茶臼山&宝珠山(赤穂坂越)

2020年8月9日


先日坂越駅から雄鷹台山に登った際、10年以上前に千種川を挟んで雄鷹台山と向かい合う宝珠山に登ったことを思い出す。大切に保管しているJR西日本の「駅からはじまるハイキング」全50コースを制覇した時の地図のコピーを取って久々に出かけることにしよう。



千種川の向こうに茶臼山が見える。2008年の大晦日にここを歩いたはずなんだけど、ひどく寒かったこと以外の記憶はほぼ無い。当時はJRハイキングであまりキツイと感じることは無かったのに、還暦も過ぎた今では半分山歩きの12㎞は決して楽な道とは思えない。



古い港町の風情が残る坂越の街並みは後回しにして、茶臼山方面に登っていく。なんと南朝の忠臣、児島高徳の墓地があるようだ。JRのマップにもちゃんと記載があるではないか…。11年前にも墓参しているはずだが記憶がない。時の流れと老化を痛感する。



山に登っていくと坂越の街並みと海がよく見渡すことができる。いくつもの島々に湾を護られ、坂越が古くから瀬戸内海運の中継点して栄えた天然の良港というのが良く判る。



車でも通れそうな整備された道が続く。坂の勾配も大したことはない。暑さと湿気に耐えながら坂道を登っていくうちに児島高徳の墓所を通り過ぎてしまっていることに気づく。もはや戻るには遅すぎる…。



山には椿の木が多い。ツヤツヤとした椿の実が成っている。冬も終わりころになれば、山は赤い椿の花で華やぐに違いない。



山全体が四国八十八ヶ所のミニ遍路になっていて、多くの(おそらく八十八体の)石仏が祀られている。この1週間ほどの間でも昆陽寺(伊丹)、満願寺(宝塚)、長明寺(西脇)と数多くのミニ遍路を目にしている。



茶臼山の山頂まで登ってきた。わずか160mほどの低山だけれど坂越湾から瀬戸内海が一望できる。室町時代にはここに茶臼山城があったらしい。きっとここから坂越港に睨みを利かせていたのだろう。



和田備後守範長の墓所がある。児島高徳の義父にあたる人らしい。足利尊氏からの勧誘を頑として撥ね付け、南朝軍に馳せ参じるところをここで足利方との戦いになりここで討死したそうだ。墓参できなかった児島高徳の分までしっかりと手を合わせる。



雄鷹台山と同様、この山も岩の多い痩せ山のようで高木はあまり見られない。日影もないザレ場を歩いていると体力が一気に消耗していく。



宝珠山の頂上。標高は182m。ベンチはあるけれど日差しがきつく座る気になれない。もう汗ビッショリで、この先を進むかどうか迷い始める。このまま下山して児島高徳公の墓所参りをして帰ろうかという気が持ち上がってくる。



しかも道のどこかで持ってきた地図を失くしてしまう。もっとも一本道なので迷うことはないはずだ。木陰になった東屋でしばらくの休憩をとった後、強い日差しのなかを歩き続ける覚悟を決めて進み始める。一体どっちに道は続いているのだろうか。



な、な、なんと「駅から始まるハイキング」のマップが落ちている。持ってきたのはコピーだけれど、落ちていたのは良質の紙のオリジナルマップだ。ここまで誰とも出会っていないのに、同じマップを持って猛暑の山道を歩いている同好の士がいたことに驚く。マップの汚れ具合からほんの1~2時間前にここを通過したのではないだろうか。



おそらく宝珠山より高いところまで登っているはずだけど山の名前も判らない。ただただ進むばかりだ。



どうやら山塊の東端近くにまでやってきたようだ。坂越湾に向けていよいよ下山が始まる。ザレ場で転ばないよう、用心しながら下っていく。



道の横に境界フェンスが続いている。石川島播磨重工業(IHIとは修正されていない)の標識のあるチェーンフェンスが延々と続き、次には関西電力の金網が始まる。両社ともに相生湾に大きな事業所を構える会社だ。道は相生市と赤穂市の市境にもなっているようだ。



火力発電所の煙突を目指すように山を下っていく。煙突の向こうに広がるのは相生湾のようだ。



「みかんのへた山古墳」の説明板が現れた。ここが「みかんのへた山」という妙な名前の山の頂上になるらしいが、実は径30mの円墳なんだそうだ。生い茂った草を掻き分けて探索するが、どこが古墳なのやらさっぱり判らない…。



下山したのは坂越湾に浮かぶ鍋島の真ん前の漁港。ここから日陰の全くない海岸沿いの舗装道を歩いて坂越の町まで戻らなければならない。



採れたての牡蠣や魚を食べることができる海鮮レストランがある。直売もしているようだ。冬には牡蠣を求めて多くのお客さんで賑わうところだ。



波も穏やかな坂越の海岸には、遊泳、ボート遊び、バーベキューなどを楽しむ人たちが見える。が、真夏の日曜日としては人は多くはないようにも思える。やはりコロナの影響があるようだ。



坂越港。港を取り仕切っていた浦会所の建物など、立派な建物が残されている。北前船も立ち寄っていたという坂越の繁栄ぶりが感じられる。



素晴らしい町並みの保存状態だ。中には再建されたものもあるだろうけど、江戸時代の港町の風情が今によく伝えられている。道幅が広いのは、港からの揚げ荷や積み荷を運ぶ馬車や荷車のためかもしれない。



大通りの広さとは対称的に、路地は随分と狭いのだけれど、これがまた風情がある。表通りの見栄えだけ整えるのが精一杯の伝統的建造物群保存地区が多いなかで、坂越の町は表も裏も美しく風格がある。



暑さでヘトヘトになりながら坂越の駅まで戻る。11年前の記録を見ると3時間弱で歩いているのに、今日は休み休みとはいえ5時間近くも掛かった。暑さのせいだけでは説明できない…。体力の衰えを認めざるをえない。