藤沢宿~大磯宿【東海道五十三次 -4】

2019年10月14日


突然思いついたように真夏に始めた東海道五十三次。2か月ぶりに藤沢に戻ってきた。まだ6つめの宿場町だ。一体いつになったら京都に辿り着くのだろうか。あいにく藤沢は雨模様・・・。ますます先が思いやられる。



JR藤沢駅から1kmほど北に歩いて東海道に戻る。まずは前回訪問した遊行寺の裏門にある藤沢宿関連資料の展示を見ることができる「ふじさわ宿交流館」を訪問する。



武相四宿場通行手形スタンプラリーが開催されていることを発見。タイトルは「武相」だけど、両州10宿場のうち、神奈川・保土ケ谷・戸塚・藤沢の4宿場のみが対象になっている。対象4宿場の最後、藤沢で気付いたのでは遅すぎる。



藤沢の街中を突き抜ける県道を西に進む。本陣跡などの案内板は多数あるけれど、旧街道の面影もない自動車道のうえ、実物の建物もないので、あまりピンとこない。



県道は国道1号線にぶつかる。四ツ谷というT字路を右左折する車が渋滞するのを横目に、交差点を左折して小田原方面を目指す。



相模の山中にある大山阿夫利神社は、かつて江戸の人々にとっては富士山に匹敵する参詣の対象だったらしい。関東各地にある大山道のひとつが四ツ谷から北に続いている。参詣道の入り口には厳めしい不動明王が、そして鳥居からは(たぶん)天狗(鼻が折れているけど)が睨みつけている。



国道1号線の歩道を歩き続けて茅ケ崎市に入る。湘南のど真ん中、のはずなんだけど、海岸線は遠く、汐の香りも感じられない。



茅ケ崎市に入る手前から国道1号線は徐々に狭くなり、片側1車線の落ち着いた道になってきた。さらに松並木もあったりして、ようやく街道歩きの気分が乗ってくる。



茅ケ崎市のコミュニティバス「えぼし号」。茅ケ崎の沖合にある有名な岩礁だ。1kmほども南に行けば烏帽子岩を真正面に見ることができる海岸に行けるはずだけど、寄り道するほど体力の余裕がない。



茅ケ崎の一里塚。当時の姿をかなり残しているものらしい。もっとも道路の拡幅のため、対になる一里塚は撤去されて、今は一里塚公園として名前のみが残っている。




何があったにかは判らないけど、高速道路はひどく渋滞しているようだ。長い距離をテクテクと歩いているときに、渋滞表示を見つけると、実のところちょっと嬉しくなってしまう・・・。決して他人の不幸を喜んでいる訳ではなく、いざという時に最後に頼りになるのは自分の足だけだ、と思っちゃうのだ。



旧相模川の橋脚跡。今日の行程で最も楽しみにしていたものだ。源頼朝時代に架けられたと伝わる橋の痕跡が、関東大震災による隆起で水田に突如現れたという。これが頼朝が落馬して、ついには死亡したと伝わる橋なんだろうか。



橋脚跡の脇には二本の石碑が立っている。1本は「史跡」を示す石碑。これは当然納得だ。そしてもう一本がなんとこの橋脚が「天然記念物」に指定されていることを示している。天然記念物って、人工構築物も指定されるものなんだろうか・・・?



湘南を歩いていて感じるのは、やけに街中に消火器が目立つということ。家々の玄関や道路脇など、至るところに設置されている。



茅ケ崎市を抜け、平塚市に入る。新幹線で何百回とビュッと通り過ぎてはいるけれど、実質的には初訪問の街だ。



平塚市に入って間もなく相模川を渡る。橋脚が残る旧相模川からは500mほども西になる。長い月日を経て川の流れが移っていったのだろう。



平塚の市街地。隣接する茅ケ崎とか大磯が風光明媚な観光地のイメージが強いのに対して、関西人にとって湘南地域の中心地と言われる平塚には馴染みが薄い。



平塚の市街地を貫く道路には、かつてここが宿場町であったことを示す石碑や案内板が設置されてはいるけれど、旧宿場の雰囲気はほとんど残されていない。旧宿場をウリにしなくとも、十分に町は賑わっているようだ。




強いて旧宿場らしい構築物を見つけるならば、消防団の建物が江戸時代風の設えになっていて入り口のシャッターに歌川広重の浮世絵が描かれていることくらいだろうか。



大磯町に入る。平塚宿から次の大磯宿までは僅か1里ほど。宿場間の距離にかなりのバラつきがある。



平塚市と大磯町の境界となる花水川の川岸から高麗山を望むことができる。



ここが広重が「平塚縄手道」を描いた場所だ。松はともかく、大きくは変わるはずがない山の形は相当デフォルメされていることがわかる。



JR大磯駅で今日は終了。小雨が一日中断続的に降っていたが、大磯駅に到着する手前から雨脚が急に強まってきた。



本日の歩行軌跡。21km。



雨も強まってきたことだし、大磯宿の探索は明日のこととしよう。