飯盛山(大東市)

 2024年1月23日


三好長慶武者行列のチラシに「大東は首都だった」との衝撃的なキャッチが目に飛び込んできた。戦国時代最初の天下人として、三好長慶への注目度が近年高まっているとはいえ、長慶の本拠飯盛山城がある大東市は更に超強気のようだ。久しぶりに飯盛山に登ってみよう。



失礼ながら大東市は、存在感の強い市ではない。大阪の東という市名も没個性的だし、大東という駅もない。思い付くのは野崎観音くらい…。そんな大東市が最近猛プッシュしている三好長慶は、信長上洛の10年ほど前、畿内・西四国を制覇し幕政を牛耳っていた人物だ。



GWには野崎まいりの催しで露店がビッシリと立ち並ぶJR野崎駅から野崎観音(慈眼寺)へと向かう参道だけれど、それ以外の時期はごく普通の駅前商店街にしか見えない。道のアチコチには「天下人三好長慶」の幟がはためいている。



野崎観音へと向かう長い階段。登り口に「左側通行」とある。通行帯を指定しているのは、極めて混雑する社寺だけだと思っている。年に数日はとんでもない人が押し寄せるのだろうけれど、今は人の姿もチラホラとしか見えない閑散状態だ。



野崎観音慈眼寺。浄瑠璃や落語、さらには歌謡曲などを通じて広く知られる曹洞宗古刹だが、意外にこじんまりとした本堂だ。古くから大阪の庶民が多く参拝する人気のお寺だったという。



生駒山地の高台に位置するだけに、東方向の大阪市内はもちろん、南や北への眺望も広がる。写真奥左側が生駒山。ここが生駒山系の前衛であることが判る。江戸時代の庶民が多く訪れたのも、この眺望を楽しみたかったからではないだろうか。



野崎観音の本堂脇から、飯盛山への登山道が始まる。整備された登山道を少し登ると野崎城址がある。楠木正行が奮戦した四條畷の戦いでは、真下に走る東高野街道を北上する南朝軍に対して、高師直など北朝方主力は野崎に陣を構えていたらしい。



飯盛山城への登山路は、道も標識もほどよく整備され、ところどころ展望所や休憩所もある。平日ではあるけれどハイカーの姿もチラホラと見かけることができる。その一方で、放置されたままの廃墟(廃寺?)など、ちょっと残念なところもある。



以前も歩いたことがあるはずなんだけど、こんな寂しい道だったかなぁ…と思いながら登っていく。どっちに行っても同じだ、と思って適当に選択した分岐で間違ったかあぁ…。こんな道なのに、大東市は飯盛山城が国史跡に指定された祝賀の幟を立てまくっている。



どうもメイン登山道の七曲りルートではなさそうで、ところどころ荒れたところや倒木なども見られるけれど、難路という訳でもない。YAMAPの赤線に乗っているので、問題はなかろう。ホントにYAMAPを初めて登山のスタイルが大きく変わった。



どうやら歩いてきた道は竹林コースというところだった。「この道は悪路!、初めての人は七曲りコースへ」と書かれているけれど、まずまずの快適道だった。でも、もし登り口で悪路との標識を見ていたらこの道を進まなかっただろう。現地の標識は軽視すべきではない。



飯盛山山頂が近づいてくると古い石垣の址が見える。元は高槻の芥川山城を本拠としていた長慶が、滅ぼした敵対勢力の拠点だった飯盛山城に引っ越したのだけれど、確かに飯盛山の方が高く難攻に思えるし、長慶の政治経済の本拠地堺に近く、諸国に睨みも効きそうだ。



これは堀切の跡。山肌を溝状に掘って、敵軍の侵入を防ぐ仕掛けだ。この種の遺跡を見る度に周囲の草木を刈り取ってしまえば、もっと往時の雰囲気が判るのに、と思うのだけれど、自然を破壊することも躊躇われる。折り合いが難しいところだ。



主郭の周囲を全て開削するのではなく、通行のため最小限の部分は残されている。土橋というものだ。守備兵力をここに集結させることができる。長い年月を経て随分と崩れた土をあらためて掘り返せば、堀切の防衛力がピンと来ると思うんだけど、これもムリ筋かなぁ…。



飯盛山山頂(314m)。南北700mにも及んだという飯盛山城の主郭があったところだ。ここに立つ銅像が三好長慶!ではなくて、楠木正行…。楠木正行はこの山の麓で奮戦したとはいえ、この山に籠ったことはないはずだ。



楠木正行像と並んで山頂でひと際目を引くのは、廃墟のようになった昭和14年建立の国旗掲揚台。「国威掲揚」「四條畷警察署管下警防団 結団記念建之」とある。戦時の空恐ろしさを感じさせる後世のためにも貴重な史蹟だと思う。大切に残してもらいたいものだ。



飯盛山山頂展望台からの眺望。ちょっと曇っているのが残念だけれど、大阪市内の高層ビル群まではっきりと視認できる。



以前発見して失笑してしまった飯盛山300回登頂記念碑。300回くらいで石碑を立てること、更には碑文に飯盛山300回だからエベレストを超えたといったことが書かれている。しかし良く見ると大正7年のこと。現在の物差しで当時の登山を測ることはできない。



四條畷神社に向けて下山していく。この木製階段が急で、長く続く。これが嫌で今日は野崎から登ったのだけれど、京都方面がこの急斜面で守られていることが、飯盛山城の大きな強みであったことは間違いない。



ひどく寒い日だったけれど、四條畷神社の梅林では、黄梅の蕾が膨らみ始めていた。でもまだしばらくは寒い日が続くはずだ。



楠木正行を祀る四條畷神社。神様や皇族以外で、国家のために多大な功績があった人物を祭神とすると国が認めた別格官幣社のひとつだ。正成が祀られる湊川神社と同様、菊水紋だと思っていたけれど拝殿幕は菊紋だ。が、御母堂を祀る摂社には菊水紋…。よく判らない…。



境内には、楠木正成が決死の覚悟で湊川の戦いに赴く際に、幼い正行と別離の対面している座像がある。有名な「桜井の別れ」のシーンだ。これと全く同じ像が、JR島本駅前の公園にもある。どちらが先なのか、同時建立なのか、これも長年気になっている。




四條畷市に入ると、大東市内では膨大とも思えるほどに林立していた三好長慶の幟も見られず、代わりに楠木父子ばかりが目立つ。NHK大河にも大東は長慶、四條畷は楠木をプッシュしているらしいけれど、お隣どおし、もう少し共同戦線を張れないものだろうか。



JR四条畷駅から帰宅。なぜかこの駅は大東市にある。駅名も四「條」畷ではなく、四「条」畷だ。色々と複雑な経緯があるのだろうけれど、よそ者には両市の関係は難解だ。



歩行距離5.3㎞、獲得標高370m。所要時間は3時間。疲れを翌日に持ち越すことがない、これくらいの軽登山を頻度高くする方が、きっと健康的なのだろうとは思うけれど、物足りなくも感じる。