2020年2月7日(金)
東海道五十三次ウォークも11日目。今日は静岡(府中宿)からスタートする。他の城下と同様、駿府城防衛のためなのか、町を通り抜ける東海道はジグザグ状になっている。
もっとも、有難いことに、東海道の方向を示す路面標示が充実していて、迷うことは無い。旧街道に沿って各地で見られる東海道を示す標識類の多さは、それだけこの旧街道を楽しんでいる人が多いことの証でもあろう。
安部川の東岸近くに「由井正雪公之墓址」と刻まれた石碑がある。倒幕計画が露見し府中宿で自刃した後、首は安部川の河原に晒されたそうだ。しかし「公」と敬称が付けられているところを見ると、単なる犯罪ではなく、困窮する浪人を助ける義挙との見方もあるのだろう。
安倍川東畔にある老舗の安倍川餅店。文化元年創業というから、ちょうど十返舎一九が東海道中膝栗毛を世に出した時代だ。まだ午前中の早い時間だけど営業中。歩きだして間もない詩、空腹感は全くないが、ここで食べないという選択肢はない。
江戸時代の旅人の気分になって、緋毛氈を敷いた床几台で安倍川餅をいただく。餡子と黄粉がセットになっている。山ワサビと醤油で茹でた餅を食う「からみ餅」も追加注文しかけたけど自重する。
安部川を渡る。大河川には珍しくダムの無い川なんだそうだ。手越河原の戦いで、劣勢の新田軍が足利軍に勝利したところだ。歩きはじめる前には手越河原古戦場跡を訪れるつもりだったのに、つい忘れてしまった。悔やまれる。
安部川を渡ると間もなく丸子宿(鞠子宿とも書く)に入る。府中宿から一里十六丁、岡部宿までは二里。少々半端な場所ともいえる丸子は東海道中で最小の宿場町だったそうだが、宿場まつりが催されるなど、元宿場町であることに町は誇りを持っているようだ。
かつては日本の基幹道路だった東海道も今は国道208号線の裏道扱いのようになっている。もっとも、あまり車も通らないのはウォーカーには好都合だ。丸子宿の本陣跡の石碑が立っている。
各お宅には表札とは別に、屋号のようなものを書いた大きな木札が貼り付けられている。どうやら今のお宅の屋号ではなく、かつて宿場町だった頃に同じ場所にあった旅籠やらお店の屋号を掲示しているようだ。
丸子に限ったことではないが、静岡県に入ってから柑橘系の果物の無人販売をよく見かける。大規模なものだけでなく、アチコチに小規模のミカン畑があるのだろう。
やってきました。楽しみにしていた丸子宿の丁子屋。なんと創業は関ケ原の戦いより前のこと。歌川広重の五十三次浮世絵でも描かれ、松尾芭蕉が「梅若葉 丁子の宿の とろろ汁」の句を詠んでいる。ここは絶対に外せないので、からみ餅を我慢したのだ。
400年以上の歴史を持つ名物のとろろ汁をいただく。おひつの麦飯に、丼にたっぷりのとろろ汁。美味い。ボリュームもたっぷりだ。味噌汁や香の物がついて税抜き1400円。ちょっと贅沢な昼食になったけど、満足感は高い。
安部川の沖積平野である静岡平野と、大井川を中心に広がる志太平野との間に連なる山地を越える宇津ノ谷峠にやってきた。峠の手前にある道の駅で峠越えに備えて小休憩を取る。
宇津ノ谷峠は道路の変遷の歴史を体感できる実に興味深いところだ。平安~戦国時代の葛の細道から、近年のトンネルまで、6本もの道が残る。現在の主役は昭和のトンネル(写真奥)と国道4車線化のために建設された平成のトンネル(写真手前)だ。
現在の道は写真を撮るだけに留め、峠の坂を上っていく。宇津ノ谷の集落。かつては間宿だったそうだ。道も家々も旧街道の趣を色濃く残している。
宇津ノ谷の集落から、さらに登って明治のトンネルをまず訪ねる。地元の有志が掘削した長さ203mのトンネル。日本初の有料トンネルだったらしい。宇津ノ谷峠の一番の難所をバイパスしている。これでは狭すぎるということで、大正のトンネルがほぼ同じ標高のところに増設されている。
明治のトンネルの入り口に宇津ノ谷峠のジオラマがある。H、S、T、Mがそれぞれ平成、昭和、大正、明治のトンネル静岡側入口を示す。平成・昭和のトンネルは明治・大正のトンネルの4倍ほどの長さになっている。旧東海道には当然トンネルなどなく、TとMの間の細い峠道を登っていく。
一旦宇津ノ谷の集落近くまで戻り、改めて旧東海道で宇津ノ谷峠を越えていくことにする。
遷都の際に明治天皇がこの峠を越えたときは輿を降りて馬で越えたという難路だったという。確かにあまり整備されていなくて歩きにくい道だけど覚悟していたほどの道ではなかった。
峠を無事越えて岡部宿に到着。今は郷土博物館となっている大旅籠柏屋に立ち寄る。天保年間の旅籠が当時の姿のままに残されている。天保年間は、伊勢のおかげまいりが大流行し東海道が最も賑わった時代。旅人の増加に合わせて増改築したものだろうか。
柏屋のなかで興味深いのは旅籠の食事風景。1泊が30文(5000円といったところか)ほどなので、貝の味噌汁に野菜の煮物や豆腐など、今でも不満のないメニューだ。当時の旅人が残した道中の食事の記録が展示されていたが、朝夕ともに一汁三菜にメインの魚が付くといった感じだ。
岡部の街で目に付くのが、非常板。赤くて丸い鉄板が軒先に吊り下げられている。家事や泥棒など、非常時に鳴らし、近隣に警戒を呼び掛けるものなんだろう。アナログな仕掛けだけどバカにしたものではない。小さな町では半端なITより効果的に違いない。
岡部宿から藤枝宿に向かう。途中「是より西田中領」の石碑が現れる。田中城は本丸を中心に円形の三重堀を巡らした珍しい造り。航空写真では円形の堀の跡が確認できるものの、今や宅地化された現地に行く甲斐はなさそうだ。確認家康が死ぬきっかけになったと言われる鯛の天ぷらを食べたのも田中城だ。
藤枝宿に到着。一説には藤の枝のように細長い街だったので藤枝と名付けられたとも聞く。サッカーが盛んな土地柄で、和菓子屋にはサッカー最中なるものが名物として販売されていた。
府中宿~丸子宿~岡部宿~藤枝宿と歩いた総距離は25kmほど。まずまずよく歩いたけれど、それ以上に道中色々と食べてしまった。