2023年5月1日
一昨年、利神城跡のガイドツアーに参加した際にご一緒した関東在住の山城マニアの方が、これまで訪問した山城で最も印象的だったと仰っていたのが丹波市の岩屋城。あまり知られていない城だけれど、その頃から気になっていた岩屋城跡をようやく訪問する。
岩屋城は1516年に和田斎頼が蛇山の山頂に築いたものの、光秀により落城し、その後入封した佐野栄有が改修したらしい。城主がマイナーのせいで歴史の表舞台に立つことはなかったけれど、最近その遺構が大注目されている。小学校のなかを通過して登山口へと向かう。
小学校の裏手から動物除けの柵を通り、杉林のなかへと入っていく。一本道で迷いようもないのだけれど、それても城跡への真新しい道案内表示も整備されている。かなり本腰を入れて地域の観光資源としての整備が進められているようだ。
九十九折れなので急坂ではないけれど、攻城側の目線で見れば九十九折れの道は厄介そうだ。背後や側面からの攻撃に常に怯え続けながら進軍しなければならない。かといって直登などできそうにもない。
歩いて15分おきくらいに休憩所まで設置されている。もっとも丸太を横にして置いているだけなんだけど、それでも登山者には有難いおもてなしだ。
岩屋城というからには、もっとゴツゴツした岩だらけの道が続くものだと思っていたけれど、登山中盤までは殆ど岩らしい岩はない。中盤を過ぎてからようやく岩っぽい道も現れるようになった。
本丸に到るまでに、いくつかの曲輪が設けられ、それぞれ兵が配備されていたようだ。写真は南曲輪と呼ばれるところ。本丸は奥に見える山の上なので、かなり広域に縄張りが施されていたことが判る。
堀切や土塁も見られる。こうした土の構造物は和田氏が築城した時のものがそのまま残っているらしい。
本丸に近づくにつれて道は険しいものになってくるけれど、往時の雰囲気を極力損なわないよう程よく整備されているように感じる。滑落の恐れがある個所の柵もその辺りで切り出したと思われる木を束ねただけのものだ。決してケチっているのではないように思える。
本丸も近づき標高は300mほどだと思えるけれど、大きな井戸がある。中を覗き込むと今も満々と水が湧き出ている。これほどの水量の井戸を古城跡で見たのは初めてのことだ。
天守台に向けての最後の急坂。周囲の木々は最近伐採されたように見える。往時の天守の様子が判るように手を加えたのではないかと思える。
いよいよ石垣が見えてきた。土の部分は和田氏が築城したものだが、石の部分は1586年に佐野氏が修復再建したときのものらしい。戦国時代の山城に手を加え、石塁を巡らせた近代城郭に仕上げたことがよく判る。
石垣は典型的な野面積。佐野氏が大改修した僅か10年後には秀吉の命により廃城となったという。それから400年以上、誰が住むでも、手を加えるでもなく、当時のままに放置されていたようだ。
本丸を中心に小さいながらも西の丸や二の丸が設置されている。小規模ではあるけれど、縄張り図を見る限り近世城郭の要件がほぼ盛り込まれたものだ。
算木積のように隅部が特に補強されているようには見えない。それでいて草木に覆われながらも大きく崩れることもなく往時の石積みが残されていることが不思議だ。同世代の山城は後世に大補強されているか、そうでなければ崩落寸前で立入禁止になっている。
天守台。結構小さい。さすがに400年間の風雪に耐えてきたせいか、石垣が崩れているところもあるけれど、当時の山城の雰囲気が良く残されているように思える。
天守台の北にある蛇山の頂上から見た天守台。ちっちゃい…。20人ほどで満員になるほどの面積だ。それでも当時最先端だった総石垣の城郭を作りたかったんだろうなぁ…。
天守台からは麓の町が広く見渡すことができる。加古川に沿った街道にも良く睨みが効いたはずだ。急峻な地形、豊富な水、町や街道への近接性と三拍子揃った山城だ。なのに、織田の攻撃を苦しめたといったような話はあまり聞かない。
天守台の北にあるのが蛇山の山頂。佐野氏が城主だった頃はここが本城だったようだ。人工的に盛り上げた土塁のようにも見える。後世の天守台より僅かに標高が高く、ここが蛇山の山頂(358m)となっている。
いい石垣だ。後世の整った石垣と異なり、極めて初歩的な石積みだけれど、戦国期の山城の標準的な石垣ではないだろうか。こういうものがしっかりと残っているところから、近年、山城ファンの絶大なる評価を受けていることが理解できる。
地域はパンフレットを作ったり、登山道を整備したりして、岩尾城の観光資源化に力を入れている。それだけの価値があることは認めるけれど、多くの人がやってくると、遺構の破損が進み、余計なリスク対策が必要となって雰囲気が損なわれることにならないか心配だ。
登ってきた小学校ルートではなく、親縁寺ルートで下山する。現在では小学校の裏手から登るのが一般的らしいけれど、もともとは親縁寺ルートが大手筋となるらしい。
中腹にある達磨岩。なかなかに迫力がある。町に向かって睨みつけているかのように見える。
達磨岩から下はかなりの激下り。ここを攻めあがるのは相当苦労しそうなところだ。守る側の視点に立てば、わずかな弓兵か鉄砲兵で守り切れそうに感じられる。
下山口で地元のご老人4人と雑談。なんと岩尾城には登ったことがないという。近すぎる名所っていつでも行けると思ってしまうのだろう。所要時間2時間、距離2.6㎞、獲得標高290m、と軽い山歩きで、少々雨にも遭ったけれど、とても良いものを見ることができた。