水口宿~草津宿【東海道五十三次-26】

 2022年6月11日


東海道ウォーク26日め。梅雨前線の北上で午前中にも雨が降り出すとのことだけれど、早朝の三雲駅からスタートだ。東海道本線が関ヶ原経由になり、国の大動脈から外れてしまった南滋賀を貫く真っすぐな草津線に沿って、草津宿への正午到着を目指して歩き始める。



三雲駅前には、微妙大師万里小路藤房の墓所の碑が立つ。建武の新政に巣食う公家のなかで唯一高い良識を持ち、新政権の運営に腐心した人物だ。日本史上の三大忠臣にまで数えられる藤房だけれど、ついには後醍醐天皇に愛想をつかしてしまって出家・隠遁してしまった。



数年前に2度、三雲〜石部で毎年開催されているウォークラリーに参加したことがある。街道を飾り付け、地域の方が総出で町の名所史蹟を舞台にした壮大なイベントに感動したものだけれど、コロナ禍での中止が続いたせいか、花が植えられていなプランターが目立つ。



右の建物は東海道や三雲城を歩く人たちための休憩所だ。おそらくウォーカーのために設置された休憩所の数は東海道を通じて最も多い地域ではなかろうか。左のトンネルは天井川である大沙川の下を潜るトンネル。この先いくつかの天井川が待ち受けているはずだ。



天井川の仕組みは判っているつもりだし、自宅の傍にも大規模な天井川はあるのだけれど、実物に出会うとつい川にまで上りたくなってしまう。訪問のたびに登ってくるので3度めになるはずだ。



かつて2度参加した「みちくさコンパス」というウォークイベントの看板が未だ残っている。湖南町内に広く分布したラリーポイントをいくつ歩き回れるかで戴ける賞品が違ってくる。随分と歩いた記憶がある。各ポイントでのイベントや展示なども盛りだくさんだった。



しかし意外にも東海道の名残りが少ないことに気付く。一里塚跡にも「かつてここには…」という説明板があるだけだ。掲載されている参考写真は尾張笠寺の一里塚だ。市街化が進むなかで多くの史蹟が失われたようだ。それだけにイベントの意義も大きいのだろう。



それでも古い家屋も少なからず見られる。この酒蔵の日本酒を2年連続でウォークラリーの賞品のひとつとして戴いたことを思い出す。



湖南市は、甲西町と石部町が20年ほど前に合併してできた市。当時は「名探偵はいませんが、湖南です」というキャッチフレーズだったように記憶している。最近では動物との共生に力を入れ、「こにゃん市」なるものを設立して猫の市長や議員を選出したりしている。



飛び出し坊やの発祥の地であり、設置数もブッチギリで全国一と思われる滋賀県。ウォーク中にもユニークな飛び出し坊やを見つけるとテンションがあがるが、驚いたことに散髪屋のキャラクターにまでなっている。明らかに「とび太くん」をベースにしたデザインだ。



歩き始めて2時間。石部宿に到着。雲行きは怪しいけれど、まだ雨は降っていない。ここにも立派な休憩所が設置されているけれど、未だ9時過ぎのせいか開いていない。



かつて本陣があったところは、今では小さな石碑や説明板があるだけ。「明治天皇聖蹟」の碑があるけれど、これって土山や水口で見たのと同じものだ。碑の銘文を見ると甲賀郡教育会が一括発注して、東京行幸で立ち寄られたところに建てたようだ。



イベントの際には、餅や芋潰しという郷土食などを食べさせていただいた田楽茶屋。楽しみにしていたけれど開店前。たまに早朝から歩き始めると飲食店が開いておらず、空腹との闘いになりがちだ。



近江富士とも呼ばれる三上山が見えてきた。新幹線や名神高速から、さらには琵琶湖西岸からも端麗な山容が望める。俵藤太が山を七巻半もする大ムカデを退治したと伝わるところだ。麓から1時間くらいで登れたように記憶している。



栗東市に入ると立派なお屋敷が現れた。かつて和中散という薬を製造していた店「ぜさい屋」の跡で今では国指定史跡になっている。徳川家康の腹痛を治癒したとのことで大繁盛したそうだ。小堀遠州作の名庭園もあるらしいが、年に数度公開されるだけだと聞く。



足利九代将軍義尚が六角攻め際の本陣とした伝わる鈎の陣跡。意地で出陣したものの義尚は、戦では甲賀忍者に翻弄され続け、酒と女と和歌に明け暮れるうちに陣没してしまった。父義政との呑気な和歌のやり取りを記した石碑が興味深い。優れた文化人かもしれないが、戦時の幕府を率いる器とは思えない。



目川のひょうたんの店がある。江戸時代の旅には水筒は必需品なので、この辺りの農家が副業で制作したひょうたんが良く売れたようだ。でも時代劇で良く見るのは竹筒なんだよなぁ…。ひょうたんの方が格好良くも見えるけれど、竹筒の方が圧倒的に安そうだ。



老牛馬養生所跡の碑がある。この地の庄屋が老いた牛馬が残酷に屠殺されるのを憐み、ここに老牛馬が余生を送るための養生所を開設したという。湖南市の猫とか、栗東の競馬トレセンとか、この地域は古くから動物との共生に向き合ってきたところなのかもしれない。



目標より少し遅れたけれど、12時半頃に中山道と東海道が合流する草津宿に到着。正面のトンネル(かつて天井川だった草津川の下)が中山道、右が歩いてきた東海道。そして手前側が京に続く道だ。



右が草津宿本陣。東海道に残存する本陣のなかでも最大のもので、旧態をよく留めているという。こんなところは、大名や公家ででもなければ宿泊できないと思っていたけれど、新選組とかシーボルトとかも宿泊しているそうだ。



まだ雨は降っていないけれど、雨雲レーダーを見ると、降っていないのが不思議なほど、周囲には雨雲が散在している。どこまでアテにできるのかは不明だけれど、14時半頃から雨、ということなので、もう少し先に進むことにしよう。



浮世絵をもとにして制作された草津市のマンホール。随分と「水」が多い。琵琶湖までは未だ5㎞ほどは離れているはずだ。昔の湖岸は違ったのだろうか。あるいは天井川である草津川が氾濫してあちこちに小湖沼を形成していたのだろうか。



草津川も20年ほど前に大改修され、あらたな放水路が開削された。元の天井川は廃されて公園になっている。少しでも京都に近づいておこうと新しい草津川を渡っていると、いよいよ雨が降り始めた。



幸い小糠雨だったので、そのまま進んだけれど、14時過ぎ、少しずつ雨粒も大きくなってきて傘がないとちょっと恥ずかしい雨になってきた。ほぼ予報どおりだ。江戸から120番目となる一里塚跡の石碑で今日はお終いにしてJR瀬田駅へと向かう。



本日の歩行距離24.3km。全所要時間は7時間。いよいよ京の三条大橋まで20㎞くらいのところまでやってきた。たぶん間違いなくあと1日で上洛できるはずだ。