金谷宿~掛川宿【東海道五十三次-13】

2020年2月9日(日)


今日は金谷宿からスタート。JR金谷駅東の高架をくぐって、案内板に従って旧東海道の石畳に向かう。



石畳は比較的新しいものだ。調べてみると、平成3年に町民ひとり一石運動を展開しこの石畳の道が復元されたそうだ。滑りやすい川石ではなく、ザラザラした山石を使っているというが、もう少し隙間なく石を敷き詰めてもらえれば更に良かったのに…。



金谷坂を過ぎると、そこは茶畑が広がる牧之原台地。茶葉を傷つけることがないよう、茶畑の畝の幅に合わせて足を拡げて移動する、見慣れない農耕器具が見られる。



東海道のすぐ傍に諏訪原城跡がある。武田氏が徳川領(遠江)に圧力をかけるために築城したものだ。特に入り口もなく入場自由のようだけど立派なパンフレットがおかれている。石碑も立派なものだ。



大した城でもあるまいと思っていたが、城の出入口には、武田のお家芸「三日月堀」と「丸馬出し」がおそらく当時のままにいくつも残されている。水の少ない牧之原だけに、三日月堀は空堀だったと思うのだけど、敵の侵入を食い止めるだけの深いものだ。



茶畑の向こうの山に「茶」の文字が見える。茶の字のところ以外の樹木を伐採して作ったようだ。たった一文字で牧之原をアピールしている。



再び石畳が現れた。菊川坂だ。江戸時代後期の石畳が残っているが、破損がひどく、最近になって大修復をしたそうだ。



菊川坂を上りきると、菊川の集落が眼下に広がる。金谷宿と日坂宿の中間にある小さな間宿だ。東海道有数の難所と言われる「小夜の中山」の上り坂の前に、ひと息入れる休憩ポイントだったのだろう。



承久の変で捕らえられ、鎌倉への護送中に菊川で宿泊した藤原宗行の歌碑がある。その隣に約100年後、正中の変で捕縛された日野資基の歌碑がある。朝廷復権の夢破れ鎌倉で処刑された宗行に自分を重ね合わせたであろう資基の気持ちを考えると胸が詰まる。



小夜の中山の急坂を登っていくと久延寺がある。当時掛川城主の山内一豊が、会津征伐に赴く家康を接待したところとして知られる。清州の福島正則、岡崎の田中吉政、浜松の堀尾吉晴、駿府の中村一氏、そして掛川の山内一豊…、家康の抑えのため東海に並べた子飼いの武将は皆家康に尻尾を振る始末になった。秀吉はあの世でどう思っていただろう。



坂を登りきったところが中山峠。尾根道の左右には相変わらず茶畑が広がっている。



中山峠から日坂宿に掛けての道沿いには、句碑や歌碑が多く建てられている。芭蕉も「馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり」と詠んでいる。



安藤広重が小夜の中山を描いた浮世絵。とんでもない急坂が描かれているが、さほど厳しいものには感じられなかった。まあ、当時の旅人と比べれば、一日の歩行距離も歩行速度も半分くらいのチンタラしたウォーキングだから坂によるダメージも違ってくる。



中山峠からの下り坂はこんな感じ。確かに厳しい坂だけど、足が笑うような下り坂ではない。当時から道も舗装されたり石段が施されたりして歩きやすくもなっているのだろう。



日坂宿に到着。日坂は「にっさか」、重箱読みだ。小さな町だけど、元宿場町の雰囲気を色濃く残している。街並みも当時とあまり変わっていないように思える。



旅籠の保存状態もよく、無料で内部見学をさせていただけるところも複数ある。ここは萬屋。庶民の旅籠だったという。入り口には足を洗うための縁台がある。



こちらは川坂屋。公家や上級武士の泊まる宿だったそうだ。ここに宿泊した山岡鉄舟や西郷従道などの書も残っている。籠などで旅するため足が汚れないため、足を洗う縁台は無いという。



高札場も当時のままのようだ。ここまで旧東海道の約半数の宿場町を訪ねてきたが、これまでのなかでは日坂宿が群を抜いて江戸時代の旅人の気分になれる宿場町だ。



日坂宿の次は掛川宿。金谷から日坂まで、旧街道らしい道が多かったのに対して、日坂から掛川の間は特に見どころもない退屈な舗装道が続く。



掛川宿に入ると旧街道は右左折を繰り返す。七曲がりと呼ばれるものだ。城下町だけに敵が真っ直ぐに攻めてこないように工夫されているようだ。あまり遠回りを強いられると攻め方の士気も下がってくるような気がする。



「塩の道」の石碑がある。地産地消の時代でも塩ばかりは話が別で、掛川は遠州灘の塩を伊那や諏訪方面に送り出すルートになっていたという。塩の道はさらに日本海まで通じていたという。東海道のような官道とは異なり、庶民が必要に駆られて作り上げた道だ。



掛川城の近くは風致地区になっているのだろう。高層の建物はなく、銀行も商店もオフィスも和風の切妻屋根になっている。



掛川城にやってきた。今川配下の朝比奈氏が築城し、山内一豊が大拡張をしたものだが、幕末の地震で天守閣は倒壊したそうだ。今の天守閣は平成に入っての日本初の木造再建天守だ。堀や塀と天守閣とのバランスもよく、美しいシルエットだ。



もっとも近づいて観察すると、石垣はいかにも近代的な工法が採用されていて、同じ大きさに加工された石が積まれている。



JR掛川駅から帰路につく。駅舎もまた和風の切妻屋根だ。駅前にはあまり見られない二宮金次郎像が立っている。



難所と思われた小夜の中山でもさほどのダメージを受けず、次の見付宿(磐田)まで行こうと思っていたのだけど、掛川城の天守や御殿はなかなか面白く、思わぬ時間を掛けてしまった。総歩行距離は18kmくらい。