2023年12月14日
先月甲州街道(日本橋〜下諏訪)を踏破し、引き続き中山道を伝って京都に向かうつもりでガイドブックも購入済だったのだけれど、問題はクマ。今年は特に物騒な事件が相次いでいる。木曽路は特に塩尻峠とか鳥居峠などヤバそうな山道が多く、不安が払拭できない。
長らく思案していたけれど、東京への所用のついでに、中山道を日本橋から歩いてみることにする。軽井沢以降の佐久路はアクセスも悪く、やはりクマの出没が気になるので踏破の見込みはまるで立っていないのだけれど、後のことは考えず、日本橋をスタートする。
スタートすると、日本橋界隈でドラクエスタンプラリーが開催中であることを知る。信号待ちばかりを余儀なくされる都会歩きより、こっちの方が楽しそうだなぁ、と心が揺らぐけれど、スライムの誘惑を振り切って日本橋を北へと向かう。
三越日本橋本店。ライオン像の奥にある大きな暖簾が、江戸時代の呉服屋「越後屋」以来の歴史を雄弁に物語っている。日本橋周辺には三井系のビルが立ちならんでいるけれど、越後屋が日本橋における三井の起点のはずだ。
神田を通過して、万世橋を渡って秋葉原へとやってきた。ちょっと気恥ずかしくなるような店が目につく。決して興味がある訳でもないんだけれど、気になるものが多い。雑踏のなかでキョロキョロしているうちに大きく道を誤ってしまった。
ちょっと寄り道して神田明神。江戸の総鎮守とも呼ばれ、日本三大祭りのひとつ神田祭が執り行われることでも知られる。境内はひどく綺麗に整備され、モダンな土産物店なども境内にあったりして、京都や奈良の古社とは趣が随分と異なる。
本郷にある東京大学の横を通過。赤門は何かの調査のため、閉門されている。もともとは加賀前田家が将軍家斉の娘の輿入れの際に造ったものだという。家斉って、娘だけでも20人以上いたはずだけど、ということは、江戸のアチコチに赤門があったのだろうか。
高崎までは国道17号線にほぼ沿って中山道は続いている。もっと広い道路と思っていたけれど、本郷から白山あたりは片側1車線の美しく落ち着いた道だ。街路樹のイチョウが美しく色づいているけれど、御堂筋と違って銀杏の臭いがしない。雄木ばかりなのだろうか。
JR巣鴨駅前の商店街のアーケードの屋根には、ズラリと太陽光パネルが設置されている。イマイチ日照は良くないようにも感じるけれど、古くから続いていそうなお店が多そうな商店街が、先進的な取り組みをしていることに好感が持てる。
しばらく進むと、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる巣鴨地蔵商店街が現れる。平日だというのに商店街入口の饅頭屋に長蛇の行列ができるなど、大変な活況だ。が、よく見ると中山道は国道17号を離れてこの商店街を突っ切っているではないか。
とげぬき地蔵(高岩寺)。今どき「とげ」が抜けずに困っている人など多くはないと思うのに大勢の参拝客で賑わっている。この地蔵尊のお陰で誤って針を呑み込んだ針を吐き出したことで、とげぬき地蔵と呼ばれ始めたけれど、延命や病気治癒全般に霊験があるそうだ。
シニア向けのファッションを扱う店が目立つけれど、大阪の石切とはかなり雰囲気が異なる。飲食店が多いせかなぁ…、随分と明るく垢ぬけているように感じる。若い人も少なくない。
東京に残る唯一の路面電車、都電荒川線の庚申塚駅だ。いや路面電車なのだから、庚申塚停留場なのだろう。今では「さくらトラム」というお洒落な愛称が付けられている。ノンビリ感がありながら、路面電車にありがちなレトロ感も荒廃感は無い。
巣鴨から滝野川にかけては種子屋が軒を連ね、種子屋街道と呼ばれていたそうだ。街道の整備により各地から珍しい野菜の種が江戸に運ばれてくるようになったという。街道は商業だけでなく、農業の発展にも大きな役割を果たしたといえる。
日本橋をスタートして3時間50分、ようやく中山道六十九次の最初の宿場町、板橋宿に到着。人混みと信号待ち、さらに寄り道や長い昼食休憩など、ペースが上がらない。品川宿などとともに江戸四宿に数えられる板橋宿に着いても未だ江戸を脱出したとはいえない。
明治以降、都市開発が進み、さらに震災や戦災を経ているだけに、あまり街道の史蹟は残されていない。脇本陣跡であったことを示す石碑も、マンションの裏口にひっそり立っている。
関ケ原の戦いで西軍主力として奮闘した宇喜多秀家の供養塔がある。なかなか発見できず、板橋観光案内所で尋ねたところ、わざわざ係の人が同行案内してくださった。八丈島配流のまま生涯を終えたが、前田家から娶った豪姫との関係で前田家下屋敷に供養されたという。
板橋宿は、平尾宿(下宿)、仲宿、上宿に分かれている。今も3つの宿場町がそのまま発展したと思われる商店街それぞれが違う雰囲気を漂わせている。JR板宿駅に近い平尾宿と違って、仲宿は街路灯なども整えて、少し旧街道を感じさせる風景になっている。
ところどころではあるけれど、かつての宿場町を彷彿とさせる造りの商店も見られる。駅前の便利な商店街よりも、ちょっと離れたところの方が、旧宿場町であったことを強みにした積極的な街づくりを図っているように思える。
仲宿と上宿の間を流れる川に架かる橋こそが、「板橋」の由来。昔のものはもっと粗末な橋だったに違いない。その後、何度も架け替えられたであろうけど、現在でも板橋の由来を少しでも残すべく、木製風の橋になっている。
縁切榎。木肌に触れたり、樹皮を茶や酒に混ぜて飲むと、嫌な配偶者と縁切りができると信仰を集めていたらしい。和宮降嫁の際は、この榎を避けて板橋に入ったそうだ。
板橋宿をようやく脱出。これで江戸を出て、本格的に中山道へと入ったことになる。イチョウの落ち葉の絨毯のようになった歩道を進むけれど、今は1年でも最も日が短い。さらに東京の日没は、関西より15分程度も早いのだ。なんとか東京都は脱出したいのだけど…。
志村の一里塚。日本橋から三里進んだことになる。石垣に囲まれたほぼ完全な形の一里塚だ。しかも道路を挟んで対になる塚もある。驚くべきことに、復元ではなく、江戸時代のままの一里塚が保存されている。国内屈指の保存状態だという。
どんどん夕闇が近づくけれど、なんとか東京都を脱出したいものだと頑張って荒川の戸田橋までやってきた。この川を渡れば埼玉県。隣を走るのは東北新幹線だ。
もうほとんど真っ暗になりかけていて、荒川からの景色を楽しむことはできない。でも、これで最低目標だった県境越えを達成。もっとも江戸時代ならまだ武蔵国。この川を越えるくらいでは大した感慨もなかったに違いない。
あまりに暗くなりすぎて戸田の渡し跡なども確認できない。体力的にはもう少し歩けそうだったけど、これ以上は無意味。戸田公園駅でフィニッシュ。歩行距離21.5㎞、所用時間7時間半。