甲州街道(10)甲府〜韮崎

 2023年6月18日


昨日は甲府市内の散策だけで終わってしまったけれど、気を取り直して山梨遠征2日め。富士山に見送られるように、街道を西に進む。狭義での甲州街道は、日本橋〜甲府だけれど、広義では、諏訪で中山道に合流するまでも甲州街道、あるいは裏甲州街道と呼ぶようだ。



山梨交通のバス停が気になる。「廃軌道」とわざわざ注記されている。話には聞いて知っていたけれど、ここにはかつて「ボロ電」と揶揄されるオンボロ鉄道が走っていたらしい。廃線から60年も経つというのに、鉄道廃止後の代替であることを今もバス停に表示している。



山梨県立美術館。ミレーの「落穂拾い」や「種をまく人」が常設展示されている。パリのオルセー美術館のものと、ほぼ同じ構図らしい。以前オルセーには時間の都合で立ち寄ることができなかったけど、ここでもパス。昨日の遅れを取り戻すべく先を急ごう。



新潟から静岡までの長距離天然ガスパイプラインがこの辺りを通っているようだ。アメリカや欧州の大平原を突っ切るのと違って、狭い日本で山岳地帯をいくつも越えてパイプラインを敷設するのはさぞ大変なことだろう。



甲府市を出て甲斐市に入ると、「甲州道中」の案内標識が間違いやすそうな分岐点に掲示されている。こんな簡素な掲示でも、日本橋から諏訪・京都まで歩いてみようという物好きな旅人を歓迎してくれているようで嬉しい。



道祖神と言えば、人の形をしたものが多いと思っていたけれど、この辺りの道祖神は丸石が多い。地域を守る神として古来から祀られてきたものだけに、その由来も形状も地域によって様々な形があるようだ。



中央本線を渡る。西には相変わらず南アルプスの山々が高く聳えている。中央本線もこの先、トンネル無しで諏訪まで繋がっているはずだけれど、どこをどう進めばトンネル建設を回避できるのか、まるで想像できない。



信玄堤への案内がある。武田信玄が、釜を洗うとすぐ流されてしまうと言われるほどの急流、釜無川の氾濫を防ぐために築いた堤防が今も残っているという。興味はあるのだけれど、随分な遠回りになってしまう。



結局信玄堤訪問は諦めて、甲斐市のマンホールに描かれた信玄堤のイラストを観察するだけに留める。堤の横にいるのは「やはたいぬ」という市のマスコットらしい。この地の名産品である「やはたいも」という高級里芋をモチーフにしたものらしい。



10時半を過ぎると30度は既に超えていると思えるほどに暑くなってきた。涼を求めて県のクリーンエネルギーセンターを見学する。水力や太陽光など県の電気事業の紹介や、電気の理解を深めるための実験設備などが興味深いけど、省エネのせいか空調はかなり抑え気味だ。



富士山をモチーフにした単管バリケードを発見。可愛い動物やアニメのキャラの単管バリケードはよく見かけるけれど、富士山型は初めてお目にかかった。ご当地単管バリケードとの出会いでちょっとテンションがあがる。



男女相対道祖神。随分と古いものに見える。丸型道祖神が多い地域だけに、逆にヒト型は珍しいようにも思える。



中央本線のガードを潜る。甲府・韮崎間の開通が1903年とのことだけど、当時の煉瓦や石積がそのまま残っているように見える。



歩道の脇にある大きな岩が「泣石」。新府城を捨てて大月の岩殿城へと落ち延びる道中、炎上する新府城を振り返った勝頼夫人が涙を流したと言われるところだ。以前はこの岩から勝頼夫人の涙のように水が湧きだしていたそうだ。



あちらこちらの田んぼでは田植えが行われているけれど、田植えのシーズンとは思えない暑さだ。できれば韮崎を超えて新府城まで行きたいと考えていたけれど、韮崎まで歩くことさえ辛い。



古くから田園地帯だったところなのだろう。盆地とはいえ平坦な地形が広がるなかに、かつてこの地の庄屋だったお宅が残っている。なまこ壁を施した立派なものだ。



二十三夜塔。関西では見たことがないけれど、関東には多いらしい。決まった月齢の日に集まり月を拝む民間信仰だ。二十二夜塔とか二十夜塔とか、地域ごとに異なった月待塔が設置されている。



塩川橋を渡る。この橋の向こうから韮崎市となり、峡北地方に入る。相変わらず前方には南アルプスが聳えていて、この先どこを通って信州へと向かうのだろうか。容易な道には思えない。



塩川。釜無川、笛吹川と合流し、富士川となって太平洋へと向かう。上杉謙信の「敵に塩を送る」の故事で知られるように、海の無い甲斐で塩は採れないはずなのに、何故か塩崎とか塩山とか、「塩」の付く地名が多い。



塩川と釜無川に挟まれた韮崎は古来陸運・水運の要所だったらしい。峡北だけではなく、甲州街道を経て運ばれてきた諏訪や佐久の米を江戸へと運び込んでいた。甲州街道から釜無川の河岸までを繋ぐ鰍沢横丁と呼ばれる道は随分な賑わいだったらしい。



韮崎の旧宿場街へと入ってきた。江戸時代に商人向けの旅籠として開業して以来、200年ほどの歴史を有する清水屋という旅館だ。もっとも往時の建物は残っていないようだ。



韮崎宿の本陣跡。石碑は立ってはいるけれど、周囲にはそれらしい建物も残っておらず旧宿場町の佇まいを想起することは困難だ。



暑さのせいで歩く気にもならず、空調が効いた韮崎駅前のショッピングセンターや観光案内所を2時間近くもウロウロする。観光案内書前に阪急電鉄や宝塚歌劇を創業者、小林一三のプレートがある。関西財界の大重鎮が韮崎の出身だったとは意外な驚きだ。



切り立った断崖の上に立つ平和観音像。関東三観音のひとつらしい。注目すべきは観音像が立つ岩山だ。これこそ韮崎の町から七里(約30㎞)続くと言われる七里岩と呼ばれる細長い岩の台地だ。武田勝頼が築城した新府城は七里岩の上に立っているのだ。



七里岩の険しさを目の当たりにして、新府城まで歩く気は完全消滅。昨日に続き予定どおり歩けない日が続くけれど本日は韮崎で終了。明日こそ頑張ろう。歩行距離16.9㎞、所要時間は8時間。