出雲・因幡街道散策:上月城跡~平福宿(佐用町)

2020年7月5日


兵庫県の西端、佐用町にやってきた。この町の自慢は広大なヒマワリ園と西はりま天文台。町のイメージキャラクター「おさよん」もヒマワリの帽子を被り、星の杖を手にしているが、今日の目的は星でもヒマワリでも無い。佐用町の気になる史跡を歩き回るのだ。



JR姫新線で佐用町南部にある上月駅にやってきた。早朝に家を出て1~2時間に1本という列車で3時間ほどもかかったぞ。100㎞ほどの県内移動とは思えない長旅のため到着時には既に体力消耗が激しい…。



佐用町訪問の最大の目的は、山中鹿之助の奮戦空しく尼子氏再興の夢が潰えた上月城跡に立つこと。上月駅から歩いて15分ほど。上月歴史博物館にやってきた。ところが玄関の幟には「軍師官兵衛ゆかりの地」とあるではないか。ここの主役は尼子党だろうが‼



上月城への登山口に、この地で自刃して果てた尼子党の大将、尼子勝久の追悼碑がある。その横に立つ小ぶりな供養碑が、負けても負けても尼子再興に持てるすべての力を注ぎ続けた山陰の麒麟児の異名を持つ山中鹿之助幸盛のものだ。



上月城跡に続く山道を登っていく。最近訪問した八上城や城山城などと比べると、標高も低く規模も小さい。尼子再興のため織田信長の力を借り、最前線の城の守備を任されたものの、この城では3000ほどの尼子党で3万の毛利軍に対抗するのはかなり厳しそうだ。



細長い尾根に、いくつかの曲輪が並んでいたようだ。



本丸跡には赤松正範の供養塔が立つ。毛利に従属していたものの、秀吉軍に包囲され落城、城兵ばかりか女子供まで籠城軍は皆殺しにされたという。この赤松正範の妻が黒田官兵衛の義姉だったという。



本丸跡から上月の街を見下ろす。赤松氏から奪取した上月城を任された尼子党は迫りくる毛利の大軍を見て、秀吉らの援軍が来ると信じて疑わなかったに違いない。結局信長の命令で上月城は捨て駒にされたのだが…。



堀切の跡も残っている。一説には、鹿之助らは秀吉からの退去勧告を拒否し、仇敵毛利の攻撃を正面から受け止めたとも聞く。赤松にせよ、尼子にせよ、徹底抗戦の末の落城の現場では言葉にし難い特別な雰囲気を感じる。



上月城跡から下山し、あらためて山容を振り返る。やはり比較的攻めやすい城のように感じる。



上月から北へ、千種川に沿った旧出雲街道を歩いて佐用に向かう。姫路からの道は佐用から鳥取に向かう因幡街道と、松江に至る出雲街道に分かれる。佐用は山陰・山陽間の交通の要衝であるだけに、歴史上さまざまな勢力争いの場となってきたところだ。



出雲街道の一里塚の跡が河原に残っている。旧東海道でいくつもの一里塚跡を見てきたが、ちょっとテイストが異なる。



おそらくこれが福原城(佐用城)があった山に違いない。赤松一党は、先ほど訪問した上月城、これから訪問する利神城、そしてこの福原城の三城を連携させてこの地を防衛していたそうだが、福原城も秀吉・官兵衛に落とされてしまったという。



田んぼが広がる地域なんだけど高架鉄道が走る。智頭急行だ。もともと国鉄が建設中だったものが、国鉄の経営悪化により3セク化して高速鉄道として完成されたものだが、3セクとしては珍しく黒字経営だ。智頭急行効果の下にはJR姫新線が走っている。



因幡街道に沿った智頭急行線と、出雲街道に沿った姫新線が交わるのが佐用駅。駅前の道で珍しい交通標識を見つける。偶数日と奇数日ごとに駐車できる路側が変わるというものだ。



佐用警察の前に「雲州松江藩役所並本陣跡」の碑がある。佐用は宿場町なんだけど、これ以外には宿場町の遺跡は無さそうだ。佐用を後にして今も因幡街道の宿場町の雰囲気が残るという、平福に向かうことにする。



上月~佐用は出雲街道、佐用~平福は因幡街道を歩いていく。佐用を代表する古社、佐用都比賣(さよつひめ)神社に立ち寄る。山中鹿之助が尼子再興を祈念して燈篭を奉建したり、宮本武蔵が諸国修行に出かける時に参籠したなどの伝承が残る。



後醍醐天皇駐蹕之碑がある。隠岐に流されるために出雲街道を進んだ後醍醐天皇がここで一夜を過ごしたんだそうだ。



上月から佐用川を何度も渡ってきたけど、多くの橋には星をモチーフにしたデザインが施されている。七夕伝説が残る交野市など星の町を標榜する町はいくつもあるが、佐用は「星の都」と称している。



平福の少し手前にある金倉橋は宮本武蔵の決闘の地と伝わるところ。なんと武蔵は未だ13歳。初決闘だったという。橋の袂には「護美捨てるべからず 武蔵なげき候」という平福代官の布告がある。なかなか洒落の効いた標札だ。



平福宿にやってきた。街道沿いには格子を持つ家や土蔵などが並んでいる。旧本陣前には鐘楼のように大きな提灯が吊り下げられている。



智頭急行平福駅。宿場町を意識した落ち着きのある和風の駅舎だが、なんとウィキペディアによると一日の平均乗降人数は、な、な、なんとたったの26人の駅なのだというから驚くばかりの豪華さだ。駅舎の向こう側に壁のように聳えているのが利神城があった山だ。



上月城や福原城とは比べ物にならないほど険しい山の頂上に利神城跡がある。今も石垣などが残っているらしいが崩壊が激しく、残念なことに今は登城はできない。国史跡指定に伴い補助金も得たらしく修復を施しているところのようだ。



今はありし日の山城の姿を見ることができるアプリで、利神城の威容を楽しむしかない。専門家の評価によれば、朝霧も深く竹田城を凌ぐ天空の城となりうるという。修復が終われば是非とも登ってみたい。たくさんの人が平福駅で降りる日が待ち遠しい。



本日の歩行軌跡。途中でスマホアプリが止まってしまったのでフリーハンドで赤線を書き足している。おそらく歩行距離は12㎞くらい。帰りの電車も少ないので乗り遅れると大変だ。忙しなく平福駅から帰路につく。



平福からあと2駅進めば岡山県の宮本武蔵駅。さらにその先は鳥取県になる。いつかこの先を歩いてみようかとも思う。旧東海道歩きも面白いけど、因幡街道のような鄙びた風景のなかのウォーキングも楽しそうだ。