川崎宿~保土ヶ谷宿【東海道五十三次 -2】

2019年8月14日(水)


昨日は日本橋から歩き始めて、あえなく川崎宿でギブアップしてしまった東海道五十三次。江戸時代の旅人の多くは、次の次の次の宿、戸塚まで一日で行ったらしい。道も靴も当時とは比べものにならないほど良くなっているのに・・・。台風の影響で雨が降ったり止んだりしているけど、気を取り直して川崎を出発する。



昨日の品川宿同様に、案内板類は多いんだけど、江戸時代の街道遺跡の実物はほとんど残っていないようだ。



雨が降ったり止んだりするなかを、テクテクと西に向かう。旧東海道とはいえ、今では幹線道路の脇道扱いなので、市境を示す標識もないけど路面のマンホールデザインで横浜市に入ったことを知る。調べてみると川崎市って、えらく細長い市だ。



鶴見川の手前に市場村一里塚が残されている。ようやく日本橋から五里だ。今も残る塚の上には祠が建てられ、神社のようなものに転用されている。石碑には「武州橘樹郡」とある。ええ~っ、まだ相模国にさえ入ってなかったのか。横浜市の大半は武蔵国らしい。



一里塚の前の路面には、「横浜旧東海道」というプレートが嵌め込まれている。その後も度々旧街道の路面でこのプレートを見かけた。



鶴見川。この川には江戸時代から橋が架かっていたそうだ。江戸を出発した旅人が最初に渡るのが、鶴見川の橋だったそうだ。



京急鶴見駅前。多数の道が複雑に入り組んだ賑やかなエリアだけに、どれが旧街道なのかしばらくわからなくなってしまうが、旧東海道の説明や地図のボードが随所に設置されていたおかげで、道を間違えることなく進むことができた。



本日のハイライト、生麦事件の発生現場の少し手前に、JR鶴見線国道駅がある。噂には聞いていたけど、凄い駅だ。昭和5年の開業からまったく改装されていないという駅には機銃痕が残るなど、戦前・戦中にタイムスリップしたようで背筋が寒くなる思いだ。廃墟のようだが、今もって現役の駅なのだ。いつかあらためて電車に乗って再訪したい。



生麦事件の現場にやってきた。住宅街にあるごく普通のお宅のフェンスにパネルが貼り出されている。薩英戦争にまで発展した幕末の大事件にも関わらず、う~ん、これだけか、とも思ってしまう・・・。



しかし、事件現場から西に約1km、首都高速道路の高架下に「生麦事件碑」を発見。ここが薩摩藩士に斬られた英国人が逃げた末に絶命したところらしい。高架下のため、日差しを避けることもできるし、いい風が通る。随分と長い休憩を取らせていただいた。高架道路の向こう側はキリンビールの工場。生麦1丁目にビール工場があるなんて、偶然の一致にしては出来過ぎだ。



新子安駅の近くに、「西洋野菜栽培とトマトケチャップのふるさと」と書かれたパネルがある。横浜近辺には西洋文化をいち早く取り込んだものが多いに違いない。明治29年に生産開始されたケチャップが最近復刻販売されていると聞く。



神奈川新町駅の近くに浦島浜公園という小さな公園がある。公園の壁には浦島太郎の絵が描かれているが、全国各地に見られる浦島伝説がこのあたりにもあるようだ。まあ、長年行方が知れなかった漁師がある日突然ひょっこり帰ってくるような似た話はどこにもあるのかもしれない。



横浜の中心部を北側に迂回するように、旧東海道は続く。実際のところは、今の横浜中心部こそ街道を外れた田舎だったから外国人の居留地になったということだろう。



川崎宿からおよそ二里半、神奈川宿にようやく辿り着く。かつて諸外国の領事館や士官宿舎のために接収(と言っていいものか・・・)されたお寺が並んでいる。それが嫌で屋根を壊したお寺まであったそうだ。



神奈川宿を説明するパネルが設置されている。屏風のような立体的なつくりになっているのが面白い。



京急神奈川駅。隣には新橋~横浜間の鉄道開通の際、川崎とともに中間駅として設置された日本第3の駅、国鉄神奈川駅があったのだけど、横浜駅移転に伴って廃駅となってしまった。取り残された感のある京急神奈川駅だけど、清水の舞台をモチーフにしたという味のある駅舎だ。

 


往時の神奈川宿の風景を描いた広重の浮世絵が飾られている。坂の雰囲気は今も同じだけど、絵では道の左側がすぐ海岸になっている。確かに今も道の左側は急坂になっていて、当時の海岸線が今とは随分違うことが判る。



江戸時代から続く料亭田中家。なんと明治初期には勝海舟の紹介で坂本龍馬夫人のお龍がここで仲居として働いていたらしい。



関門番所の跡に石碑が建てられている。外国人居留地に近い神奈川宿では、特に厳しいチェックが行われていたようだ。



神奈川宿から次の保土ヶ谷宿まで向かっていたのだけど、ここで痛恨の道間違いを犯してしまい、旧東海道よりかなり北側に進んでしまった。東海道に戻るには、階段で小さな丘陵を超えていかねばならない。



思わぬ遠回りをして、ようやく旧東海道に戻ってきた。「温故知新のみち」と書かれた横浜市西区が建てた案内ポールが立っている。スペースの割に情報量も多い。各行政が知恵を絞って独自の標識で競い合っているように見える。



ここまで雨が降ったり止んだりを繰り返していたけど、いよいよ本降りになってきた。コンビニで折りたたみ傘を買って、雨の中をトボトボと歩いていく。



シルクロード天王町、とある。北関東や甲信からの絹を横浜から輸出するために運び込んだところらしい。



街道を歩いていると、横浜家系ラーメンの店がやけに目につく。家系を一度食べてみたいとは思っているんだけど、とにかく暑すぎて、ラーメンなど食べる気にはならない・・・。



カンカン照りと土砂降りが交互に襲ってくる不安定な天候のなか、保土ヶ谷宿に到着。大きな案内図がある。



大名行列を模したものだろう。車道と歩道の間のポールには、チョンマゲ、帯刀、裃姿の侍が並んでいる。



台風は四国・九州方面に向かっているのに、関東地方でもゲリラ豪雨がアチコチで発生しているようだ。実際のところは、もうヘトヘトなんだけど、荒天を理由にして今日は保土ヶ谷宿で終わりにしよう。



本日の歩行軌跡。保土ヶ谷の手前で誤ってアプリを停止させてしまったので、最後の1~2kmの軌跡はフリーハンドで書き足したもの。ガイドブックでは14kmのはずが20km近く歩いたと記録されている。



江戸時代の成人男子なら、日本橋を朝に発ち、1日目は戸塚宿まで歩いたという。弥次さん喜多さんも戸塚泊まりだった。戸塚まではまだ9km以上もある。2日かけても辿り着かないとはなんとも情けない・・・。