堺市美原区探索

2019年8月10日(土)


堺市美原区の探索に出かける。おそらく大阪府内では最後に残されている未踏破の町だと思われる。以前から気になってはいたのだけど、鉄道駅もなければ、見どころも不明。ハイキング事例も見当たらなかったんだけど、最近南海電鉄が発行する「美原歴史探訪~先進文化の町をゆく~」というハイキングマップを発見した。



スタートは南海高野線の萩原天神駅(堺市)。ここから美原区に向かい、最後は再び南海の狭山駅(大阪狭山市)に戻ってくることになる。



まず駅近くの萩原神社にお参りする。菅原道真をお祀りして1000年以上という古社だ。注連柱に「皇太子殿下」「御成婚記念」の文字がある。さほど古いものには見えなかったので、皇太子とは今上天皇か平成天皇のことと思ったのだが、裏面の建立年月はなんと大正13年。昭和天皇だ。



参道に2体の人形が置かれている。「もらってください」との紙が貼られている。持ち主が可愛いので捨てるの忍びなかったのだろう。捨て猫などと違い、なんだかホノボノした気持ちになる。



さあ美原町、ではなくて堺市美原区に向かおう。阪和自動車道の高架が走る面白味のない道を歩いていくのだけど、面白味のない景色と酷い暑さに早くもウンザリしてきた。



気づかぬうちに美原区に入ったようだ。美原町が堺市に吸収されたのが13年前なんだけど、今も旧美原町のマンホールが多数見られる。ツツジとクスノキをデザインしたものだ。



美原で最大級の見どころとなっている黒姫山古墳が田んぼの向こうに見えてきた。百舌鳥と古市の両古墳群の丁度真ん中にある黒姫山古墳は世界遺産登録騒ぎから取り残されたような存在だ。



全長114m。世界遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群の49基の古墳のなかでは15位に相当する。反正天皇の時代、この地を支配していた丹比(たじひ)氏の墳墓だというが、百舌鳥古墳群にある反正天皇陵と規模はさほど変わらない。



お宝的なものはすべて盗掘されたようだけど、それでも埴輪だとか甲冑・刀剣など、埋葬品の出土数の多さでは、天皇陵を凌駕していたらしい。古墳の傍には復元された石室があるが、大規模なものだ。往時の丹比氏の力の大きさが窺い知れる。



古墳の前にはガイダンスのための建物もあったりして、一時はPRに力を入れていたようなんだけど、この日見る限り、無人で、映像ホールにも入れなかった・・・。



ガイダンス施設にあったパンフレットだけもらって帰る。空からの映像では典型的な前方後円墳なんだけど、この規模になると周囲を歩いても形を実感できない。



古墳前のバス停。南海バスと近鉄バスがばバス停を共有している。そればかりか、同じ行き先に向けて1本おきに南海と近鉄が交互に運行しているようだ。



古墳からしばらく歩くと、「堺市立みはら歴史博物館」があり、黒姫山古墳からの出土品も多数展示されている。古墳前のガイダンス施設の機能は、ここに移転しているのかもしれない。



丹比神社にも立ち寄る。名前のとおり、丹比氏が創建したもののようだが、ここの境内に反正天皇の産湯に使ったと伝わる古井戸がある。丹比氏とは反正天皇と強い繋がりのあった氏族のようだ。



テクテクとハイキングマップに従って歩き回るけど、その多くは長閑な田園風景が広がる地域。こんなところを歩くのは嫌いではないのだけど、えげつない暑さには参ってしまう。涼むための日陰を見つけることさえ容易ではない。



美原区役所にやってきた。もとは美原町役場だったのだろうか。長閑な田園地帯らしからぬ結構凝った造りだ。



市役所の向かいに、河内鋳物師のモニュメントがある。美原はかつて国内随一の金属鋳造技術の集積地だったらしく、鍋・釜や鋤・鍬から梵鐘に至る様々な金物を製造していたらしい。丹比氏の力の源泉だったのかもしれない。堺の鉄砲鍛冶も河内鋳物師からの派生なんだそうだ。



船渡池。美原最大の溜め池を中心に、公園が整備されている。日陰のベンチに座り込んで、水をガブ呑み。ようやく落ち着いて休憩を取ることができた。



広い公園内には遊具広場やバーベキュー広場などの他、自然と触れ合うことができる水辺や野鳥観察小屋などもあったりする。子供たちはどうやらザリガニを取っているようだ。



美原巡りも終盤、東除川に沿って狭山方面に向かう。菅生天満宮という神社の境内に、菅原道真が生まれたと言われる澤「菅澤」がある。昔、境内にあった寺の住職が、菅公はこの澤で忽然と誕生した、との珍説?唱えたそうだ。今に伝わる話だから、当時はそれなりに広まったんだろうか・・・。



PLの塔が見える。正確には「超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔」というらしい。少し足を伸ばせば富田林市に入れるようだ。



富田林に向かってもいいと思ったけど、今日はマップに従って大阪狭山市へ。狭山池築造1400年記念のマンホールを見つける。



大阪狭山市では狭山池に次ぐナンバー2(たぶん)の大農池の堤防を歩いて狭山駅へ向かう。徐々に日が西に傾いてきた。あまりの暑さに休憩ばかりとって、随分時間をかけてのウォーキングになった。



溜め池の多い地域なんだけど、もともと溜め池だったところが埋め立てられて住宅地や農地に転用されたところも多いように感じる。このあたりの窪んだ地形は、いかにも元々は溜め池だったように見えてならない。



28kmも歩いているように記録されているけど、休憩ばかりしている間にGPS信号の乱れを拾っているようだ。実際のところは15kmくらいだろう。