2020年10月11日
山城ファンに人気が高い感状山城跡を訪ねる。感状山からは三濃山に向かう縦走ルートを歩く予定だ。5時間ほどと思われる久しぶりに長めの山歩きに、たっぷりの水分と食料、雨具、ファーストエイドなど、いつもより充実した装備で挑む
相生市のキャンプ場、羅漢の里から出発する。まずは羅漢石仏に向かう山道を経て感状山への登山口を目指す。
感状山への分岐点に、ヤマビル注意の貼紙がある。かなり涼しくなったのに、未だヤマビルがいるのか…。念のためにと色々とリュックに詰め込んできたというのに、肝心のヤマビルスプレーを持ってこなかった…。なんという失策だ。
城址がある感状山の山頂に向かい整備された丸太階段を登っていく。赤松氏が白旗城と連携して新田義貞軍の足利尊氏追撃の足止めをした城だ。戦後尊氏から感状(軍功に対する表彰状みたいなもの)を貰ったことがこの山の名前の由来だ。
丸太階段が終わると、おそらくは700年以上前のものと思われる石段や石垣が残されいる。古城ファンには堪らない光景が広がる。斜度は厳しいものではなく、攻め口が限られているとはいえ、素人目には特段防衛力が高い城とは思えない…。
物見台と言われる大きな岩がいくつも重なったところにやってきた。麓の道の車の往来まで手に取るように見ることができる。視認はできないけれど、白旗城まで直線距離で8㎞だから、狼煙などで連絡を取り合っていたのかもしれない。
感状山城はいくつかの曲輪が並ぶ連郭式の城郭で、樹木も伐採されているため往時の曲輪の規模が実感できるようになっている。それにしても歴史ロマンに浸る気分に水を差すような「Ⅲ曲輪」というネーミングはいかがなものか。ローマ数字は無かろう。せめて漢数字だ。
ヤマビルが気になって、ズボンの裾は靴下の中に入れ、タオルで首元もガードし、立ち止まることもなく登っていく。幸いなことに、多少の急坂はあるものの、登山口から休憩無しで頂上まで登っていけそうだ。
立派な石垣が見えてきた。中世の城郭らしく素朴な石積みだ。大きな地震でもあれば、容易に崩壊してしまいそうにも思えるが、700年間風雪にも戦乱にも耐え、往時の姿を残していることに驚く。
比較的大きく成型された隅の2つの石は近年補修の際に組み込まれたものだろう。おそらく築城時の石は、人が抱えられる一辺20cm以下のものだと思える。それでも1個20㎏ほどにもなる。領民にとっては相当厳しい労役であったことが窺える。
もっとも、多くの播磨の山々に共通することだけど、山には岩がゴロゴロしているので、山の外部から石を運び込むようなことは無かったのだろう。
登山口から30分ほどで感状山の頂上まで登ってきた。ここに感状山城の本丸があったという。かつての建物の礎石らしきものが、残されているが、どのような建物であったのかを想像することは難しい。
礎石のひとつに腰を下ろして水分を補給していたら、なんと靴下の上にヤマビルを発見。既に血を吸って丸くなっている。慌てて退治したが、厚手の靴下には血が滲んでいる。登山中はノンストップだったし、3分ほど腰を下ろしただけの頂上には草も木も無いのに…。
幸い軽傷だったとはいえ、ヤマビルにやられて意気消沈。三濃山までのトレッキングへの意気込みも半減してしまうが、気を取り直して感状山から北に向かって歩き始める。城址までの整備された道とは違い、道は細く、路面も悪いが、一本道なので迷うことは無さそうだ。
ところが、1㎞ほども歩くと、道は膝の上までにも達するシダに覆われる。多少の藪漕ぎは覚悟はしていたけれど、問題はヤマビルだ。
頑張って進んでいったけど、シダなどの藪はさらに深くなり、胸の高さにまで達するほどにもなった。先を見れば、延々とこのような藪道が続いている。このまま進むことは、ヤマビルの群れに身を投げ出すようなものだ。もはや先に進む気力も失せ、撤退を決意する。
登ってきた道を空しく引き返す。下山後、体中を再点検すると、さらにもう1ヶ所、足首近くをヤマビルにやられて出血していることに気付く。こちらも深刻な傷ではないが、撤退が正解だったと思い知る。気を取り直して、せめて瓜生の石仏を観にいくことにしよう。
苔むした渓流沿いの道を進んでいく。水墨画で見るような風景が続く。苔むした岩、灯篭、お地蔵様…。モノクロ写真にした方が良かったかもしれない。
巨岩の間をすり抜ける。嘘つきが通ると岩が崩れると伝えられているらしい。こんなところで待ち構えるのではなく、大嘘をついて人を傷つけたりお金を奪っても罪の意識さえなく平然としている大悪人を凝らしめて出掛けてもらいたいものだ。
神秘的な雰囲気が漂う道をさらに進むと洞窟が現れる。
瓜生の羅漢石仏。岩窟内に釈迦如来、文珠菩薩、普賢菩薩、そして十六羅漢が並んでいる。詳しいことは判らないらしいが、おそらくは戦国時代の武者たちの霊を弔う供養仏であったのではないかと考えられているそうだ。
羅漢石仏が設置されている岩窟のまわりにも、立派な石垣が施されている。感状山城のように、地域の権力者でもなければ、このようなものは造れないと思うのだけれど、誰がいつ、羅漢石仏を造ったのかさえ、確かな話は伝わっていないという。
羅漢の里の入口にも、立派な石塔が立っている。見たところ単純に石を積み上げただけのものだ。接着剤もセメントも使わず、なぜ崩れずに立ち続けているのだろうか…。説明板には供養塔とあるが、誰を供養したものかの説明さえないのが残念だ。
元々は赤線のルートで周回縦走するつもりだったのだけど、未だ活動中のヤマビルと群生するシダを前に撤退。青線のルートを往復するだけとなった。結局歩行距離は5㎞にも及ばなかった…。