由比宿~府中宿【東海道五十三次 -10】

2019年12月29日(日)


由比で一泊し、今日は府中(静岡)を目指す。出発前に由比漁港を散策する。桜エビの漁獲量では日本一を誇る。



由比から歩き始めて、しばらくすると急な上り坂に差し掛かる。薩埵(さった)峠への上り坂だ。「さった」が「去った」に通じることから、和宮降嫁の際は東海道を避けて中山道で江戸に下ったというけど、ホントだろうか。



薩埵山が海岸ギリギリまで迫っている。山裾を削って僅かに造成した海岸沿いの平地には、国道1号線とJR東海道線、それに名神高速道路が走り、全く隙間もないような状態だ。



薩埵峠の上から見える富士山がまた格別らしいが、雲のせいで姿が見えない。



沖合には小さな漁船が、空飛ぶ鳥のように規則正しい隊列を組んで進んでいる。桜エビを取る漁船団だろうか。年が明けると休漁になると聞く。



今川は対武田軍の防衛線をここに敷いたという。今川軍はかなり善戦したと聞くが、ついに撤退を余儀なくされると、一気に駿府も陥落させられたという。薩埵峠からの道を下っていくが、ここを越せば静岡までの間には、大した難所のない平坦な道が続く。



薩埵峠を下ったところに興津宿がある。本陣近くに興津宿公園がある。本陣跡か何かだと思ったが、どうやら元興津町の役場があったところらしい。今では静岡県清水区に組み込まれている。



興津宿公園に「東海道歴史の道スタンプポイント」と書かれた小さな小屋がある。五十三次歩きのついでやってみようかと思ったが、スタンプは劣化がひどく、スタンプ台のインクも枯れていた。一体何年放ったらかしにしているのだろう。



興津の西はずれにある清見寺。人質時代の家康の教育係が清見寺の住職だった関係で、その後も再三訪問していたらしい。うまく撮れなかったけど、寺に通じる階段と山門の間にはJRが走っている。おそらく鉄道敷設の際に寺域の一部を割譲したのだろう。



西園寺公望の別荘だった「坐漁荘」。おそらく太公望のエピソードに由来する命名だ。引退後西園寺はおもに興津に住んでいたそうだけど、元老、キングメーカーとして政界に強い影響力を有し続けたという。



興津宿から次の江尻宿までは一里二丁、約5kmと比較的短い距離のうえ、平坦な道が続く。わずかだが、旧東海道松並木の松(やや細い松だけど、そのように説明板が張り付けられている)が残されている。



ふと振り返ると、薩埵峠の向こうに富士山が白い頭を覗かせていた。薩埵峠では曇っていたけど、ここにきて、すっかり晴天となっている。



細井の松原。今は松が一本あるだけだ。かつての松は戦時中に松根湯採取のためにすべて伐採されてしまったんだそうだ。石油不足に喘ぐ日本軍苦肉の策とはいえ、松200本で航空機1時間分の燃料にしかならなかったとは、なんとも効率が悪すぎる…。




江尻宿に到着。今のJR清水駅の西口にあたる。駅前には久能山東照宮案内里程標塔がある。久能山東照宮って、一度行ってみたかったんだけど、どうやらここが玄関口になっているらしい。



久能山東照宮以外にも、三保の松原、清水湊、次郎長、エスパルスなどなど、気になるものが多いところだけど、今や清水を代表するのは、清水市在住と設定されている「ちびまる子ちゃん」ではなかろうか。有名なマンホールを撮影するため駅前をウロウロ探す。




江尻城跡。馬場信春が縄張り、山県昌景、穴山信君が城代を務めるなど、武田軍の錚々たる重臣がこの城に関わっていることからも、最重要拠点のひとつだったことが判る。しかし今は小学校の横に小さな説明板があるだけで、往時の面影は感じ取れない。



巴川の稚児橋。家康の命令で建設されたこの橋の渡り初めをしようとしたその時、川の中からカッパが現れたということから、橋のアチコチにカッパ像が見られる。実は、この巴川こそが、ちびまる子ちゃんに登場する川田さんが愛し守っている川なのだ。



遠州都田の吉兵衛の供養塔がある。清水次郎長と敵対関係にあり、森の石松を殺したことで知られる都鳥一家の親分だ。次郎長一家をぶっ潰そうと、本拠地の浜松から押し寄せたところを返り討ちにあった。次郎長の本拠地に、敵の供養塔があるのは興味深い。



大きな鳥居が現れた。草薙神社のものだ。目的地の府中(静岡)まであと7~8kmほど。覚悟していたほどに疲労度も低く、時間もある。ヤマトタケルの東征の際に、駿河国で火攻めにあい、草薙の剣で難を逃れたという火難伝説ゆかりの地を寄り道してみよう。



大鳥居から1km強を歩き、草薙神社にやってきた。日本武尊(ヤマトタケル)の石像が建っている。この地で火攻めにあったと思っていたのだけど、イメージしていた野原ではなく、どちらかといえば山のなか。神話時代のことなので確かなことは判らない…。



絵馬の図柄は野を焼かれ火攻めにあうヤマトタケルが草薙剣を振りかざして草を薙ぎ、延焼の方向を変えようとしているところ。いろいろと説明板も読んだけど、これが一番わかりやすい。



東静岡駅の手前に旧東海道記念碑がある。操車場や区画整理で旧東海道が無くなってしまったことを惜しみ、このような記念碑が建てられたらしい。



おそらくは、旧東海道の大半はJRの敷地に吸収されてしまったのだろう。路上の案内標識に従って歩いていくと、10本ほどの線路が並ぶJRの操車場の下をくぐるトンネルに導かれる。



静岡電鉄清水線に沿って静岡市の中心部に進んでいく。静電の車両にはちびまる子ちゃんのラッピングが施されている。



府中宿に到着。現在の静岡駅と駿府城の中間あたりが府中宿の中心だったようだ。本陣の近くには、西郷隆盛・山岡鉄舟の会見した場所を示す石碑と2人のイラストパネルがある。勝海舟からの書簡を携えた山岡鉄舟が、江戸開城の下交渉を行ったところだ。



3日連続ウォーキングの最終日だったけど、予想以上の体力を残し静岡駅に到着。草薙神社などへの寄り道もあって、距離も予定を上回る30kmのウォーキングとなった。



吉原宿~由比宿【東海道五十三次 -9】

2019年12月28日(土)


吉原駅で一泊した後、今日の目的地、由比宿に向かって歩き出す。昨日訪問した妙法寺が、かつて山伏たちが富士山登山前に海で禊をしたところと知ったが、その故事に由来するのか、「富士山へ、標高0からの挑戦」の道標プレートが路面に貼られている。



実は昨夜宿泊した吉原駅近辺(元吉原)は古い吉原宿。1639年に町を津波が襲い、その後3km近く離れた内陸部(中吉原)に移転された。まずは中吉原に向かって歩いていく。残念ながら曇っていて今日は富士山は楽しめそうにない。



名勝東海道左富士。わずかな区間、街道が北北東に向くところがあり、京に向かっているのに富士山が左に見えるところがあるという。現在の新幹線でも同じことが起こる。あり得ないと思った方向に富士山が見えたときの驚きはよく理解できる。



平家越の碑がある。ここが東国で挙兵した源氏軍と、それを殲滅するためにやってきた平家軍とが衝突した富士川の合戦の現場だ。平家軍は水鳥が急に飛び立ったのを源氏軍の奇襲だと驚いて、戦わずして逃げ出したと伝わる。



今の富士川は7kmも西を流れている。東海地方の川は暴れ川が多く、洪水を起こしては流域を変えていったと聞くが、7kmも川が移動するとは恐ろしいことだ。



岳南電車の吉原本町駅。富士市内を走るローカル私鉄の小さな駅だが、ここが中吉原の中心となる。



中吉原のメイン通りには、江戸時代初期に創業したというの古い旅館も残っている。清水次郎長が定宿にしていたところだそうだ。



宿場が移転したことも影響しているのかもしれないが、道がまっすぐになっておらず判りにくい。何度もうっかり分岐点の標識を見落とし、誤った方向に進んでしまう。



富士川の東岸に渡船場跡がある。急流すぎたり、川が深すぎると人足では渡河は難しかったのだろうか。渡船場跡の石碑の奥には水神社が鎮座している。



今では立派な鉄橋があり、歩いて富士川を渡ることができる。



富士川。川幅はかなり広い。川の向こうが富士山のはずだけど、裾野以外は雲に覆われてしまっている。



川を越えると間宿(あいのしゅく)岩淵。川越や峠越の手前の休憩場所として東海道にはいくつもの間宿がある。黒板の長い塀が続く「常盤家住宅主屋」に「西條少将小休」の札が掛かっている。調べてみると伊予西條藩の藩主が休憩したときのものらしい。小休(こやすみ)本陣と呼ぶそうだ。



岩淵の一里塚。比較的狭い道幅に、左右双方の一里塚が対面している。一対の一里塚を一枚に収めることができたのは初めてだ。



小さな和菓子屋さんで岩淵名物「栗の粉餅」をひとつ購入。茹でた栗の実を潰した粉を餅にまぶしたものだ。旨かった。もう一つ買えば良かった…。



国道は平坦な富士川沿いを走っているのに、旧東海道は山道を進む。富士川沿いの平地は洪水に晒されることが多かったのだろう。



山中を走る名神高速を陸橋で越える。新幹線は少し北側をトンネルでぶち抜いている。



名神高速を南に越えると、蒲原に向けて一気の下り坂となる。坂の上から駿河湾を望むことができる。



現地の案内板に導かれて北条新三郎氏信の墓に寄り道。桶狭間で今川義元が戦死すると、それまでの甲相駿三国同盟を破棄して武田信玄が今川領になだれ込んだ。その際、同盟を順守して蒲原城を守った北条氏信がこの地で討死したという。信玄が三国同盟を維持していれば、その後織田・豊臣に個別撃破されることもなかったのではないだろうか。



蒲原宿に入る。東木戸の跡だ。広重の浮世絵では夜の雪景色が描かれている。ほぼモノトーンという五十三次中でも異色の作品として有名。でも蒲原というところは温暖で滅多に雪など降らないとも聞く。



旧街道にはうろこ壁や格子窓の旧家が残る。三島宿以降、沼津宿、原宿、吉原宿と旧街道の面影が薄いところが続いたけれど、蒲原宿には往時の宿場の雰囲気が残されている。



漁港も近く、鮮魚店が多い。名物の桜エビやシラスとともに、しばしば見かけるのが「イルカスマシ」という謎めいたもの。茹でたイルカの背びれを薄切りにし塩漬けにしたものだという。一切れ食べてみたかったけど、大袋しかなく購入を断念する。



蒲原宿から次の由比宿まではわずが一里。1時間ほども歩くと、由比本陣公園に到着。長い木塀に囲まれた公園のなかに東海道広重美術館がある。



本陣公園の向かいに「正雪紺屋」という染物屋がある。なんと諸国浪人の力を結集し幕府転覆を図った慶安の変の首謀者、由井(由比)正雪の生家だという。悪役扱いされることが多い正雪だけど、相次ぐ大名改易など武断政治の犠牲者(浪人)たちの希望の星だったともいえる。



由比川。山が海岸線ギリギリにまで張り出している。向こうに見えるのが旧東海道の名所であり難所のひとつ薩埵峠だ。今日は桜海老料理を食べさせてくれる由比の民宿に一泊する。



本日の歩行軌跡。約21km。現状の体力レベルではこの程度が丁度いい距離だ。30kmになると次の日は歩く気が起こらなくなる。