土山宿~水口宿【東海道五十三次-25】

 2022年6月8日


3年前に始めた東海道ウォークもついに前回鈴鹿越えを果たし、日帰り圏内に突入したつもりだったのに、あまり下調べもせずに向かった土山は意外にも遠かった。日中1時間に1本の電車を長らく待ち続け、さらに30分以上もバスに揺られてやってきた。



土山宿の南端の田村神社前からスタートしたのは既に13時半。いきなり旧街道の名残りを色濃く留める風情のある街並みが始まった。往時の宿場町を彷彿とさせるような、小粋な茶房や名物の櫛を扱うお店なども見られる。



江戸時代から変わらぬ幅5間(9m)の道は、他の道と異なり砕石を混ぜこんだ土色の舗装が施されている。白壁・瓦葺・格子窓が多く見られ、沿道の家屋には高さや色合いなどの基準が定められているうえに、かつては何の店があったかを示す木札が掲げられている。



2㎞以上も続いた土山宿の街並みは野洲川で途切れる。行き止まりの警告を承知で川辺までやってきた。かつてはここで野洲川を渡渉していたようだけれど、あまりにも草ボウボウ状態で川面さえ確認できない。



迂回道となる歌声橋から野洲川を見下ろす。現在の橋脚から察するに、増水時には結構な川幅になりそうだが、渇水時には歩いて渡渉できそうに見える。当時は軍事上の理由などで敢えて橋を架けなかった川が多いと聞くが、旅人の渡渉のイメージが未だによく判らない。



旧街道の周囲には土山茶として知られる茶畑が散在している。旧東海道の道中では牧之原台地などで広大な茶畑を見てきたせいか、この辺りの茶畑は比較的小規模に見えるが、室町時代から続く由緒ある茶どころだ。



土山からの褐色の土系舗装は水口と土山の中間地点、間の宿があった大野まで歩いてきてもなお続いている。シーボルトが朱鷺の剥製を買い求めたところらしい。中日新聞の販売店が見られるように、まだまだ名古屋と大阪・京都の中間地帯と言えそうだ。



わずかではあるけれど、松並木の名残りが見られる。逆光のため上手く写真が撮れない…。東海道を東から西に歩いているため、常に夕刻近くになると逆光に苦労させられる。



かつて鈴鹿峠における物資運送に勤しみながら口ずさんでいたと伝わる鈴鹿馬子唄。亀山以西では鈴鹿馬子唄に関連する施設や説明板を多数見かけたけれど、全国大会が毎年開催されているようだ。コロナで2年連続中止だっただけに、特に熱い意気込みが感じられる。



土山宿の東海道伝馬館にあった馬子の人形。「坂(坂下宿)は照る照る、鈴鹿は曇る、あいの(向こう側の)土山、雨が降る」と鈴鹿を境に天気が大きく変化することを嘆く歌詞だ。鈴鹿越えで鍛えられた馬子の歌らしく、相当な声量・肺活量がないと歌えそうにない。



水口宿の手前にある一里塚。近年植え替えられたもののようだけれど、榎がいい感じに育っている。横には小さなベンチも設置されていて、かつての旅人気分で腰を下ろして休憩させていただく。



いよいよ水口宿に入る。土山〜大野のような特別舗装は施されていないけれど、道幅といい、沿道の民家の佇まいといい、旧街道宿場町の雰囲気は十分に感じ取れる。



滋賀県名物とも呼ばれる赤シャツ・黄色ズボンの「とび太くん」(左上写真)。これでもかというほどに設置されているのは県内他地域と同じなんだけれど、この辺りでは地域ごとにオリジナル人形が採用されている。大野では茶娘、水口では忍者だ。



土山から水口にかけて、公共施設などのトイレを東海道ウォーカーに多く開放しているようで、統一された表示もある。道中では、子供たちからご老人まで、挨拶をしてくれる人が多多い。とても気持ちのいいものだ。旅人をもてなす心遣いが今も受け継がれてるようだ。



毎年4月に開催される曳山祭りを組み込んだからくり時計が街道沿いに設置されている。曳山はずっと回転していて、さらに定期的に東海道と書かれた窓が開き、笛や太鼓を奏でる人形が登場するようだ。他にもかつての宿を舞台にしたからくり時計もあるらしい。



街中を走るのは近江鉄道。維新後、水口城を解体したときの石材などが線路敷設に使われたと聞くけれど、最近では経営は苦しいとも聞く。しばらく前に乗車した際は硬い紙切符を使い続けていることに驚いたものだ。いずれ多賀大社や豊郷をゆっくりと訪問したいと思う。



中村一氏、増田長盛、長束正家。山城だった頃に水口城を任された3人の秀吉の股肱の臣、そして関ヶ原後に非業の死を遂げた長束の正妻栄子姫が顔出しパネルになっている。大福帳を持つ長束はいいけれど、軍事に長けた中村が平服で、外交に強い増田が鎧兜姿なのは少し違和感がある。



関ヶ原直後に廃城となった山城の水口城(水口岡山城)の後、家光が上京する際に使用する御殿として平城の水口城が建てられている。その後水口に封じられた大名は、水口城は幕府から預かりものと考え、本丸御殿を使用することもなかったという。実に特殊な城だ。



水口城の傍に、甲賀市役所がある。「こうが」ではなく「こうか」だ。水口、土山、信楽、甲南、甲賀という、それぞれ古い歴史を有した5町が平成の大合併で一緒になって生まれたのが甲賀市だ。



既に日は暮れかけているが、水口宿からもう少し、JR草津線の駅がある三雲まで歩いていくことにする。今日もまた西日に悩まされながらの街道歩きになってしまった。もっと早い時間に歩き始めればいいだけのことなんだけど…。



黄金色に染まった草原のようなものの正体は小麦畑。まさに麦秋。収穫間近だと思われるけれど麦の穂は稲穂のようにあまり垂れることがないようだ。滋賀県は米どころとしても知られるけれど、近年は小麦の生産も増えて全国6位だそうだ。



三雲の手前で再び野洲川に突き当たる。幕府直轄の舟渡し場がここにあったそうだ。説明板によると水の少ない冬季には、水中に土を盛った土橋を渡らせたそうだ。



冬季以外は、4艘の舟で行き交う旅人を東へ西へと渡していたそうだ。確かに今の水量では土橋を作ることは難しそうだ。



猿飛佐助の出身地と伝わる三雲城の麓にあるJR三雲駅で今日の街道歩きは終了。なんとかあと2日で京の三条大橋まで行けなくもないところまでやってくることができた。



ガイドブックに従って旧街道を歩いてきたけれど、意外なほどに真っすぐな歩行軌跡が残された。歩行距離は21㎞、所要時間は6時間20分。