2022年5月5日
昨日四日市宿から30㎞ほど歩いて亀山宿と関宿との間にあるビジネスホテルに投宿したものの、一晩寝たくらいでは足腰の疲れも背中の張りも快癒するはずもない。昨日杖撞峠手前の資料館で貰ったパンフレットを見ながら、どうしたものかを考え込んでしまう。
取り合えず電車の駅がある関宿までは歩こうと出発。行く手には鈴鹿山脈が聳え立っている。一体どこを登って滋賀県に行けるのだろうか。山並みを見ていてもこの先の道がどう繋がるのかの想像がつかない。
重い体に鞭打つようにして、関宿まで歩いてきた。歩いているとまるで錆びた機械に油がまわるかのように、体も少しは動くようになってくるのだけれど、この状態で鈴鹿越えができるとは思えない。
関宿は東海道五十三次のなかでも最も往時の雰囲気が残る宿場町として人気が高いところだ。およそ2㎞くらいはあろうかと思う細長い町が街道に沿って形成されている。古い建物を大切に維持するとともに新たな家屋の建設にも細かなルールを定めているに違いない。
郵便ポストも赤いものではなく、郵便制度発足当初のような木製の箱状のものだ。集配時刻も側面に記されている。僅かに赤い日本郵便のロゴが申し訳なさそうに片隅に付されているが、これが無ければ現役のポストだと思われないに違いない。
銀行も白壁と出格子の純和風建築風だ。ATMコーナーには「現金自動取扱所」との標札がある。デザインだけではなく、文字類にも細かな心配りがされているようだ。
左の商家は電気屋さん。木の看板に筆文字で店名が記されている。お土産屋さんや飲食店など観光客向けの施設だけではなく、生活用品を売るお店も民家も例外なく協力して町づくりをしていることがよく判る。
まるで映画のセットの中にいるようだ。いや張りぼてのセットとは異なり、馬繋ぎの金具や屋根上の漆喰細工など、細部に至るまで興味深い意匠が施されていて飽きることがない。2㎞近くもこのような街並みが続くが、その向こうには鈴鹿山脈が待ち構えている。
関宿の西のはずれに、東海道と伊賀を越える奈良街道との分岐がある。進むべきか帰るべきか、ホテルの傍のコンビニで行動食用に買い求めた菓子パンを食べながら長らく考え込む。
とりあえず7㎞ほど先にある坂下宿までは行ってみよう。便数は少ないけれど、坂下から関に戻ってくるバスもあるようだ。国道1号線の路肩をゆっくりと進んで行く。目の前の鈴鹿の山々がだんだんと近づいてきているのが判る。
国道を離れ誰も通行人などいない山間の旧道を歩く。昨日は何人もの東海道ウォーカーを見かけたし、関宿は結構賑わっていたのに…。人はいないけど花は多い。この白いアジサイのような花は何だろうか。アジサイにしては木が高い。ガマズミっていうやつだろうか。
坂下宿にやってきた。そこそこ坂を登ってきたつもりなのに、坂下だ。この先、さらに本物の坂があるということだろうか。鈴鹿馬子唄発祥の地、の大きな石碑以外には、宿場町の雰囲気も感じられない
な~んにもないところに本陣跡などの石碑がポツンと立っている。どうしたことだろうか。あまりにも寂しいところだ。お店もないし、人にも出会わない。
あまりの呆気なさで、逆に闘志が湧いてきた。よし鈴鹿を越えてやる! 坂下の自販機で飲料を3本買い込んで(食料補給はできなかった)、敢然と鈴鹿峠を目指す。しかし近づいても近づいても、どこからあの山を越えることになるのかが判らない…。
かなり山道を登ってきたところで思わぬ案内板を発見。なんと水害が起きる以前、ここが坂下宿だったのだ。この先にお寺がある以外には何もないところだ。しかし良く見ると古い石垣が残っている。完全に滅亡・消滅した町の中にいることに気付き背筋が凍るよう思いだ。
峠の手前で自動車道はトンネルに入るが、旧街道には当然トンネルなど無い。もう完全に山歩きだ。東京から旧街道歩きとはいえ、ほとんど舗装された道を歩いてきたけれど、これが江戸時代の街道の実態だと知る。かつて鈴鹿峠では相当ヤバい山賊が跋扈していたという。
ウォーキングシューズではちょっと心もとない道を鈴鹿峠まで登ってきた。まず目についたのが、豚コレラ感染予防のための消石灰。兵庫県ばかりで登山しているせいで知らなかったけれど、多くの県では豚コレラ(イノシシも感染)の越境防止対策を講じているようだ。
峠に立つ大きな常夜灯。この峠を越える旅人がどれほど助けられたことだろうか。それにしても常夜灯の油って、誰が負担して、誰が補給していたのだろうか。
鈴鹿峠を越えて、国道1号線の歩道を土山に向けてダラダラと下っていく。疲れた体で鈴鹿越えをよく成し遂げたという達成感に浸りながら、ウィニングランのように歩いていく。
旧街道地図に従って、国道歩きと旧道歩きを繰り返しながら進んで行く。頭上には大きな新名神高速の橋梁が見えてきた。四日市を出発したときには、あわよくば2日めは水口宿まで、なんて甘く考えていたけれど、もはや12㎞先の水口まで歩くことなど考えられない。
いよいよ土山の町に入る。旧宿場町の中心はまだ先だけれど、今日はバスの便がいい道の駅で終わりにしよう。宿場町の見学は次回に持ち越しだ。
土山の町の東端にある田村神社へと続くこの橋も東海道の一部なんだそうだ。橋の先には静かな参道が続く。
田村神社は坂上田村麻呂をお祀りしている神社。蝦夷征伐、征夷大将軍、清水寺建立と田村麻呂の事績は煌びやかだけれど、鈴鹿峠の山賊討伐にも大功があったそうだ。
昨日の疲れを引きずったままだったので、歩行距離18.5km、所要時間6時間半、と昨日に比べて短めだったのは仕方ない。とても歩き通せる気がしないまま亀山を出発したものの、歩き始めればなんとかなるものだ。日射しが強く、この2日間で随分と日焼けした。
標高グラフ。鈴鹿峠のトンガリ具合は半端ない。距離も標高も箱根越えが優るけれど、勾配では鈴鹿越えの方が厳しいのではないだろうか。獲得標高は600m。これは街道歩きというよりも、山歩きや登山に近いように思う。