2013年8月26日(日) ②
布施から今里までの、商店街歩きは1時間ほどで終了。既に16時半だが、せっかく涼しいので、このまま終わるのは勿体ない。商店街の終点になっている今里には、暗越奈良街道が通っていて、堺屋太一の大きな説明看板が設置されている。「シルクロードの終わるところ」とは、なんとも大仰な表現だが、暗峠奈良街道を少し歩いてみよう。
商店街に並行する暗峠奈良街道を、東に5分ほど戻って、今里西ノ口公園へ。ここに謎めいたコンドル像があるのだ。以前、偶然これを発見した際は、何なのか見当が付かなかったのだが、後に、あれは百貨店の建物に掲げられていた石像だと聞いたので、もう一度見たくなったのだ。
高麗橋まで4.7km。ちょうどお手頃の距離だし、高麗橋がある北浜まで、歩いて行くことにしよう。
玉造駅の手前に、二軒茶屋の跡がある。江戸時代、ここを通って、奈良に向かう旅人のために、つるや、ますや、の二軒の茶屋がここに店を構えていたそうだ。
玉造稲荷神社。ここが伊勢本街道の始点になっている。伊勢参りの際には、まずここで旅の安全を祈願して、出掛けるのだろう。暗峠奈良街道は、伊勢本街道の一部になっているのだが、道標に従って、さらに高麗橋まで歩くことにしよう。
玉造稲荷にある豊臣秀頼像。温厚で、しかし何となく頼り無さげな雰囲気だ。2014年、2015年は、大阪冬の陣、夏の陣から400年目になるとのことで、様々なイベントが準備されているようだ。当然のことながら、2015年は、秀頼没後400年ということになる。
秀頼像の奥にある鳥居は、1603年に、秀頼が寄進したものだそうだ。阪神大震災で、石柱の継ぎ目が限界に達し、鳥居の上部を外して、石柱下部の前に、あらためて設置したらしい。不思議な光景だ。
森ノ宮の日生球場跡地。球場が廃止・撤去されてから、随分経つが、未だ更地のままだ。具体的な計画もあるらしいが、どうなるのだろうか。
法円坂にある越中井。細川越中守忠興の屋敷があったところだ。関ヶ原の戦い際、石田三成の人質になることを拒んだ細川ガラシャが、家臣に胸を突かせて亡くなったところでもある。
ここまで来ると、どこが街道なのかは、どうでも良くなってきて、中央区内の気になる史跡を巡るブラブラ歩きになってきた。大阪城の南側に広がる難波宮跡公園。大極殿基壇が復元されているが、何とも殺風景で、難波宮を彷彿とさせるイメージもあまり沸かない。
難波宮跡の一角に、旧日本陸軍の歩兵第八連隊の記念碑がある。「またも負けたか八連隊」と揶揄された大阪出身者から構成された歩兵連隊だが、これは大阪人の計算高さから受ける先入観によるものらしい。事実は決して弱兵ではなく、多くの戦果を挙げたと聞く。
国立大阪病院の東南に建つ、大村益次郎の碑。適塾で学び、長州の民兵を率いて幕府軍と戦い、維新後には、徴兵制を導入し、その後の陸軍の礎を築いた人だ。シーボルトの娘とのロマンスでも有名だ。京都で襲撃された益次郎が、治療空しく、ここで亡くなった。
昭和15年に建立されているが、碑に、いろは順に並んだ発起人には超大物が名を連ねている。東条英機や林銑十郎といった軍人から、松岡洋右のような政治家、松下幸之助や小林一三のような財界人など、時代を代表する大物一覧の様相だ。
旧熊野街道。こちらの方の終点(始点)は、天満の八軒家浜ということになっている。
南大江小学校の前に、今も大阪の中心部の地下を流れている太閤下水(背割下水)を覗ける施設がある。観察窓のアクリル板に傷が多いのが残念だが、それでも、清らかな水が流れている様が良く見える。
東横堀川に掛かる高麗橋までやってきた。今は阪神高速の入り口がある以外、さほど目立つことのない橋だが、江戸時代、大阪では数少ない幕府直轄の公儀橋であり、また西日本の道路の距離を測る起点となる里程元標が設置されているなど、実に重要な橋だったのだ。
まとめ (本日合計)
布施~高麗橋
歩行距離 約10km
所要時間 2時間45分
歩数 17100歩 (しっかり9500歩)