二川宿~赤坂宿【東海道五十三次-18】

2020年3月20日


東海道二川宿からスタート。今日は吉田宿、御油宿を経て赤坂宿まで歩くことにしよう。曇りがちだった昨日と異なり、今日は青天だ。



二川から吉田宿(豊橋)に向かう。田畑と住宅が混在する真っすぐな道を進む。何の変哲もない道だけど、松の植樹が進められている。松並木を再現することで風格ある旧東海道の雰囲気を取り戻す街づくりの一環だろう。



豊橋は東海地方で唯一の路面電車が走る街だ。多くの路面電車が自動車増加に伴う交通渋滞を解消するために消えていったけど、ここは道幅も広く路面電車と自動車がうまく共存できているように見える。



吉田城下を守る東の惣門。小さいなぁ…と思ったら、これは縮小復元されたもののようだ。番所があり、夜間は閉じられたらしい。



オリンピックの聖火リレーが豊橋も通るようで通行規制予告が多く見られる。以前から不思議なのは、明治維新後、宇和島藩の支藩でしかない3万石の伊予吉田藩と紛らわしいということで、7万石の三河吉田藩の方が名称変更を強いられ、豊橋になったことだ。



寄り道して今は豊橋公園となっている吉田城址を見学に行く。明治初期の失火で大半の建物は焼失してしまったというが、野面積みの石垣などがしっかりと残されている。



一見天守に見えるが、これは鉄櫓と呼ばれる隅櫓。戦後再建されたものだ。吉田城にはもともと天守は無く、本丸御殿と4つの隅櫓で構成されていたそうだ。



資料館になっている鉄櫓に登ってみる。城郭の規模はかなり広いことに驚く。豊川が自然の堀になっていて、家康の城代酒井忠次が猛攻する武田軍を相手に守り抜けたことも頷ける。



吉田城は明治以降は陸軍の駐屯地となっていたようで、門の横にはいかにもと思わせるようなコンクリート製の哨舎が今も残っている。



吉田宿本陣跡の碑が立つ鰻屋「丸よ」の玄関横に、ここが「べっぴん」という言葉の発祥した店だとの説明がある。明治初期、「すこぶる別品」の看板を掲げて鰻を売り出したところ大好評を博したという。



ちょうど昼時。鰻も食べたかったけど、文政年間創業で長年吉田宿名物として数多の旅人に愛されてきたという「きく宗」の菜飯田楽をいただく。秘伝の味噌を塗った豆腐田楽と大根の葉を混ぜ合わせた菜飯の相性は抜群だ。



豊川沿いに豊川稲荷の遥拝所がある。遥拝所の意味は分かっているけど、未だにお参りの作法が分からない。石碑に向かって二礼二拍手一礼をするのだろうか…。そもそも豊川稲荷って、稲荷なのに神社ではなく寺だという。色々ととても気になる。



20人ほどの団体が列をなして歩いている。おそらくは旧東海道を歩く団体だ。東海道ウォークの催しは多く見かけるが、こうして隊列を組んで、ペースを合わせて歩くのは苦手だ。山でも平地でも、自分のペースで歩き自由に寄り道できる単独行が性に合っている。



子だが橋の碑。その昔、祭礼の日に最初にここを通った若い女性を人身御供にする習わしがあったという。ところが、最初にやってきたのは我が娘。しかし「我が子だがやむを得ない」と生贄として神に祀ったという。



JR飯田線。天竜峡を通って、諏訪湖の近くで中央本線と合流するまで、200㎞ほどもある路線だ。この先2~3㎞ほど先に気になる豊川稲荷がある。立ち寄ろうか散々悩んだ末に今回は見送ることにする。



旧東海道はJR東海道線からどんどん離れて、静かな町を通り抜けていく。



名鉄豊川線。名鉄名古屋線の国府駅から分岐して豊川稲荷まで走っている。豊橋から先、名古屋の宮宿までの旧東海道は、JR東海道線ではなく、名鉄名古屋線と並行している。



国府駅近くの大社神社。出雲大社から分祀した神社だという。14代将軍徳川家茂が長州征伐に行く際、ここに短刀を奉納したという。が、家茂はその後大坂城で急死し、長州征伐も失敗に終わる。神頼みも空しく、徳川幕府の凋落は止めることはできなかった。



あまり見るべきものの少ない道が続き、ようやく御油宿に到着。松並木資料館なるものがある。他の松並木とはちょっと格が違う。御油の松並木は国の天然記念物なのだ。




御油宿。いかにも旧街道という感じの道だけど、あまり遺構は残されていない。



御油宿と次の赤坂宿の間は東海道53次の最短区間。わずか1.5㎞だ。そんなこともあって尻尾の短い猫を御油猫というらしい。短い区間だけど素晴らしい松並木の道が続く。



赤坂宿に到着。どうしてここだけ2つの宿場町が近接して設置されたのだろうか。鄙びた雰囲気だけど、御油、赤坂ともに、江戸時代には多くの飯盛り女を抱える街道屈指の遊興色の強い活気のある宿場町だったらしい。



赤坂宿公園。赤坂宿の案内地図などもあり、観光の中心となっている場所だ。高札場なども再現されている。



赤坂宿公園で本日は終了。名鉄名古屋線の名電赤坂駅から帰路につく。調べてみると50年ほども前から無人駅になっている。



本日の歩行距離は約25㎞。



18日めにして赤坂宿。東海道中膝栗毛の弥次喜多の赤坂泊は9日めだ。飲んだり食ったり、女にちょっかいを出してばかりの呑気な旅と描かれているけど、一日10時間、40㎞のペースは当時の標準的なもの。今更ながら江戸時代の人々の健脚ぶりには愕然とする。