2020年10月19日
織田信長に反抗して別所長治以下が籠城した三木城址には何度も訪問したが、今日は「三木の干殺し」とも呼ばれるほどの徹底した兵糧攻めのために秀吉が築いたという40にも及ぶという付城の址をいくつか探索してみたい。
神戸電鉄の三木駅にやってきた。隣接する住宅火災により、落ち着いた木造駅舎も全焼してから2年以上経つが、今も駅舎は仮設のままだ。三木市の玄関口だけに早く再建してもらいたいものだ。
三木の市街地を貫く美嚢川の橋上から、こんもりとした三木城址の緑が見える。今日は三木城址訪問は後回しにして、秀吉が築いた付城に向かって南に進む。
廃線となった三木鉄道の三木駅跡は鉄道公園になっている。まさかとは思うが、神鉄三木駅が再建されないのは、巷噂される神戸電鉄粟生線の廃止の議論が進んでいるからなのだろうか。
さらに南に進み、「道の駅みき」までやってきた。ここまで来ると道路は立派だけれど、住宅などはなく、ロードサイドに大きな施設が建つばかりだ。道の駅の隣には、私立の多目的ホールが建っている。
三木ホースランドパークにやってきた。ありがちな乗馬クラブではなく、JRAが共同出資している本格的な馬事公苑だそうだ。この馬事公苑のなかに、ひとつめの付城、高木大塚城跡があるはずなんだけど、手元の地図がショボくて見つからない…。
やむなく、二つ目の付城、高木大山付城跡にやってきた。立派な案内板が設置されていて、詳細な紙資料も用意されている。ただ、付城跡には土塁や堀の遺構も見られず、在りし日の付城をイメージすることは難しい。
高木大山付城跡の真ん前にある広大な馬場では、何頭もの馬が駆け回っている。
高木大山付城跡から10分も歩けば、次の付城、シクノ谷峰構付城跡がある。やはりとても詳細な説明が記載された案内板がある。
ちょっとした山登りのような道を登って付城跡に向かう。このように高所にあることが判るだけでも付城の役割が少し理解できるように感じる。
小高い丘の上に、主郭や曲輪の跡が復元されている。主郭は土塁で防御され、堀も張り巡らされていたようだ。素人なりに曲輪などの大きさから推定するに、数十人の兵が駐留できるくらいの規模だったようだ。
次の付城跡に向かう道は黄色い花で覆われている。セイタカアワダチソウだ。以前は凄い勢いで在来植物を侵略する外来種として毛嫌いされていたのが、最近ではその種の話を聞くこともなくなり、日本の風景に馴染んでしまったように思える。
明石道峰構付城跡にやってきた。シクノ谷峯構付城跡から、やはり歩いて10分くらいだ。歴史の森公園として整備されていて、他の付城とはちょっと格が違うようだ。
歴史の森公園のなかには、どういうことか、ターゲットバードゴルフコースが設置されている。ゴルフのサンドウェッジに似たクラブで、バトミントンのシャトルのようなものを駕籠に入れる競技のようだ。なんと27ホールも設置されている。
ターゲットバードゴルフのプレイをしばらく見学した後、坂を上って付城跡を目指す。あまり訪問する人がいないのか、道にも蜘蛛の巣が蔓延っている。
かなり大きな規模の付城だったようだ。曲輪も広いうえに、曲輪の櫓台などもある。100人以上の兵が駐屯していたのではなかろうか。
東郭、主郭、西郭と歩き回り、出入り口の虎口なども探索するが、曲輪の端に行けば行くほど、整備がされておらず、蜘蛛の巣と戦いながらの藪漕ぎのような探索になる。
わずか3つの付城探索に終わったが、三木城址にも立ち寄ることにしよう。歩道の無い道をトボトボと歩いていく横を、車が猛スピードで走り抜けて行く。こんなところを歩いているヤツがいるなんて想像していないかのようだ。
猛スピードで走る車の横を歩くより、蜘蛛の巣の方がマシと考えて、三木山森林公園のなかを歩くことにする。
久しぶりに公園内に入ったが、街中の公園とは異なり、自然そのままの里山のような公園だ。道を示す赤テープがところどころに付けられていて、山中にいるような気持ちになる。
ひどく立派なキノコも見られる。毒キノコで知られるタマシロオニタケ(あるいはシロオニタケ)のように見えるけど、半端なく大きい。手元にあった図書カードを横に置いてみたが、傘はカードの3倍くらいもある。
三木城址には別所長治の辞世の句が刻まれた石碑が立つ。「今はただ恨みあらじ 諸人の命に代わる我身と思えば」。本当に「恨みはあらじ」なのかなぁ…。戦闘に敗れるのではなく、兵糧が尽きて降伏・切腹するのは無念の極みではなかっただろうか、と思ってしまう。
今も残る三木城北側の絶壁。三木城の守備力の高さが窺える。力攻めをするより兵糧攻めをする方が、損害が圧倒的に少ないことは理解できるけれど、その一方で何とも残酷な戦法だとも感じる。戦争はどのみち残酷なものだとあらためて思う。
歩行距離は9㎞。今日訪問した付城(★印)はどれも三木城から約2㎞の距離。三木城の周囲に40の付城が築かれたというが、半径2㎞の円周上に単純に40の付城を並べると約300m間隔となる。鉄壁の包囲によって秀吉がいかに三木城を孤立させたかが良く理解できる。