだったという。近江国庁跡は最初に遺構が発見されて国庁の実態解明の先鞭をつけたところだ。



さらに近江国一宮、日本武尊をお祀りする建部大社にも参拝。新たに赴任した国司が最初に参拝するのが一宮だから、基本的に国庁と一宮は近いはずという自説どおりだ。例外も多いけど…。東海道歩きでは草薙神社や杖衝坂など日本武尊ゆかりの地を多く訪問したものだ。



寄り道ばかりしていたものだから、JR瀬田駅から1時間半も掛かってようやく瀬田の唐橋に到着。壬申の乱、源平、南北朝、戦国、各時代で多くの武将がこの橋を巡って幾多の争いを繰り広げた。京の東の最終防衛ラインのようなところだ。



瀬田の唐橋を渡り、しばらく進むと膳所の町に入る。他の城下町同様、防衛のためかお城周辺では街道は複雑に右左折を繰り返す。



ついでのことなので琵琶湖に突き出した膳所城跡も訪問。湖にかかる近江大橋が見える。「矢橋の渡しは近くとも、急がば回れ瀬田の唐橋」と謳われた草津市矢橋付近から膳所を繋いでいる。今では大概の人が、唐橋を回らず、近江大橋で琵琶湖を横断しているはずだ。



源義仲のお墓がある義仲寺。暴れん坊感の強い義仲だけれど、松尾芭蕉や芥川龍之介など、平家を相手に雄々しく立ち向かった生き様に心酔する人は多い。特に芭蕉は遺言どおり、義仲の墓(写真左)の奥に葬られている。義仲の墓の手前には巴御前の供養塔もある。



大津市内を貫く旧東海道の交差点に「此附近露皇太子遭難之地」と書かれた小さな石碑がある。ロシアを怖れて、皇太子を斬りつけた犯人の死刑を求めた政府に、司法が屈することなく判決を下し三権分立が名実ともに確立したという大津事件の現場だ。



いつの間にやら、街道がとても整備されている。かつては東海道最大の宿場町であり、さらに琵琶湖水運の港町、膳所の城下町、唐橋を防衛する軍事拠点、といくつもの大きな役割を担ってきた大津だけに、これくらい風格のある街並みに整備することに何の違和感もない。



寄り道ばかりしていたせいか、4時間ほど歩いてようやく大津・京都間の逢坂山に取りつく。
瀬田から20㎞ほどだと思っていたけど既に13㎞も歩いている。まだ10㎞はあるはずだ。早々にトンネルに入るJR東海道線を横目に坂を登っていく。



「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」の歌で知られる蝉丸を祀る蝉丸神社が逢坂山にある。門前のとび太くんは蝉丸バージョンだ。百人一首の絵札どおりの頭巾姿だ。坊主めくりにありがちな「蝉丸は坊主か?」には様々なルールがあるらしい。



JRはトンネルを進むが、京阪は地道に坂を登っていく。大津の市街地では路面電車だったのが、逢坂山では最大61‰という急勾配に挑む登山列車に変貌する。さらに京都市に入ると地下鉄になるのだ。ひとつの車両にこれほど多くの役割を課しているのも珍しい。



ついに逢坂の関に到着。草むらに埋もれるように石碑が建っているのが趣深い。百人一首では3つもの歌に登場する歌枕だけれど、関所としての役割には理解できないところが多い。ここを通らずとも、大津から京都に行くことはさほど難しくないと思えるのだ。



昼食は歩く前から決めていた。一度食べてみたかった逢坂山の「きんし丼」だ。野口雨情が日本一と絶賛したという鰻丼に厚焼き玉子を載っけたものだ。15時にもなっての昼食なので一気にかき込んでしまったけれど、鰻に加えて分厚い玉子で結構腹にもたれる…。



なまじ休憩をすると、それまで隠れていた足腰の疲れがドッと噴き出すうえに、満腹のため、逢坂山以降は下りだというのに歩くペースはガクンと落ちる。京都に入る6つ街道に設けられた地蔵堂。六地蔵のうち、2つは未だに訪問できていないことを思い出す。



山科に入る。名物の山科ナスの風船人形が各家に吊り下げられている道を西へ西へと進んで行くが、足取りはさらに重い。まだ5㎞以上あるのか…。



天智天皇の御陵がある御陵(みささぎ)駅の手前には、かつて京阪京津線が地下化する前の軌道跡が残されているというので、力を振り絞って寄り道する。枕木を再利用した静かな遊歩道ができあがっている。



かつての京・大津間の東海道は、琵琶湖水運を利用して運び込まれた物資の重要な運送路でもあったところ。ここを往来する荷車のために12㎞にもわたって花崗岩に轍を刻んだ車石が
敷設されていたという。公共工事ではなく、脇坂義堂という心学者が私費を投じたという。



草むらに隠れるように粟田口刑場跡の説明板がある。江戸の鈴ヶ森など、都市のはずれに刑場は設けられたようだ。目立つところで刑を執行することは一罰百戒の意味もあったのだろう。草むらを登ったところに供養塔があるようだけれど、おっかなくて行けない…。



蹴上の水路閣が見えてきた。長らく南禅寺方面を歩くこともしていないけれど、今日はもはや寄り道する余裕がない。三条通を西へ西へとひたすら進んでいく。



京阪三条駅前に到着。ゴールは目の前だ。最近では土下座像と呼ばれている高山彦九郎像がある。皇居に拝礼しているのだ。学生時代に力強い眼光を持つこの像が気になって以来、高山彦九郎は気になる人物だ。荒廃した江戸末期にはこの地から御所の塀が見通せたという。



ついに三条大橋。川床が並び、カップルが等間隔で川辺に座っている。長年変わらない光景だけれど、ここでは豊臣秀次、石田三成、石川五右衛門、近藤勇などなど、数々の歴史上人物が処刑され首を晒されたところでもある。



これまで何百回(あるいはそれ以上?)も渡った三条大橋だけれど、今日は特別な気分で三条大橋を渡る。橋の西側に立つ弥次喜多像にご挨拶を果たしてついにゴール。コロナ禍で長い中断があったりして3年近くも掛かった。



事前に調べたところでは20㎞くらいのはずだったのに、8時間歩いて確認すると25.7㎞。寄り道が多すぎたかなぁ…。東海道ウォークのべ27日間の累計の歩行距離は590㎞、所要時間(歩行時間ではなく、休憩や観光を含む)は202時間。江戸時代の旅人の半分くらいのペースだけれど大満足だ。



街道を歩いていて見えてくるのは今現在の風景ばかりではない。まるで重ね絵のように、長い長い月日のなかで幾万の人々が残した足跡が塗り重ねられたような、奥行きのある景色だ。街道歩きの魅力に取り憑かれたような気もするけれど、次のターゲットは難しい。中山道は魅力的だけれど遠征が大変だ。山陽道は情報が少ない。悩ましい…。