甲州街道(8)笹子〜甲斐大和 (&武田終焉の地)

 2023年5月16日


4ヶ月ぶりに山梨県に戻ってきた。厳冬期にはとても無理と諦めていた、甲州街道最大の難所と言われる笹子峠を今日こそ越えるのだ。何人かのハイカーとともに朝7時半に笹子駅に降り立つが早くも日射しは強い。早くも暑さを気にしなければならない季節となってしまった。



しばらく西に進むと黒野田宿。旧街道が拡幅されて国道20号線になったせいか、宿場町の風情はあまり感じられない。ガイドブックにある本陣跡には例によって「明治天皇行在所」だけが立っている。200年以上本陣であったことより、ただ1度の行在が誇らしいのだろう。



先を行くハイカーも笹子峠へと向かうと思って後ろを付いていくが、どうも様子がおおかしい。いくらなんでも旧街道とは思えない。調べてみると笹子雁ヶ腹摺山に登る道だった。早めに気付いて良かった〜。(この後、旧街道とは思えない道を進むことになるのだが…)



あらためて、旧国道から旧街道への分岐点までやってきた。なんと道の向こうには獣除けの柵があるではないか。獣除けの柵を解錠して進むような街道は初めてだ。笹子峠が標高1100m近い山深いところを通る道だと思い知らされる。



静かな杉林のなかを進む。日射しはきついけれど杉林が日光を遮ってくれる。甲府市の気温は33度くらいまで上がるとの予報だったけれど、少しヒンヤリ感を感じるほどだ。さほど勾配もなく、覚悟していたよりも歩きやすい。



標高900mくらいにある茶屋跡に明治天皇の記念碑があるが、この説明板の文がちょっと切ない。「畏れ多くも大帝が野立をされた聖蹟を残したかったけど、鉄道が開通して誰もここを通らなくなった。長年嘆いてきたけれど、記念碑を建立してこの事績を永遠に伝える。」



小仏峠を越えて以降、相模川→桂川→笹子川と名前を変えながらも甲州街道歩きに常に寄りそうように流れていた川もいよいよごく小さな木橋で渡れるほどになってしまった。相模川系と富士川系との分水嶺となる笹子峠はもうすぐのはずだ。



矢立の杉。杉林のなかで唯一本、異彩を放つ巨木だ。合戦に赴く武士がこの杉に矢を射立てて戦勝を祈願したという。樹齢1000年を超える大木だけれど、一体何本の矢が射立てられてきたのだろうか。



旧国道20号からも近いので、多くの観光客が立ち寄れるよう、広々とした展望テラスも設置されている。ゼンマイ式の音声装置のハンドルを20回回すと杉良太郎が歌う「矢立の杉」が聞ける。静かな山中で音楽が鳴り響くのは、誰もいなくともちょっと気恥ずかしい…。



本来の街道は矢立の杉から狭く急峻な尾根道を進むようで古い案内板も立っている。少し進んでみたけれど、かなりヤバそうな道だ。そもそもYAMAPでは破線にさえなっていない。



結局YAMAPのルートに従い、一旦旧国道20号に出て笹子峠へと向かう。もっとも、今では新国道20号が完成し、さらに高速道路(中央道)も開通し、この旧道をわざわざ通行する車はかなり少ないようだ。実際、1台の車にも出会うことはなかった。



そんな旧国道の先にあるのが笹子隧道。わずか240mほどのトンネルで出口まで見通せるほどだし、冬季には通行禁止になるようなものだけれど、1938年の完成当時としては画期的な土木工事だったそうだ。



少し隧道のなかを進んでみる。昭和33年に全長約3000mの新トンネルが完成して以降は通行車両も少なく廃道のようになっていると思っていたのだけれど、内部は意外に明るくスッキリと整備されている。それにしても狭い。対向車が来たらどうするのだろう…。



笹子隧道を通れば楽に笹子峠の向こうに到達できるんだけれど、そうはいかない。旧街道に戻って急に険しくなった道を登っていく。熊も出没するとのことで、緊張感を保ちながら進む。



なんじゃこりゃ。街道だというのに鎖場がある。しばらくお気楽に旧国道を歩いてきたので忘れかけていたけれど、この峠こそ甲州街道最大の難所で、この峠を通るのが嫌で多くの旅人は遠回りでも上州経由の中山道を選んだのだ。



難路もあったとはいえ、予想していたほどの疲れもなく標高は1096mの笹子峠に到着。江戸と諏訪のちょうど中間地点にもなるようだ。



本来の旧街道ではなく一部旧国道を歩いたという事実も忘れて、「笹子峠、怖るるに足らず」なんて思いながら、甲斐大和方面へと下山するが、道は細く、さらに不明瞭になる。どこかで道を間違ったのだろうか、ここは道なんだろうか?というような所を進んでいく。



高さ数mほどの渓谷に架かる木橋が現れた。恐る恐る橋に足を掛けると、嫌な揺れ方をする。こういうのは超苦手だ。平衡感覚が失われそうだけれど、落ちたらタダでは済まない。振り返ってみても、この橋が笹子峠越の最大の難所だった。



途中から旧国道に合流。茶屋跡の標識なども見られるけれど、総じて長く退屈な道が延々と続く。



旧国道を下りきったところが駒飼宿。甲府盆地への東の入口にもなる。小山田信茂が武田勝頼一行の通行を阻んだのもこの辺りだったのかもしれない。残念ながら説明板が立つばかりで、宿場町の雰囲気は感じられない。



武田勝頼の腰掛石というものがある。後方からは滝川一益軍が迫っているというのに、信茂の離反により笹子峠が封鎖された勝頼が、途方に暮れて座り込んだのだろうか。周囲をアチコチと歩き回ったのだけれど、残念ながら腰掛石の発見はできなかった…。



甲斐大和駅前には武田勝頼像が立っている。結果論かもしれないけれど、多くの失策が重なり、信玄が没してから10年ももたず武田氏を滅亡させてしまった。決して凡将ではなく、むしろ良将であったとの評価もあるけれど、銅像の勝頼はどことなく線が細く感じられる。



甲州街道を外れて、武田氏終焉の地である天目山・田野方面へと歩いていく。笹子峠越の疲れに加えて気温も高くなり足取りは重くなったけれど、多くの家臣が投降あるいは逃亡して僅か70人となったと言われる勝頼一行の足取りはもっと重いものであったに違いない。



四郎作古戦場とか鳥居畑古戦場といった石碑が立っている。勝頼に最後まで忠義を尽くした家臣が討死したところだ。おそらく武田側はせいぜい10人ほどと思われるので古戦場とは少々大袈裟にも思えるけれど、勝頼の自害の時間を稼ぐため壮絶に戦ったに違いない。



勝頼一行が自刃して果てた地は、後に徳川家康が建立した景徳院となり、勝頼、北条夫人、嫡男信勝らの墓所がある。1582年4月、400年間甲斐を支配してきた武田氏はついに滅亡したが、同じ年の6月には織田信長が本能寺の変で討たれる。何もかもが空しく悲しい。



姫ヶ淵。勝頼の正妻、北条夫人の侍女たちが川に身を投げて殉死したところだ。夫人は北条氏康の娘で、14歳で勝頼に嫁いだという。典型的な政略結婚だ。しかし当時北条氏は織田・徳川とは同盟関係にあったから実家に戻ることもできたのだろうに、勝頼のために願文を奉納するなど、甲斐のために尽くし、最後には夫とともに死ぬことを選んだ。



興味深いのは、同じ氏勝の娘が政略結婚で今川氏真に嫁いでいる。桶狭間以後、没落した今川氏だけれど、この娘も実家に戻ることなく氏真と添い遂げたという。様々な思いを交錯させながら甲斐大和駅へと戻る。



歩行距離18.2㎞、獲得標高900m、所要時間7時間。甲斐大和駅から夜の会食が予定されている東京へと戻る。結構なハードスケジュールだ。