四日市宿~亀山宿【東海道五十三次-23】

 2022年5月4日


2019年8月に日本橋を発ち、少しずつ京への道を辿ってきた東海道五十三次ウォークも23日め。コロナ禍での中断が長かったとはいえ、3年近く経っても未だ四日市…。GWを利用して1泊2日の旅程を組んだけれど、どこまで行けるだろうか。最低でも鈴鹿は越えたい。



もとは国の基幹道路だったとはいえ、今では国道1号線に沿った生活道路。僅か一本の名残りの松だけが、かつて多くの旅人で賑わった街道の雰囲気を伝えている。



近鉄四日市駅から1時間余り歩いたところに、日永の追分がある。「右京大阪道、左いせ参宮道」の大きな石碑が立っている。伊勢参りに向かう多くの旅人はここから左の道を進んだため、この先東海道は随分と通行量が少なくなったという。



旧東海道に沿って走っているのが、四日市あすなろう電鉄。かつては近鉄の支線だったが、今では三セクとなっている。見どころは、わずか762mmという特殊狭軌(ナローゲージ)。標準軌の半分くらいしかない。「あすなろう」は「ナロー」を掛けているはずだ。



東海道有数の急坂と言われる杖撞坂にやってきた。伊吹山で負傷して大和に戻る日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が剣を杖にしてこの坂を登ったという。芭蕉もこの急坂を句に詠んでいるけれど、今では道路が整備されたのだろう。思い描いていたほどの勾配ではない。



坂の上には日本武尊の血塚がある。ここで出血を洗い流して止血したそうだ。怪我に疲労が重なり、日本武尊が「足が三重に曲がるほど疲れている」といった言葉が、三重という地名の由来にもなったという。



四日市から11㎞、ようやく石薬師宿にやってきた。国道の脇道扱いのような旧東海道を歩いてきたので、適当な昼食場所を見つけることができないままここまで来たけれど、コンビニや食堂など期待できそうにはなさそうな町だ。



閑静な住宅街で、旧宿場町らしい風情や賑わいは感じられない。伊勢に向かう道との分岐の後だったこともあって元より活気のない宿場町だったらしい。この地出身の佐々木信綱の短歌が街道沿いに何十も掲げられているけれど、旧街道の史蹟も少ない。



目を引くのは、英語、スペイン語、ポルトガル語で書かれた掲示物。ホンダ鈴鹿が近いせいか、南米などからの住民が多いところのようだ。ここまで浜松など自動車工場のあるところに、この種の標識が見られたように思う。



宿場の名前の由来となった石薬師寺がある。1400年もの歴史を有する東寺真言宗の古刹だ。GWのせいか、旧東海道歩きをしている人を多く見かける。同じガイドブックを手にしているのでよく判るのだ。時間をかけて石薬師寺に参拝されておられる外国人の姿も見える。



傍には、源範頼関連の史蹟が見られる。石薬師寺で平氏追討の必勝祈願をしたそうで、傍には御曹司社とも言われる蒲冠者範頼之社や所縁の桜の木などがある。源平合戦では大将代理としての活躍をしながらも影の薄い範頼を祀る神社があることはちょっと嬉しい発見だ。



石薬師の一里塚。旅人が日射しを避けて休息をとるのに絶好とも思える大きな榎が植えられている。さぞ由緒のある古木かと思いきや、1977年に植え替えられたものだという。



田植えも終わり水が張られた田んぼの向こうに鈴鹿山脈が見える。あの山のどこを通っていくのだろうか。鈴鹿峠越えが容易ならざることが十分に予想できる。



石薬師宿から4㎞ほど歩いて庄野宿に到着。一里塚はほぼ正確に距離を刻んでいるのに対して、宿場間の距離は不思議なほどにマチマチだ。



ここも石薬師宿と同じく、元よりあまり賑わいのない宿場町だったそうだ。街道の雰囲気は残るものの、宿屋や飯屋の類はなさそうだ。既に14時半だというのに、昼食にありつけない。登山と違って行動食も持ってきていない。街道歩きもなかなか大変だ。



今では公民館になっている本陣跡に、おそらくこの町唯一とも思える自販機を発見。日射しもきつく、25度くらいはあると思われる気温で、干からびた体にようやく水分補給ができた。



新しい道路建設や区画整理などによって、旧街道が分断されたり消滅してることは少なくない。通常、東海道ウォーカーのための道順が掲示されているんだけれど、これほど複雑な迂回路も珍しい。もっともこの迂回のおかげでようやくコンビニに出会うことができた。



庄野宿の少し先に女人堤防の碑がある。水害に苦しむ村人が堤防建築を申し出たものの藩に許可されず(堤防を築くことで下流に水害の影響が及ぶため)、ついには村の存続に必要な男抜きで女性だけで勝手に堤を築いたという。(女性なら罪が軽かったとも言われている)



JR井田川駅前に日本武尊の像がある。杖撞坂で既に重篤な状態だったものが、ついにこの辺りで力尽きたという。駅から2㎞ほど北に能褒野王塚という日本武尊の陵墓と伝わる古墳がある。興味深いけれど、日本武尊ほどではないものの疲労が激しく寄り道どころではない。



井田川から亀山まで、電車では僅か1駅(5㎞)だというのに随分と長く感じられる。横断歩道の路面にローソクを付けた亀のイラストを見つけて、ちょっと元気を貰う。亀山といえば、やはりローソクだ。でもカメヤマローソクの本社は大阪なんだよね。



出発から8時間、既に25㎞歩いてヘロヘロ状態だけれど、亀山に来たならば多門櫓が残る亀山城跡だけは見て行かねばならない。石垣を登るのが辛い。さらに登ったところで中にも入れないし何もない、と判ったときのショックは大きい。



亀山宿の入口。一般に城下町になっている宿場町は堅苦しいので敬遠されがちだったというが、亀山もそのせいで振るわない宿場だったという。



宿場としては振るわなかったかもしれないけれど、町の規模は小さくない。旧街道に沿って風情のある街並みが長く続く。いつの間にか向かう西の空は真っ赤に染まっている。



亀山市街地の宿が取れず、亀山宿と関宿の中間地点まで歩かなければならない。野村の一里塚。樹齢400年の椋の木だそうだ。「くたびれた奴が見つける一里塚」とはよく言ったもので、どこか座り込めるところがないものかとばかり考えながら歩いている。



ホテル到着は夜7時過ぎ。いやはや疲れた。9時間50分かけて30㎞ほども歩いている。足も疲れたけれど、腰と背中がヤバい。一晩寝たくらいでは容易に復活しそうにない。